マリー(?)「そう……そういう事……ふふ、ふ、ふ……」
事件の黒幕はアイビスの外務高官でもあるマリオット男爵。
だけどアルセーヌさんはまだ、これがただの火遊びだと思っている模様……だめじゃんこの人!
枢機卿直々のペンを剣に換えての奮闘も空しく、今にも離岸してしまいそうなリトルマリー号。
そこに現れたのは! 現実のマリー船長だった!
マリーの一人称に戻りますよ!
―― パキッ
足元で何かが割れる音がした。これは斧を振り上げてリトルマリー号を破壊しようとしていたマリオット卿の、片眼鏡が割れた音だと思う……私は彼の顔面から舷側板の上へと飛び移る。
「な……なんだこの小娘は!」
水夫の一人、さっきマリオット卿に斧をもぎとられた男が私にそう叫ぶ。
「なんだとは何だよ、この船は国王陛下の御上船、リトルマリー号なんだよ!? グラスト海軍が隅から隅までピッカピカのガッチガチに整備してくれた御目見えの船だよ、それを何だよ! 火事でもないのにそんな斧でぶっ壊そうだなんて、正気じゃ無いよ!!」
私は舷側板の上で芝居がかった大見得を切り、真実のマリー・パスファインダーさんを指差す。
「やい! そこのマリー・パスファインダー! アンタ仮にもこの船の船長だって言うんならねぇ! 大事な船意味もなくぶっ壊そうとしてる奴、黙って見過ごしてるんじゃないよ! この船は父の魂の篭った、大事な船じゃないのかよ!」
真実のマリー……いや偽マリーは! アルセーヌ……アルセーヌおじさんの左腕に抱き着いたまま、その耳元に何か囁いている。
次の瞬間。
―― ドボーン!!
ヒッ!? 後ろで大きな水音がして、私は思わず振り向いてしまう。そこに居たはずの片眼鏡の紳士が居ない。水音はリトルマリー号と波止場の間の海面からしたようだが。硬直していたように見えたマリオット卿が……落水したのか?
「君ね。昨日は確かに道案内を頼んだよ……私は」
アルセーヌおじさんの声に、私は再度振り向いた。おじさんは偽マリーを後ろ手に庇いながら、私に指を突き付けていた。
「だけど今日は君に世話を頼んだ覚えはないんだよ! この船は私の船だ、私のリトルマリー号から出て行きなさい!」
私は周囲を白い服を着た水兵達に囲まれている。ブリッジはまだリトルマリー号と波止場を繋いでいたが、そこも他の水夫や偽陸兵、その他のごろつきなどで一杯だ。敵は前後左右に居て私を一息に始末する機会を伺っている。
今日はカイヴァーンもぶち君も居ない……だけど私は一人ではない。
「これはアンタの船じゃありませんよ! 借り物は自分の物じゃない、アンタお婆ちゃんにそう習わなかったんですか!!」
「な……なんですって……君は本当に生意気な小猿ですね! 皆の者! この若者を捕まえて波止場に放り出しなさい!」
くっ……私は……泣かないッ! 今回はこれ以上泣かないと決めたのだッ!
風紀兵団、枢機卿、デュモン卿……彼等は私が敵に気づかれずリトルマリー号に飛び込めるよう陽動してくれた。だけど申し訳ない、風紀兵団も枢機卿もデュモン卿も元々は私の敵である。私がここに居るのは彼らの期待に応える為ではない。
「これは……私の船ですよ!!」
私は舷側板に飛び乗りその上を走る。
白い服の水夫共が一斉に武器を抜く。前に見たグラスト海軍が派遣したエリート水兵達は揃いの白鞘のサーベルを提げていたが、偽物共の武器はバラバラだ。
奴等が斬りかかって来るより先に、私は舷側を駆け抜け船首側の錨に飛びつく。それは別の水夫の手で今さっき引き上げられていた物だった。
そして問題はここッ! 私は十分に非力である。錨って本当に重い! 私はどうにかそれを! 引き摺り!
