ウラド「今日も戻って来なかったが……大丈夫だろうか……」ロイ爺「まあ、四人で酒盛りでもしとるんじゃろ」
ピンクのプールポワンの謎のおじさんをリトルマリー号に案内して行ったマリー。そこに現れたのは昼間、国王陛下の御上船の際にマリー役を演じていたという女優さん? でした。
おじさんは唇に指をかざし、マリーさんに囁くように言う。
「シッ……すまない、この小さいのは私の家来ではないんです」
「申し訳ありません……本当に来て下さるとは思いもしませんでしたわ」
二人はかなり声を落として喋っているのだが、生憎私の地獄耳には部分部分ではあるがその声が聞こえて来てしまう。
これはその……密会というやつですか。
あのおじさん、近づくと香水の匂いがするし、揉み上げの手入れにまで大変なお金掛けてそうな所を見ると、もしかして結構なお金持ちなのだろうか。真実のマリーさんはこのおじさんとお知り合いなんですか。
そして現実のマリー・パスファインダーはどうやらここでは邪魔者らしい。
「あー、君。ここまで案内ご苦労。だけど子供は家に帰って寝る時間だよ? 遅くならないうちに帰りなさい」
おじさんは振り向いて、私にそう言った。私は膝から砕けそうになるのを何とか踏み止まる。私だってそう言ったでしょう!
「あの者は案内賃をいただけるのを待っているのですわ。ここは私が」
真実の……いや、理想のマリーさんはそう小声で言っておじさんの前に出て、そのまま私の方に近づいて来る。
うわあ、やっぱり……私より20cmくらい背が高く、手指も長くて綺麗で色白で……近くで見ても本当に綺麗な人だ。歳はアイリさんより少し上かもしれない。
「ここまであの方を案内して来て下さって、どうもありがとう。けれどももう夜も遅いですから。気をつけてお帰りなさい」
マリーさんはそう言って私の左手を取り、掌にそっと銀貨を三枚握らせて来る。夜道の案内手数料としては上等の金額だ。
私は左手に銀貨、右手に蝋燭を持ったまま、マリーさんの瞳を見上げた……マリーさんも、私の目を見た。燃えるような赤毛に、漆黒の瞳……普通の黒い目ではない、全ての光を吸いこんで離さないような、深い、深い……神秘的な黒い目だ。
不思議だ。この人の瞳はまるで嘘をついている人のそれに見えない。
こりゃあもしかしたらこの人が本当に本当のマリー・パスファインダーで、贋物は私の方なのかもしれませんねぇ。
「……ありがとうございます」
私はそう言って御辞儀をする。
「それじゃあ」
さらにあのおじさんの方にも振り向いてそう言ってみるが、おじさんは船を見るフリをしていて、こっちを向こうともしなかった。
私はリトルマリー号に背を向け、波止場を離れて市場の方へと戻って行く。
◇◇◇
市場の建物の陰に入った私は蝋燭を消し、周囲を迂回して倉庫街を通り抜け、リトルマリー号のドックを別の角度から見られる場所に出た。
市場の方から倉庫街に移動する間は私はリトルマリー号を見ていなかったが、かなり急いだので数分も経ってはいないはず。あのおじさんとお姉さんは、まだリトルマリー号かその周りに居ると思う。
ただ……私には、今自分が何をしているのかが良く解らない。自信が無いというべきだろうか。もしかすると私は、単に大人の逢引きを覗こうとしているのかもしれない。
当たり前だけど私は別に男女の逢引きを覗きたい訳ではない……そんな事したらまるでヘンタイみたいじゃないか。
