マリオット「勿論です。陛下の身辺の警備には万全を記さなくてはなりませぬ故」
様子のおかしなトライダーと、なんだかきな臭くなって来たリトルマリー号周辺。もう手を引こうとも考えたマリーに、問題と風紀兵団が絡みつく。
そんなの、大人が考えてくれたらいいのにね。
さて。あの顔の大きなおじさんがまたマリーの前に出て来ましたよ。
「君は……昨日の小さい風紀兵団」
「違います。何度も言わせないで下さい!」
「声が大きいッ! シーッ! ああもう、今日は君なんかに構ってる暇は無いんだ、早くあっちへ行きなさい、シッシッ」
その。顔の大きなおじさんは野良猫でも追い払うように手を振りかざす。
何なんだこの人は。私は少しだけ、このおじさんの事を心配していたのだ。
町の郊外の菜の花畑に囲まれたのどかなお屋敷で暮らす育ちの良さそうなおじさんが、夜中に海軍や枢機卿、デュモン卿のような、おっかない人達が絡むリトルマリー号の甲板で、何をしていたのか。
少なくとも私の目には、この人が自分から何かの陰謀に関わっているようには見えない……つまり、このおじさんは何か厄介な事件に巻き込まれつつあるのではないかと。そう思っていた。
だけどそれは根拠も無い私の勘の話なのだ。そして本人はこの態度である。
「……はいはい。ここで何をなさっているのかは存じませんけど、今日は家で大人しくしておいた方がいいと思いますよ? それじゃ失礼」
私はその場を去ろう……としたらいきなりおじさんに肩を掴まれた! ぎゃぎゃっ!? そんなとこ持たないでよ!
「待ちなさい。いい事を思いつきました。立ち去るのでしたら、少しだけ私の役に立って下さい」
「何ですか役って、知りませんよ、離して下さいよ」
私がそう言った、次の瞬間。おじさんは自分の鼻を摘み、空を向いて、甲高い作り声で叫んだ……
「アイビス国王のバァーーカ!」
は?
おじさんはそれだけ言うと、人間に踏まれそうになったフナムシのように、素早く這って背の低い灌木の茂みの中へと消えてしまう。
私は訳も分からず、その場できょとんとしていた。
「誰だぁぁぁ今とんでもない事を言った奴はァァ!!」
え……ヒッ……ぎゃあああ!? 辻に立っていた二人の近衛兵が、憤怒に顔を赤く染め、こちらに突進して来るゥゥ!?
「ちっ、違います! 今のは私じゃ……」
そう言いながらも私は逃げだしていた! って駄目じゃん、逃げたら私がやったって認めるみたいじゃないですか! 踏み止まって弁明しないと!
「不敬罪をぶちかましたのは貴様かぁぁぁー!!」
「そこへ直れぇぇ痴れ者がぁぁぁ!!」
だけど無理ィィ! あんな恐ろしい顔で追い掛けて来る兵隊さんに弁明するとか無理、私そこまで神経太くないよ、逃げるしかなぁぁい!!
◇◇◇
少し後。
私はレブナン市街の外縁の住宅の屋根の上で、荒ぶる呼吸を整えていた。走った距離はたいした事は無いが、非常に焦った為、まだ心臓がドキドキ言ってる。
あの……あの男! 人の心配を思い切り仇で返してくれましたね!
何という時間と労力の無駄か。こんなんだったらあんな男の心配なんかしないで、自分でフォルコン号に行けば良かったよ!
それでキャプテンマリーの服に着替えてアイマスクをつけてフレデリクになって、トライダーを捜しに行く方がまだ良かった。
或いは今からでもフォルコン号の方に行こうか?
いや……駄目だ。風紀兵団は私よりかなり先に出発してるし、私は馬を借りて行ってとまで言ってしまった。途中で会えればいいが擦れ違いになると困る。
とにかく、こうなったものは仕方ない、港にでも戻ろうかと思い、私は屋根の上に這いつくばり下の様子を伺う……って! 居るじゃないかあのおじさん! 裏路地の方にコソコソ入って来て、建物の隙間から表通りを覗き込んだり、壁にひっついてみたり……とにかく動きが怪しい。
……
私は先程まで、あれは人畜無害なおじさんだと考えていたが、とんでもない。
何かの理由で司直に追われているおじさんは、あの近衛兵が二人立っている辻を通れなくて困っていた。そこに現れた間抜けが私である。
おじさんは私を囮にして近衛兵に追わせ、その間にあの辻を突破したのだ。
思えば昨夜もあのおじさんは兵隊達の視線を露骨に恐れていた。本人は陸兵に暴力を受けたばかりだからと言っていたがそれはウソだ。ランプを持っていなかったのも、自分の顔を兵士に見られる事を恐れていたからだったのではないか。
あれは暢気なおじさんなどではない。怪しいおじさんだったのだ。
そうなると、あの真実のマリーさんとの関係も気掛かりになって来る。
昨夜のおじさんはピンクのプールポワンを着ていて……その趣味はどうかというのはともかく、逢引きに行くような恰好をしていたと思う。
しかし今日のおじさんは料理人のお仕着せのような白いチュニックと、黒の長ズボンを着ている。一言で言えば昨日の装いは資本家の装い、今日の装いは労働者の装いだ。どらちが本物のおじさんなのか? どちらかは扮装だろう。
私は屋根から屋根へと、ヴィタリスの森のフクロウのように静かに飛び移りながら、怪しいおじさんを追う。何だか私、悪い意味で船酔い知らずを使いこなすようになってしまった気がする。
今日のレブナンの町には、警備の兵士はほとんど居なかった。
国王陛下の御上船が行われるまでは軍隊と衛兵と騎士団が縄張りを争って警備をしていたし、御上船の後は警戒態勢を解かれた兵士達が町中に繰り出して飲み歩き、騒ぎ立てていたのに。今日は普段の町に居るような衛兵すら居ない。
なのにあの宿屋の近くの辻には近衛兵が立っていたのは何故だろう。その周辺にも……市内より郊外の方が警備が厳重なんて事があるだろうか。それはやはり、国王陛下が王都に帰還されるからなのか?