「とっ……とうびょお~!」
そこだけは譲れない間の抜けた声を上げ、私は再度錨を海に投げ込んだ。
「なっ……何しやがる!」
「くそォ! 斬り捨ててしまえ!」
水夫達はいきりたち、甲板から迫って来る。しかしリトルマリー号の船首甲板に上がるには障害物を避け短い階段を一人ずつ登って来ないといけない。私はこの船の甲板を行き来する為の道と障害物を熟知していた。その上に船酔い知らずがある今は、にわか水夫になど遅れをとる気がしない。
剣を抜いた私は余裕をもって階段に近づき、ちょうどそこへ上がって来る水夫目掛け腕を一杯に伸ばして突く。
「ハッ!」
「ぐギャッ!?」
階段を登り切る寸前で額を突かれた水夫が仰け反って後ろに吹き飛び、
「ぐえっ! 何やってんだ!」
「やられたああ! 死ぬ、死んじまう!」
後ろに居た水夫も巻き添えにして階段の下へ転がり落ちる。
私のレイピアは練習用の竹光であり、切っ先には怪我をしないよう柔らかい皮まで巻いてある。それでも突かれたら結構痛いとは思うけど。
「ま、待ちなさい! 殺せだなんて言ってません、物騒な物はしまいなさい!」
アルセーヌがそう叫ぶ。この状況で剣まで収めろって言われても困る。私は剣を握ったまま、支索を踏んでマストへと駆け登って行く。私は十分に弱く、普通の水夫と平らな足場で正々堂々正面から打ち合ったら一瞬で負けるのだ。
高い所に上がると、波止場の戦いの全貌が見える。
敵の装備や練度はバラバラで、ただのごろつきのような者も居るが、中には鎧の隙間から刺す針のような短剣や、鋸のようなぎざぎざのついた邪悪な刀など、見るも恐ろしい武器を持った暗殺者紛いの者も居る……風紀兵団、あののんびりしたお人好し集団が、そんな連中と戦えるのだろうか?
だけどそれは杞憂だったようである。風紀兵団は強かった。ここに居るのは八人だけだったが、一人も欠ける事なく戦い抜いている。
デュモン卿は……案の定強い、カイヴァーンやジェラルドとは違う種類の強さだ、構えに隙が無く全く危なげが無い。暗器や飛び道具を使い搦め手から襲い掛かろうとして来る相手をそれ以上に狡猾な動きで封じて、確実に……敵に深手を与え、退けている。
黒衣の戦士、修道騎士団の人達も奮闘しているようだ。
余りにも意外だったのは枢機卿だ。彼は背は高いが決して豪傑という感じの人ではないし、こんな荒事に関わる人には見えなかった。
そんな枢機卿は赤い僧衣の下に甲冑を着ていて、重量のありそうな杖を振りかざし、自ら賊徒を薙ぎ払いながらリトルマリー号への道を拓こうとしている。
私も遊んでいる訳ではない。
「ひっ……やめ……ああぁぁあ!」
マストの上で帆を開く準備をしていた水夫が、支索に止まった私に剣のような物で尻を突つかれ、帆桁や動索にしがみつきながら甲板へとずり落ちて行く。
私の仕事は敵を倒す事ではない。風紀兵団や修道騎士団、枢機卿がリトルマリー号に辿り着くまで、この船を離岸させない事、そしてこの船を守る事だ。リトルマリーを誘拐犯などの好きにさせるものか。私は一人じゃない、父の十五年、私の一か月、ロイ爺、不精ひげ、ウラド、アレク、みんなここに居てくれる。
「この帆は開かせませんよ!」
私は見張り台に立っていた。半年前、バニーガール姿でこの船の船長になる事に決めた私が最初に見つけた私にも出来そうな仕事が、この見張り台に立つ事だった。
「何をしている! 早く帆桁でも切り落としてしまえ!」
波止場から怒鳴り声がする……それは私に言っているのか? そうみたい。怖いデュモン卿が偽陸兵の一人を捻じ伏せながら、私に向かってそう叫んだようだ。
言っている事は解る。
だけど私の剣は竹光だし他の武器は短銃しかないので、切り落とせと言われても無理である。正直、うっかりしていたと思う。
短銃を使えば何か出来るかしら? この銃は先刻弾を籠めて火蓋を閉じ、右足にベルトで結えつけてある。だけどこれはアイリさんの魔法がかかった銃ではない。一発撃てば終わりだ。
そして何よりも……リトルマリー号は私と父の船なので、出来れば自分で傷つけるような事は避けたい。
さて。水夫達はじわじわと静索を登って来る……見張り台の私を捕って喰わんとする蜘蛛の群れのようだ。まずいですよ、このままだと普通に囲まれる。
私が、そんな事をのんきに考えていた、その瞬間。
「待ちなさい!」
え……アルセーヌおじさんの声……私は状況を確認する前に、見張り台から飛び退いていた……
―― ドン!! ドォン!