だけどあのお姉さんが私の名前を何に使ってるのかは気になる。あのお姉さんの仕事はもう済んだはずだよ。ドパルドン卿の依頼でマリー・パスファインダー役を引き受けたけど、陛下の御上船はもう終わったのだ。
まあ私の名前なんか別にいいけど、フォルコンは私の父だ。カイヴァーンになら貸してあげてもいいけど、知らない女の人には貸したくない。
真実のマリー・パスファインダーに相応しいのはあのお姉さんかもしれないが、フォルコン・パスファインダーの娘に相応しいのは私だけだ。私が、あのパンツ……一丁の……フォルコン……の、娘なのだ。
私がそんな事を考えながら。ただ意味もなく、倉庫街の物陰に立ちすくんで、リトルマリー号のドックを見つめていると。
町の方から誰か……これまた背の高い細身の男が一人、歩いて来る。私はリトルマリー号の方を見つめるのを止め、その場に立ち尽くしたままあちらこちらを眺める。
男の人は次第に近づいて来る。知らない人ですよ。帯剣していて、黒いフード付きの外套を着ているがフードは被っていない……黒髪で細面、眼光鋭く無表情で何を考えているか解らない、只者では無い感じの人だ。
「あー、えー。まだかなー」
私は何となく、ここで人と待ち合わせている人のような振りをする。
しかしその黒衣の男は……私の前を通過しようかという所で立ち止まり、私に横顔を向けたまま……呟いた。
「マリー……パスファインダーだな?」
背筋を、寒気が走った。男の声に籠る殺気を、臆病な草食獣である私は聞き逃していなかった。
「は、はい? マリーパスファインダーさんなら、あのリトルマリー号の中だと思いますけど」
私は迂闊にもそうペラペラと答えてしまった。しまった。何も知らない振りをしなきゃいけない所でしょう!
黒衣の男は俯き、何事か考えているような顔をする……その猛禽類のような視線を私に向けたまま……誤魔化し通せたか? 全くそんな気がしない。
私の心の中の、アイマスクをつけて羽根帽子を被ったどこかの貴族の小僧が、飛び退けと叫んだ。
その男が、腰のレイピアを抜き放った瞬間には、私は建物の陰から飛び退っていた! しかし男の動きは更に素早く、その切っ先は私の喉元へと迫る……!
―― タン!
私は間一髪、虎口を逃れ横倒し転がっていた樽を踏み越え、倉庫の敷地の頼りなく細い板塀の上へと飛び乗っていた。
息をつく暇は無かった。身を翻した男は音も無く疾走し追い掛けて来る! 私は塀の上を全力で走っていたが、すぐに追いつかれそうだ……! では倉庫の敷地の中へ飛び降りるか!?
否。私はどうにか敷地の中の物置小屋のような所まで先に辿り着き、板塀からその軒先へと飛び移る! 危ない! 敷地の内側にも似たような黒衣の男が待ち構えていた! ここから見える範囲にも三人程……こちらはフードも被っていて顔は伺えない。
最初に私を追って来た、細面の男が、板塀の向こうから私を見上げ、睨み付けている……
「随分逃げ足が速いようだな……貴様の腰のその剣は飾りか? 貴様に一欠けらでも誇りのような物でもあるのなら、大人しく降りて来て勝負しろ」
突然の緊張に感覚がおかしくなっていた私は、それを聞いて吹き出してしまった。飾りかって? そうだよ竹光だよ! あと誇りとか一欠けらも無いですから!
人の笑顔というのは、言葉の通じない人とでも心を通わせられるとても素敵なものでもあるのだが。そんな笑顔が挑発行為となり、言葉が通じるはずの相手とも話が通じなくなってしまう事もある。
「おのれ、小癪な……包囲し、捕えよ!」
ぎゃああぁぁあぁあ!?