それはさておき。おじさんは町の警備が手薄である事に気づいたのか、次第に警戒を薄め、時折スキップなどをし出した。
裏通りでも一般市民は普通に歩いているのだが、おじさんは一般市民の視線は特に恐れていないらしい。兵士以外は怖くないのか……やっぱり悪い人なのかしら。
おじさんは昨日とほぼ同じ道を、市場の方へと歩いて行く。目的地はその先にあるリトルマリー号なのだろうか。
港の卸売市場は今日も閉場中である。厳密には正午には解放される予定らしいが、商船もろくに入港していないし、今日の商いは無しになるのだろうか。
ここまでの町中には普通にたくさんの一般市民が歩いていた。大通りにはたくさんの人が、裏通りにもそれなりの人が歩いていた。
しかし閉場中の市場とその通りには、歩行者はほとんど歩いていない。姿が見えるのは風紀兵団ぐらいだ。
「あいつら……何でこんな所に居るんだ! 普段何の役にも立たないのにこんな時ばかり邪魔しやがって」
市場の外縁の通りにも市民はほとんど居なかったので、おじさんは誰にも聞かれていないと思っているのか、そう独り言を呟いた。だけどその時私は音も無くおじさんの1m後ろに忍び寄っていた。
「風紀兵団を馬鹿にするのはやめて下さい。昨日もそう言ったでしょ」
「ぽげムた!?」
私がそっと囁くと、おじさんは謎の悲鳴を上げて飛び上がり、振り返った。
「驚かすんじゃありませんよ! ああびっくりした……何なんだ君は! やっぱり風紀兵団なんだろ!?」
「断じて違います」
「いいや君は風紀兵団だよ! 風紀兵団だから私が風紀兵団を馬鹿にすると怒るし、私の恋路の邪魔をする為について来たんだろ!? 風紀ある市井とか言って!」
どういう理屈なんだ。本人が違うと言っているのに、人を勝手に風紀兵団にしないで貰いたい。確かに私は以前、いっぺんぐらい私も「風紀ある市井」って言ってみたいと思っていたし、実際に言ってみた。だけどあんなのは一度で十分である。
私は清く貧しい百姓娘だ。誰が無給奉仕の貴族の御遊びなどに付き合うものか。貧乏人を働かせたければ麦を寄越せ……ってそんな話、このおじさんとは関係無いですよ!
「知りませんよ貴方の恋路なんて! 人を囮に使っておいて詫びも言えないんですか! 私はね、貴方がもしかしたら私にお詫びを言いたいかもしれないと思ってついて来たんですよ! 囮に使ってごめんなさいって!」
「あ……ああそう、ハイハイ、ごめんね囮に使って」
ああああ、腹立つわこのおじさん……私がそう思い、俯いた瞬間おじさんはまた天を仰ぎ、声色を変えて……!
「アイビス国王のアホーー!」
ぎゃああああまた言いやがったああ!? そして今度も引き留める間も無いままふざけたおじさんは脱兎の如く休場中の市場の中へ駆け込んで行く!?
あああ、どうしよう風紀兵団が来る、今度は私を捕まえに、いや待て、さすがに風紀兵団なら話せば解ってくれるのでは?
しかし。市場の外縁の塀を回り、真っ先に駆け付けて来たのは風紀兵団ではなかった。
「反逆者はどこだ!!」
数十メートル前の角を曲がり、現れたのは黒いフード付き外套を着てるけどフードは被っていない細身の豪傑……デュモン卿!? その後ろからは同じ外套を着た、だけどフードも被っている、たぶん修道士会の騎士達もついて来る!
私は思わず後ろも見る。こっちは風紀兵団だ、完全に私を挟み撃ちにするようなタイミングで、風紀兵団が四人ばかり、大兜を真っ直ぐこちらに向け駆け寄って来る! 風紀兵団だって……知り合いのデュモン卿が居るなら、デュモン卿の指示に従うだろう……
ここは市街と市場を隔てる外縁通り、今度は船酔い知らずで駆け登って逃げられるような建物は無い、どうすんのこれ!?