アレク「ええっ? もうお昼? 僕まだそんなにお腹空いてないよ」アイリ「太っちょがそう言うなら間違いないわね、あの鐘おかしいんじゃない?」不精ひげ「……トラブルの臭いがしないか?」
アルセーヌという名を自分につけた男は今朝、朝食を持って来た料理人を脅してその服を取り上げ、それを着て廊下や裏口を突破し、密かにそのレブナンの別荘を抜け出していた。
主人のダイニングで料理人の男が下着姿で膝を抱えているのを発見した侍従長ミシュランが、大層肝を冷やしたのは言うまでもない。
時間は遡って……誰かが鐘を鳴らす、少し前。
この話は三人称で参ります。
アルセーヌが波止場にやって来た時、港や市場の封鎖はまだ解かれていなかった。しかし、封鎖を実行する為の警備兵の姿は無い。
リトルマリー号は昨日と同様に、軍のドックの陣幕の中に浮かんでいた。
マリー・パスファインダーも、そこに居た。とても船の船長とは思えない優雅なドレス姿で、船と波止場を接続するブリッジの前に立っている。
アルセーヌは辺りを見回し、スキップ混じりの軽やかな足取りでいそいそとそちらに駆け寄る。
「アルセーヌ様!」
「マリーさん! お待たせして申し訳ない。それにこの恰好も。どうしてもこれ以外の姿では警備を突破出来そうもなかったのです。どうか、お許しを」
「ふふ……なんと気さくな御姿なのでしょう。皆様はアルセーヌ様の事を誤解してらっしゃるのだわ」
アルセーヌは船を見渡す。昨夜はマリー船長が一人で居たが、今は白っぽい服を着た水夫が何人か見受けられる。
「ああ……今日はその、水夫が居るのですね」
そう呟くアルセーヌに、マリー船長は傍らからそっと寄り添い、その左腕を取る。アルセーヌは真っ直ぐ前を向いたまま、ぽっと頬を桜色に染めた。
「今日は波止場を離れて湾内を巡るのですもの、私一人では船を動かせませんわ」
「ああ、勿論そうです。私の方も今日はうるさいミシュランが居ません。ゆっくりとリトルマリー号の乗り心地を……楽しめそうです」
そう言ってアルセーヌは、意味深な熱視線をマリー船長に向ける。マリー船長は微かにはにかんだように一度視線を伏せ、それからしっかりと、アルセーヌに視線を向け直す。二人の男女の視線が絡み合う……
「総団長ー!!」
その時だった。
波止場の向こうの倉庫街の塀と、置き去りにされた古い樽の影から、一人の放浪者が……十二月だというのに破れた薄手のチュニックと擦り切れたズボンを着ただけの、薄汚れた背の高い男が、不様に伸びた濃い金髪をなびかせ、大声で叫びながら、リトルマリー号の方に向かい走って来る。
「あれは……?」
アルセーヌは最初、それが誰なのか、総団長というのが何なのか思い出せなかった。
「ふ……不埒者ですわ!」
マリー船長は鋭くそう叫ぶ。
リトルマリー号の目隠しをしていた海軍ドックの陣幕の影には水夫の他に、アイビス王国陸軍の制服らしきものを着た十人ばかりの兵士が潜んでいた。
彼等は抜刀して一斉に飛び出し、突進して来る丸腰の浮浪者を難なく抑えつけた……ように見えたが。
「うおおおおおおお!」
「ぐわっ!?」「ぎゃふッ!」
浮浪者は抜き身のサーベルを手に殺到する、それなりの訓練を受けているように見える兵士を掴んでは投げ、振り回し、叩き落とし、ついにはリトルマリー号のブリッジの目前まで迫る。
「きゃっ……」
アルセーヌは紳士らしく、怯えるマリー船長の前に立ちはだかり、浮浪者に向き合う。
しかし駆け寄って来た浮浪者は、アルセーヌの数メートル手前で膝を折り、平伏してしまった。
「なッ……何だね君は……?」
アルセーヌは訝しむ。
浮浪者はたちまち殺到した兵士達に背中から組み付かれていたが、恐るべき怪力でその顔を上げ、叫んだ。
「その女は……マリー・パスファインダーではありません!」
「お、おのれ、浮浪者が何を言いやがる!」
「抵抗するなッ! 観念しろッ!」
「今すぐ首を刎ねられたいか!?」
兵士達はいきり立ち、浮浪者に剣をつきつけ、のしかかり、再び地面へとうつ伏せに押し潰す。
しかし浮浪者は、十人の兵士にのしかかられながら、途方も無い怪力で尚も顔を上げた。
