マリー「やめて……やめてよ! もう壊さないで!」
裸の王様と正直な子供の話……?
三人称ステージが続きます。
「えっ……もう正午? そんなに時間が経ってたかな」
ブリッジを渡り切り、三度リトルマリー号の甲板に立ったアルセーヌは辺りを見回す。先程までは殆ど誰も居なかった波止場に、水夫やら人足やら、海の男達らしき者達が殺到して来る。
リトルマリー号の水夫が、彼等に向かって叫ぶ。
「リトルマリー号が出港する! お前達、手伝ってくれ!」
「オウ!」
アルセーヌはここに来てようやく違和感を覚える。
昨日と一昨日見たリトルマリー号の水夫達は白い制服をきちんと着こなし、髪や髭もきちんと整えた清潔感溢れる好青年達だった。しかし今日の水夫達は手練れの精鋭には見えるものの、着ているのはただ白いだけの不揃いの服だし、むさくるしい顔をした者も多い。
「……」
ヨハンを組み敷いている男達も、陸軍っぽい服を着ているがよく見れば何か違うような気がする。
第一、陸軍がこの船を警護していたのなら将官が出て来ないのはおかしい。普通なら隊長格の将官が出て来て手柄を誇示すべく自分に敬礼して来たりするものなのだが。
「アルセーヌ様……どうかなさいまして?」
しかし。マリー船長に後ろからそう声を掛けられ、振り向いたアルセーヌはたちまちその違和感を忘れる。自分より10cm低いだけという長身、手足もスラリと長く細身だが出る所は出ていて、長い髪をきちんと結い上げた色白で知的な、アルセーヌの好みの100点に限りなく近い絶世の美女に小首を傾げて微笑まれては、アイビス人男性の象徴たる自分としては、何もかも忘れざるを得ない。
「封鎖は解かれていない!! 正午にはまだ早いぞ!!」
「市民はリトルマリー号から離れろ!! 波止場に入るな!!」
そこへそう大音量で叫びながら現れ波止場へと突進して来たのは、揃いの緑のサーコートと鎧、大兜に身を固めたアイビス国王直属の治安部隊、風紀兵団だった。
しかしそれ以外の、波止場のリトルマリー号に駆け寄って来た者の多くは、鐘の音が偽物と知りつつ集まっていた者達だったのである。
「うるせえ! 波止場はもう市民のものだ、衛兵は引っ込んでろ!」
「リトルマリー号が出航するんだ、邪魔をするな!」
金目当てのならず者、町に潜む不穏分子、そして元より海峡の向こう側から来ていた工作員、出自は様々だが今回の作戦の為に大急ぎで駆り集められた者達は、たった四人しか居ない風紀兵団を数の力で捻じ伏せに掛かる。
そう、相手はたった四人。だがしかし。
「風紀ある市井!」
「ぐわああ!?」「な、なんだこいつら!?」
風紀兵団の一人に掴みかかって行ったごろつきが、警棒で殴り上げられ宙を舞う。
「ええい、お前達が団長が危惧していた暴徒か!」
「ぎゃあああ!」「相手はたった四人ゴブギャッ」
風紀兵団は強かった。
本来は選り抜きの精鋭であるはずの彼等だが、実戦では空腹で実力を出せない事が多い。しかし今日の彼等はドパルドン卿の寄付を得て前夜にたらふく肉を食い、朝も十分な栄養を摂っていたのである。
「手加減は出来ぬぞ、怪我をしたくなければ失せろ!」
「ば、化け物かこいつら!?」「ぐふっ……!」
だが偽マリー船長側の用意も周到だった。物見客に扮し、鐘が鳴るまで市中で待機していた工作員は次から次へ、倉庫街を駆け抜け増援に駆けつけて来る。
「そいつらを止めろ! 船まで行かせるな!」
「くそっ! 数が多過ぎる!」
風紀兵団の一人は組み付いて来るごろつき共を振り払いながら、呼び子を鳴らす。
―― ピィーッ! ピィーッ!