物置小屋は平屋の小さな建物で屋根はそんなに高くない、ここに居たら捕まる、どうしよう、倉庫本体は二階建ての高さがあるが……
私は敷地の内側の男達を見極め、空いている所に飛び降りて走る! 追い掛けて来る男達は……外に居た男程速くは無い。
私は二階建てぐらいの高さの倉庫の本棟に向かって走り、立て掛けてあった箒の柄を足場に飛躍し、壁の出っ張りを蹴って、二階の窓から飛び出している滑車に捕まり、体を振って軒によじ登る。
「くそッ、サルみたいな奴め!」
「弓を出せ! 射落とせ!」
「待て! 早まるな!」
ひぃぃいいい早まらないで! 飛び道具はズルいよやめてぇぇ! あとこっちの船酔い知らずのズルは見逃して……
一体何なんだ。どうして私がこんな目に遭わなきゃならないんだ。私が何をしたと言うんですか!?
駄目だ、今はただ逃げるしかない、謎解きなんか二の次だよ。
私はそう考えて、倉庫の本棟の屋根の上を、男達が居ない方へ真っ直ぐ走って行く。このまま振り切ろう。それがいい。
倉庫の反対側の、隣棟との間の通路には誰も居なかった。私は一瞬後ろを振り向く。追手がこちら側に回り込んで来るまでにはまだ時間がかかるだろう。
ここからなら逃げ切れる。だけど三階のさらに屋根の上、いくら船酔い知らずでもこの高さを飛び降りて大丈夫かしら? 船の上と感覚が違うからよく解らない……まあいいや飛んじゃえ。
―― タッタッタッタッ……
え? あああ私が飛び降りた瞬間に黒衣の男が物陰から駆け込んで来た!? こっちにも居たんですか!
「ギャッ……!」
私の右足のブーツの裏は、その瞬間私を見上げて酷く驚いた、黒い外套を着てフードも被っていた丸顔のおじさんの顔面に着地していた。
おじさんはそのまま立ち尽くしてした。私は後ろに一回転して今度は地面に着地した。
「あ、あの……」
私がそう声を掛けた瞬間、おじさんは声も上げず変な方向に首を折り曲げながらゆっくりと倒れて行く。
「ぉ、おじさ……」
私は慌てて駆け寄って黒衣のおじさんが倒れないように支えようとしたが、重いぃ! 当たり前だけど大の男は重いよ!
それでも私はどうにか黒衣のおじさんがそれ以上頭をどこかにぶつけないよう地面に降ろしたのだが、その姿は傍から見ると、黒衣のおじさんが私を捕まえて地面に抑えつけているように見えたのだと思う。
「デュモン卿! モーリスがあの小娘を捕えました!」
遠くで誰かがそう言うのが聞こえた。暗がりの中、そっと覗き込むと、通路の向こうに……最初に外に居たフードを被っていない細面の男と、フードを被った別の男が見えた。
あの細面の男がデュモン卿という名前なのか。フードを被った男の方が手下らしく、先にこちらへ駆けて来る。そして。
「手こずらせおって……縛り上げろ。枢機卿の所へ連れて行くぞ」
デュモン卿? は私の地獄耳を知らないのだろう。彼は仲間にだけそう言ったつもりなのだろうが、私の耳ははっきりとそれを捉えていた。
枢機卿ですか。今日風紀兵団が訪問した時には、居るはずの修道院にいらっしゃらないとお聞きしていましたが。あの……御自分の何かの企みの為に、シビル艦長を公開処刑しようとしていた人が、今回の件に何か関わっているんですか。
私は多分モーリスさんという名前の、黒い外套を着た丸顔の、気絶している、デュモン卿の手下と思われる人を跳ね飛ばして立ち上がる。
「なっ……!」
立ち上がった私を見て、フードを被った男もその後ろに居たデュモン卿も、顔色を変えてこちらに走って来るが、私はまた、隣棟の壁、手前の棟の軒、隣棟の窓枠と蹴り渡って、倉庫の屋根の上によじ登っていた。
「興味深い御話ですが、今夜は失礼させていただきますよ! 貴方達も帰ってお祈りをしてお休みなさい。フフッ……ハハハッ」
謎の昂揚感に負けた私は、意味も無く悪役っぽく笑いながら、隣棟の屋根へと飛び移り、走り去る。