「総団長ッ! 私を……お忘れですかッ……!」
アルセーヌは、大きく目を見開いた。
「君は……ヨハン!!」
その浮浪者の名前はヨハン・トライダー。少し前まで風紀兵団に属し、仲間達から団長と呼ばれていた男だった。
「総団長……!」
「今さら……何が総団長ですか!」
その男がヨハン・トライダーである事を認めるや否や。アルセーヌは眉を逆立て、肩を震わせた。
「君にね、総団長なんて呼ばれる筋合いは無いよ! 君は自分が私に何をしたのか忘れたのか!?」
浮浪者、ヨハンの身体から力が抜ける。ヨハンの顔はたちまち、のしかかる兵士達によって波止場の石畳に叩きつけられてしまった。
「君はいい奴だと思ったから、他の風紀兵団とは違うと思ったから、私は色んな想いを打ち明けたし、大事なお使いを頼んだんだよ! なのに君は紙切れ一枚で私の友情を切り捨てた! 違うとは言わせないぞ!」
「違います……」
「違いますとは言わせないぞ!」
アルセーヌはさらに、マリー船長を背中に庇うように半歩前に出る。
「そんな君が、今更ノコノコ出て来た君が何と言った? その女だと!? ヨハン、私は君を紛う事なき紳士だと思っていのに……それを何だ、その女とは……見損なったよヨハン……」
激昂していたアルセーヌはよろよろとブリッジの手摺りにもたれ掛かりながら振り向く。
「ああ、マリー船長、あの男は私と仲違いをしているのです、それで貴女にまであんな事を。どうかお気を悪くなさらないで下さい」
ヨハンは大勢の男に組み伏せられたままで居た。
彼がこの二日の間に食した物は、山で捕まえたモグラの蒸し焼きだけだった。袋に集めて持っていたどんぐりは三日前に食べ尽くしてしまったからである。
しかしヨハンは考えていた。飢えと寒さに震え、不逞の輩に組み敷かれ、かつて二つと無いはずの忠誠捧げる事を誓った君主に蔑まれ、心身共に打ちのめされてもなお、胸を占めるのはたった一つの想いだった。
―― 足りぬ……この程度の試練では足りぬッ……!
「ええ……それにその方はきっと、とてもお腹が空いてらっしゃるのだわ……私達が出港致しましたら、どなたかその方に……暖かいお食事を差し上げて」
マリー船長はそう言って微笑み、水夫の一人に向かって何事か合図する。水夫は頷き、リトルマリー号の鐘を二度鳴らす。
―― カン、カン……
「優しいのですね、マリーさん」
アルセーヌはそう言って踵を返し、再び左腕に寄り添ったマリー船長をエスコートするように、ブリッジを渡りリトルマリー号の甲板へと歩いて行く。
ヨハンは力を溜めていた。空腹が過ぎて一度怪力を揮った後は力が抜けてしまうのだ。そしてもう一度力を出せるようになるまで時間がかかる……しかし、今はこれ以上待つ事は出来なかった。
「私は何と言われても構わない!」
ヨハンは再び顔を上げた。石畳に叩きつけられ、擦りつけられたその顔には泥と土埃がべったりと貼りついていた。さらにその額を、頬を、流れ出たばかりの血潮が伝う。
「しかしその淑女はマリー・パスファインダーではありません! 総団長、どうか目をお覚まし下さい! 彼女は……マリー・パスファインダーではない!!」
―― ガランゴロガラン…… ガランゴロガラン……
しかし、ヨハン・トライダーのその魂の叫びは途中から、街の鐘の音と、それに続く港の雑踏の音に掻き消されてしまった。
◇◇◇
この鐘を鳴らしたのは、いつもの街の教会の係の者ではなかった。
そして市民の多くはその鐘を聞いても、いくら何でも正午にはまだ早いはずだと考えた。しかし正午の鐘、すなわち港湾と周辺施設の封鎖の解除を待ち望んでいた市場関係者などにとっては、それが真実の鐘かどうかなどどうでも良かった。
「封鎖は終わりだあああ!」
「開場! 開場ー!!」
「さあー商売! 商売だ! 道をあけろー!」
そして悪意を持つ者達にとって、この鐘は作戦の始まりを知らせる合図だった。
「封鎖は解除だ! 波止場は解放されたぞ!」
誰かがそう叫ぶのと同時に、リトルマリー号の居る波止場には、三方から水夫や人足のような恰好をした者達が押し寄せる。