ぎゃあああ銃声!? たった今私が居た見張り台の上を小さな燃え盛る何かが通過して行くのが見えた、あれは鉄砲玉!? ぎゃあああ私撃たれたああ!?
船尾側から、敵の水夫が……! 見張り台に残った残像の私を、マスケット銃で撃ち抜いていた……本当は何も見えないんだけど、私の目にはそんな光景が見えたような気がした。
だけど危機は全く去っていない。依然として多勢に無勢、そして私は再び船首側の甲板へと落ちて行っている。
―― ドバタン!
「ぐぎゃっ!?」
「ハッハー! 落ちたぞォォ!」
見張り台から落ちて甲板の上で一回転した私を見て、水夫の一人が叫ぶ……まあ10mくらいの高さの見張り台から、静索や動索、何処にも引っ掛からずに甲板に落ちたら普通は終わりである。だけど私には船酔い知らずの魔法があるッ……あるけど今のは痛かったッ……
「撃つなと言うのに何故撃つんだ! 相手は小猿だぞ!」
船尾の方で顔の大きなアルセーヌおじさんが怒っている。私は甲板の上でもう一度後転しながら立ち上がる……!
「このォ!」
ひいっ!? 敵の水夫はもう目の前に居た! 私は尻餅をつき這いずるようにバウスプリットの上へと逃げる!
「死にぞこないが、喰らえ……えっ!? 女の子かこれ!?」
私を追い詰めて突き倒そうとしていた小粋なお兄さん水夫が、私の顔を見て目を丸くしてそう言い、一瞬攻撃を躊躇した! ありがとうお兄さん、まともな目がついてるのは貴方だけだ!
いや、そんな事考えてる場合じゃない、私はバウスプリットの先に追い詰められてしまった。何とか隙をついてもう一度支索を登りたいが、船首甲板の上にはもう四、五人の水夫が居てこちらに剣を向けている!
「女だから何だ! サルよりすばしこい相手だぞ、油断するな!」
そして私には女の武器など無かった。勝ちたい……何でもいい、何かで偽マリーに勝ちたい……
「武器をしまえと言っているだろう! マリー船長、貴女もそう言って下さい!」
船尾でアルセーヌが騒いでいる……水夫達は顔を見合わせる。そうそう、ね、あのおじさんもそう言ってるから、武器をしまって下さいよ……
「……その角を切り落としてしまって」
いつの間にか、船首近くまでやって来ていた偽マリーが、薄笑いを浮かべながらそう言った……角とは?
「おう!」「合点!」
ちょっと待てェェ!? 消火用の斧を持った二人の水夫が斧でバウスプリットの根元を滅多打ちにし出した!
「やめろォォ! これは大事な部品だー!!」
このままだと私は折れたバウスプリットごと海に落下する! だけどバウスプリットからマストへ伸びる支索は突破出来そうにないし、船首の波除板にも飛び乗れそうにない!
私はとにかく短銃を抜き、斧を振りかざす水夫に向ける!
「や、やめなさい!」
偽マリーにも向ける!
「やや、やめさせなさい!」
しかし水夫は構わず斧を振り回してるし、偽マリーは……
偽マリーは。私を真っ直ぐに見て、薄ら笑いを浮かべていた。まあ、乱入者である私を海に突き落とせそうだから、溜飲が下がる思いなのだろう……それだけだよ。きっと、それだけ……
……
何故だろう。何故か、それだけではないような気がしてならない。私の勘が、嫌な事にしか反応しない私の勘が、ここには何か、危険な罠とか、過酷な運命とか、そういう物が待ち受けていると告げている……
「やめろぉぉ! 撃つぞッ!」
私は水夫達や偽マリーに銃口を向け、必死に威嚇する。だけど水夫の一人は、歯を剥いて笑ってまで見せた。
「お前、撃てねえんだろ?」
その水夫は私の左手を指差す……左手……ああ……私は左手には練習用の竹光のレイピアを持っていた。
―― バキッ!!
バウスプリットが、根元から折れた。マストが支索を引っ張っている関係で、折れたバウスプリットは先端が上に跳ね根元が下を向く。
「ぎゃあああ!」
―― ドボーン!!
自分ではそんなつもりは無いのだけれど、このところすっかり落水癖がついてしまったような。十二月のクレー海峡の水など、フルベンゲンに比べたらどうという事は無いぎゃああああ冷たああああああああ!!