サブレ「あ……貴方一体誰ですか……?」ピンクのシャツのおじさん「ああ気にしないで、怪しい者ではないしもう少ししたら出て行くから、お静かに」
怖そうな人にいきなり襲撃されるも、どうにか逃れたマリー。そして(マリーから見たら)事件の裏に潜む枢機卿の影。
話が急にきな臭くなって来ましたよ。
私は一度街の方に逃げたように見せて、周囲に用心しながら波止場に戻って来ていた。
日が落ちてだいぶ経つ事もあり、辺りに人影は無い。普段であれば波止場には他に停泊している船が居て、その水夫達が居るのかもしれない。
枢機卿が偉い人だというのは知っている。その偉い人が私の事をあまり良く思っていないという事も。だけどそれはおあいこだ。私だって枢機卿を決して良くは思っていない。
あのお姉さんが私の名を名乗っている事に枢機卿が関与しているとして。その枢機卿が私を捕えようとする理由は何か。折角理想的な贋物を用意したのに、不都合な実物に出て来られては困るからか。
それとも、何かもっと大きな陰謀が、このレブナンの静かな夜の闇の中、蠢いているとでも言うのか。
私は今度は市場とも倉庫とも違う側からドックに忍び寄り、積み下ろしや何かに使うクレーンに音も無くよじ登る。
船酔い知らずの使い方にも本当に慣れて来たな……だけどこういう気持ちになっている時が危ないんだよね。油断は大敵、用心、用心。
マリーさんと、あのピンクのプールポワンのおじさんは……居た。
リトルマリー号の低い船尾楼の上で……二人とも陣幕の無い海の方を向いて立ち、上弦の三日月を見つめながら、何事か小声で話している。さすがにその囁き声は、クレーンの上にしがみついている私にまでは聞こえて来ない。
うん。あれは普通に逢引きだな……恋人同士ではない、もしかしたら今後そうなるかもしれないが今はまだ違う、そういう二人に見える……あらやだ私ったら何を考えているのでしょう。
別にどうという事の無い、平和な光景に見えるんだけどなあ……この光景に先程の恐ろしい黒づくめの男達が関わって来るのか。
あの細面の男は大変危険な人物であるように見えた。そして恐らく今までの誰よりも容赦が無い。あれは人を手にかける事に慣れていて、私のような小娘相手でも油断しない冷徹な剣士に違いない。
私の地の利を生かした先手の逃げはギリギリにして最良の判断だったと思う。多分、あれ以外に私の生存ルートは無かった。
◇◇◇
きちんと時計など見ていないが、時間にして30分くらい、おじさんはマリーさんと一緒に居た。何と言うか……未婚の紳士淑女らしく、ただ何かお喋りをして……そしてお別れをしたように見える。
私は辺りを警戒しつつクレーンから降り、急いで倉庫街の方へ向かい、さらに市場の方へ回り込み、身を潜めて待つ。そこは先程、あのおじさんを案内して歩いて来た道だ。
果たしてそこへ、波止場の方から楽しそうに飛び跳ねるような足音が聞こえて来た……あのおじさんがスキップをして、右へ左へ蛇行しながら、だんだんこちらへ近づいて来る。マリーさんと居る間は、渋い大人の男を演じているように見えたのだが。
私は灯してあった蝋燭のシャッターを開け、物陰から進み出る。
「ヒッ……!? 驚かすんじゃありませんよ、さっきの小さな風紀兵団じゃないですか」
「違います。それに私、道案内で銀貨なんて貰うつもりじゃなかったんです。だけど私が断ったら貴方が格好つかないと思ったから」
「ちょっと待って。私、今は君と話したい気分じゃないんだけれど」
「結構! 貴方は明かりを持ってなかったでしょう、帰りはどうするんですか? 私は今から来た道を帰りますから、御望みなら勝手について来て下さい」
それだけ言って私は踵を返し、おじさんを案内して来た道をそのまま戻り出す。
◇◇◇
またあの黒づくめの男が出て来たらどうしよう。もしもあの男達の狙いがこのおじさんだったら? どうしようもない。その時は私だけ逃げて助かろう。私はそういう腹積もりで、辺りの気配に警戒しながら歩いていた。
一方、おじさんは御機嫌な様子で時折鼻歌を歌ったりスキップをしたりしながらついて来る。
そしておじさんは私などと話したい気分ではないと言っていたのに。
「今日の日が終わる、終わるねぇ! 君、今日は何かいい事はあったかい?」
「あまり……お祭りの焼き菓子がいただけるのを知らなくて、食べ損ねましたし」
「いけないなあ。悪い事を数えてはいけないよ、いい事を数えなさい。不平を言えばキリがないんだから、人生はね……私は今日いい事があったよ。聞きたい?」
私は少し考えて。「はあ」とだけ答えた。
「だめだめ。話せる訳がないでしょう、何を考えているんだ、デリカシーが無いなあ。秘密はね、秘密だから美しいんだよ、それなのに」
何なんだこの人は。別にこっちだって聞きたくて聞いたのではない。言いたそうだから聞いてやったのに。
「それに秘密は明かしてしまうと現実になってしまう……現実は……厳しいんだよなあ、色々と。ハァ……生きていれば悩みは尽きないものだが。君、私はこれからどうしたらいいのだろうね? ハァ……」
私は今度は構わずスタスタと歩き続けたが。
「あのね君、ちょっと冷たくない? 私はこんなに悩んでいるんだよ? 人の悩みを聞いておいて何故無視するんだい? 君の血はトカゲのように冷たいのか?」
「言ったら言ったで君なんかに何が解るって言うんですよね?」
「それはそうだ。君なんかに私の悩みの何が解るんですか、実際」
◇◇◇
その後は何事もなく、私は最初におじさんと出会った坂道の辺りまで戻って来る事が出来た。おじさんもその事は覚えていたようである。
「ここで結構……君もこの辺りにある宿へ帰る所だったと言っていたな。私も、ここからならもう一人で戻れるよ」
「そうですか。この蝋燭をお持ちになりますか?」
「大丈夫、必要無い。それから……君は小さいけれど親切な若者だな。名前を聞いておこうか」
自分は名乗る気ないのね、このおじさん。私の名前? 聞いたらびっくりするよ? いや、がっかりするのか? わからん。
「名乗る程の者じゃないですし、蝋燭を持って歩いてただけですから。ではどうかお気をつけて。おやすみなさい」
「ああそう。じゃ、おやすみ」
おじさんはそう言って軽く手を振り、去って行く。私が行く宿とは別方向だ。
私は宿の方へと立ち去るように見せ掛け、蝋燭を消して物陰に隠れ、去って行くおじさんの背中を暫く観察していた。それから、足音を忍ばせて追い掛ける。
あのおじさんは何者だろう。とぼけているようで切れ者という雰囲気もあるし、妙に世間知らずに見える所もある。雰囲気、大店の若旦那という所だろうか。
果たして。おじさんは市街から少し離れた、農地に囲まれた、広い庭のある屋敷の門へと近づいて行き、正門の脇の通用口から敷地内へと入って行く。
私は少し遅れて門前まで行ってみる。門柱には小さな看板が付けられていた。油問屋、サブレ……
私の勘は正しかったようである。そこは二階建ての蔵が二つも建っている立派なお金持ちの家だった。サブレさんというのはあのおじさんの苗字かな。
今日の所はこれで十分だろう。宿へ帰ろう……少し急がないと、門限を過ぎたら宿は閉まってしまい、折角確保したベッドも使えなくなるのだ。