カイヴァーン「お前は釈放だ、もう船に乗ろうなんて思うなよ」チューゴロウ「ウワアアン怖かったようぅ」
さすがに大きなショックを受けていたマリー。
昼間から不貞寝してしまいましたが、大丈夫でしょうか?
この話は三人称で御願い致します。
艦長室を覗きに行ったアイリが戻って来る。
「マリーちゃん、寝ちゃったわよ? どういう事かしら」
「じゃあ……ネズミはもういいの?」
カイヴァーンはわざわざ他所の船に頼んで捕らせてもらった、寒そうに震えるネズミが一匹入った駕籠を手に、下層甲板から上がって来る。
「今日は出港しないのか。とは言え船長も寝てしまってるんじゃ、する事が無い」
不精ひげニックもカイヴァーンの後から甲板に上がって来る。
彼等は決して仕事を怠けているのではなく、怠けているふりをしているのだ。船の掃除をしていたのは本当で、船倉にはもはや鰊の鱗一枚落ちていない。アイリは破れた帆布を全部縫い終えてしまったし、アレクとウラドは船じゅうの滑車、蝶番、車輪、歯車の注油や分解整備を済ませてしまっていた。
「観念して、出港準備を始めるべきではないのだろうか……」
操舵輪の前で腕組みをしていたウラドが口を開く。
「な、何よ、ウラドはこのままマリーちゃんをレッドポーチに送って行く事になってもいいの!?」
「しかし……このままでは本末転倒だ。言う事を聞かない、だらけた水夫達を見て、それで船長がこれからもこの船に乗り続けたいと思うのかどうか」
反論し掛けたアイリはすぐに沈黙する。
確かに。アイリが提案した『この船には自分が居ないと駄目だとマリーに思ってもらう作戦』の本質は、水夫が船長命令を無視する事ではない。
「そしてアレクの言う『行き先を東に向ける作戦』も……現状、何ら手掛かりが無い。ニックの『何か起きるのを待つ作戦』は言うには及ばん」
「待て待て、俺の作戦にはちゃんと根拠があるんだ」
ニックは手を振り、ウラドに切り捨てられようとしていた持論を展開する。
「いいか? 明日は新月だ。船員用の持ち回りの航海日誌によるとだな、過去、新月の日には色々な事が起きているんだ、船長が初めての航海でオレンジを買い込んで来たのは6月の新月の日、ナルゲス沖の難破船で漂流していたカイヴァーンを見つけたのは7月の新月の日、そして大きな声では言えないが……ジョルジオだっけ? フラヴィアさんに頼まれてフェザント海軍の奴を置き去りにする為にイリアンソスに降りたフレデリク船長が、別の船でこっそりハマームに行って何かやらかしたのが8月の新月の日らしいぞ」
「ジェラルド・ヴェラルディでしょ」
アレクがニックの記憶違いを訂正する。
ニックはマリーに口止めされていた事をとっくの昔に皆に話していた。ディアマンテで自分を助けてくれた、セレンギル船長から聞き出せた範囲の話だったが。
「9月の新月の前後にはサッタルやハリブやホドリゴ達を捕まえて改心させた。どうだ! そんな新月が明日に迫っているんだぞ!」
「10月の新月の夜は?」
「ロングストーンからサフィーラに向かう途中だったな……そりゃたまには何も起きない事だって」
「11月は?」
「ウインダムからコルドンに向かう途中だった。何も起きてない」
そこへ、副船長のロイが海図室から戻って来る。リトルマリー号時代から持って来ていた古い海図の修復や整理も、すっかり終わってしまった。
「不精ひげの勘はともかく、わしらにはもう少し別のアイデアが必要なようじゃな……船長の目を海と船に向け直す何かが」
ロイがニックをいつものあだ名で呼んだその時。アイリはふと、違和感に気づく。いつも程よくむさ苦しく伸びているニックの髭が無くなっているのだ。
「そう言えば不精ひげ、髭はどうしたのよ、珍しいわね」
「お、俺だって気が向けばきちんと剃る事もあるさ」
「何事にも縁起を担ぐ、お前さんらしくないのう……アイリさん、ニックは本当は不精ひげを生やすような男ではなかったんじゃ。むしろ毎日綺麗に髭を剃っておった」
「爺さん……今そんな話してないだろ」
ニックは肩を落として波除板に座り込む。敢えて口止めもしないのは、こうなったら口止めしても無駄だからである。
「何よそれ聞きたい! 聞かせておじいちゃん!」
「ホホ、これもマリーのせいなんじゃ。あの子は初めて船に乗り込んだ時からすぐに、ニックの事を名前ではなく不精ひげというあだ名をつけて呼ぶようになっての。そのせいでニックは髭を綺麗に剃れなくなったんじゃ、不精ひげではなくなってしまうからのう」
「それでいつも、わざと剃り残しだらけの変な髭を生やしてるのね」
アイリはニックの顔色を覗き込むが、ニックはしょんぼりと項垂れたまま呟く。
「そんな事無いぞ……昔から面倒な時は剃らなかっただけだって」
「マリーが初めて船に来る直前、僕らは船を出せなくなって落ち込んでたんだ。それでニックはたまたま不精ひげを生やしてた。僕はそれまで、ニックが不精ひげを生やしてる所なんて見た事無かったよ」
アレクの追い討ちに皆が笑う。寡黙なウラドまでも小さく肩を揺らす。
ニックは密かに思う。ちょっと気まぐれを起こして髭を剃っただけでこの笑われようとは。やはり縁起というものは大事に担がないと駄目だなと。
◇◇◇
マリーは一時間経っても二時間経っても、艦長室から出て来なかった。
さすがに少し不安を感じた乗組員達は、今度はきちんと出港準備を整えてマリーが出て来るのを待っていた。水の樽は所定の位置に固定し、使用する帆布も帆桁に取り付けた。
そろそろ様子を見に行って欲しいと、水夫達がアイリの方をちらちらと見始めた午後三時。マリーはオレンジ色のジュストコールをビシッと着込んだ姿で、艦長室の扉から飛び出して来た。
「労働者の皆さん! 昼間から居眠りをさせていただいて申し訳ありません! 本日予定されておりましたフォルコン号の出港についてお知らせ致します、レッドポーチを目指し……ああ少々お待ちく゛た゛さ゛い」
そして急に顔色を変えたかと思うと、艦尾へと走って行き、
「うえっ☆△×●○! ぐえええ○◎××★△●×~」
ここが今まで寄港した港の中でも最高クラスに穏やかな、干潟の奥のウインダム港であるのにも関わらず、船酔いに負けて嘔吐する。
「ちょっとマリーちゃん大丈夫? ほとんど揺れてないわよここ、余程体調が悪いんじゃないの貴女?」
「体調など悪くありません! ぐえっ……元気ですよ、私は元気です、ダメージなんかありません!! アイリさん、私の髪をガッチガチに結っていただけませんか、だいぶ伸びて来ましたのでね! それから今日の出港は中止です。私はちょっと外出して来ます。お供は……珍しくスッキリした顔をしているニック先生に御願いしましょうか、どうか身形を整えて同行して下さい。アレクさん、その間に馬車を借りて来て下さい。他の皆さんは明日正午まで船内で待機です、引き続き無用の下船は禁止と致します。以上!」