その音は、リトルマリー号のブリッジの前で組み伏せられていたヨハンの耳にも聞こえた。
「くっ……風紀兵団ッ……私が不甲斐ないばかりに、すまない……すまない……」
ヨハンは怒りと悔しさに震え、泥だらけの顔に一筋の涙をこぼす。
「風紀ある市井!」「風紀ある市井!」
その時。いや、呼び子が鳴るのより少し早く、風紀兵団の新手は市場の方からやって来た。その数はやはり四人だけだったが、そちらの風紀兵団の後ろからは、さらに黒衣の兵士が武装兵士の一団が続いて来る。
その黒衣の中に、一際背の高い細身の剣士、修道騎士団長デュモン卿は居た。デュモンはリトルマリー号の甲板に居る人物を見て、目を見張る。
「あれは……!?」
「デュモン卿。今は静かに前進してリトルマリー号を確保するしかない」
更にデュモン卿の後ろに居たのはユロー枢機卿だった。枢機卿はデュモンの前に進み出て、そのまま大股にリトルマリー号の方へ歩いて行く。
「邪魔するな!」
彼をアイビス王国の次期宰相とも噂される大政治家と知ってか知らずか、暴漢を装った男が大きな釘のような暗器を隠し持ち襲い掛かるが。
「ぐぎゃっ!?」
デュモンが切り伏せるより早く、枢機卿の杖に側頭部を薙ぎ払われ、回転しながら地面に崩れ落ちる。
その様を見て顔色を変えたのは、リトルマリー号の甲板上のアルセーヌだった。
「マ……マリーさん、出航を急ぐ訳には行きませんか」
その時。波止場とリトルマリー号を繋ぐブリッジを引き剥がそうと格闘する水夫達を制しながら、一人の片眼鏡を掛けた紳士がリトルマリー号の甲板に駆け上って来る。
「なっ……何だ君は、確かどこかで見たような」
「勿論ですアルセーヌ様、外務会議で何度も御会いしていますマリオットでございます、大丈夫です、私は陛下の味方でございます。さあ諸君、怖い顔の修道士が来る前に、早く船を出してしまおう!」
マリオット卿はアイビスの外務高官の一人で、主にレイヴンとの交渉を担当していた。偽のマリー船長の身柄を保証していたのも彼である。
風紀兵団に修道騎士団、デュモン卿に枢機卿、彼等は暴徒に対し数では圧倒的に少数ながら、じわじわとリトルマリー号に近づいていた。
逆に言えば、暴徒……いや、急遽今回の陰謀を企み実行したマリオット卿とその息の掛かった者、レイヴンの潜入工作員による妨害は一定の功を奏し、ぎりぎりの所でアイビス側兵力を食い止めていた。
あと一歩でアイビス国王、アンブロワーズ・アルセーヌ・ド・アイビスを乗せたまま、この船をアイビス国土から離岸させられるのだ。
「さあ早く係留索を、ブリッジを外せ! 何をもたついているんだ、ええい、斧でもって舷側の柵ごとぶち壊してしまえ!」
極めて急に決まった作戦ではあった。マリオット卿はもうレイヴンに亡命する覚悟は決めていたが、あまりに急な事で王都の自宅にある現金や宝石を持ち出す時間も無かった。
しかし手土産がアイビス国王本人ともなれば、レイヴン側の厚遇は想像も出来ないものになるのではないか。
だけど万一、離岸する前に捕まったら? 勿論想像も出来ないような地獄が待っているだろう。
「斧を貸せッ! 私がやる!」
マリオットは近くの水夫から防火用の斧を奪い取る。この水夫達も勿論アイビス海軍の精鋭水夫ではない、ただの白っぽい服を着せた工作員だ。
「こうして! 壊してしまえ!」
そしてマリオットが、ブリッジとしっかり結ばれたリトルマリー号の舷側板目掛け、斧を振り上げた瞬間。
「やーーめーーろーー!!」
近くのクレーンのロープを使い、ドックの陣幕の柱の天辺から振り子のように飛んで来て、ロープを離れ空中を舞い、何事かと空を見上げたマリオット卿の片眼鏡をつけた顔面に左のブーツの靴底で着地した小柄な人影は、アイビス南東部ヴィタリス村の生まれ、私掠船フォルコン号船長、正真正銘のマリー・パスファインダーだった。