アイリ「そのマリーちゃんはどこなのよ! どこにも居ないじゃない!」アレク「あのすばしっこい船長を追い掛けるのは、僕らには無理だったんだ……」不精ひげ「何しに出て来たんだ俺達は……」
マリーが居る世界は17世紀前半の地球に良く似た別の世界……ですので、その時代の地球で何があったとしても、この世界と関連は無いのですが……
イタリア(後の)にはガリレオ・ガリレイが居ます。勿論実在の人物です。地動説と異端裁判が有名な方ですが、実験と検証によって自説の正しさを証明するという、今では当たり前と思える手法を広め科学に革命をもたらしたのは彼の功績ではないでしょうか。
スペインにはドン・キホーテが居ました。こちらは創作上の人物ですが、その物語は当事刊行され、すぐに英訳、仏訳も作られヨーロッパ中に広まりました。17世紀前半の新大陸の植民地のお祭りでもドン・キホーテ役の道化が現れて笑いを取っていたというから、時代を考えると途方もないバズり振りです。
そしてフランスにはダルタニヤンと三銃士が! ……まあこちらは発表されたのは19世紀中頃なんですが、その中に登場する(小説の中では)敵役のリシュリュー枢機卿は17世紀前半に活躍した実在の人物です。
そしてそしてイギリスには、彼の人類史上初の創作ミリオネア、超売れっ子ベストセラー作家、ウイリアム・シェイクスピア先生が! 次から次へと名作を生み出し世に送り出し、商業的にも大成功したそうです。
そんな熱い時代ではあるのですが、普通の王侯貴族には関係のない事で。多くの偉い人は生活に苦しむ庶民を尻目に、有り余る時間の潰し方に腐心しております。
一番の時間潰しは恋愛ですね。それも世間に知られたら大変っていう、ハラハラドキドキの忍ぶ恋だったりすると尚いいらしいですね。
「さてと、気を取り直して。君、港まで案内しなさい」
私も立派な髭を蓄えた人というのはたくさん見て来た。何ならロイ爺のきちんと整えた長い顎鬚にはリボンを結んでみたいといつも思っている。
「だけどそれは随分小さなランプだな。他にいいのは無かったの?」
しかし、この顔の大きなおじさんの髭は別次元の手入れの良さだ。口髭、顎鬚、揉み上げ……私にはそういうものの良し悪しは解らないが、とにかく大変な手間暇を掛けて手入れされているように見える。
「君、私の話聞いてる? 何をぼんやりしているんだ。グズグズするなよ」
「あの。港でしたら海に向かって歩いて、海岸に出たら海岸に沿って歩くだけですから」
「そのくらいの事は知っているよ! だけどこの通り、道はもう真っ暗でしょう、それで遠くの灯りを見ながら歩いてたら、あいつらとぶつかったんだよ!」
「そうですか、それはお気の毒です、今度は無事辿り着けますように。ごきげんよう」
私は慇懃無礼にそう言って、とっとと踵を返して立ち去る。酔っ払いから助けてあげたんだからいいでしょ、もう。
……
私は20m程歩いてから一度ちらりと後ろを見る。おじさんは道に立ち尽くしたまま、まだこっちを見ていた。
いやもういいから。小娘は夜遅くまで街を歩いていてはいけないのだ、それでは不良少女になってしまうのだ。風紀上、好ましくないのだ。
私は再び宿に向かって歩き出す。早くしないと、宿の入り口を閉められちゃいますよ。
さらに30m歩いた私は、もう一度、ほんのちらりと後ろを見る。
◇◇◇
「何故一度帰ろうとしたんだい。君は風紀兵団なのだろう?」
「違います、どこをどう見たら私が風紀兵団に見えるんですか! さっさとついて来て下さい!」
結局私は立ち尽くしていたおじさんを先導し、港に続く道を戻っていた。
「そうなのか。まあ嫌に小さい風紀兵団だなとは思ったよ。君、小さいね本当に」
そして無暗に腹が立つ……私は既にあの陸軍さんの方に同情しつつあった。
「小さくて申し訳ありませんでしたね! じゃあもっと大きな道案内を雇えばどうですか!」
「興味深い提案だけど、小さい事も悪くないなって、私は今日、そう思ったばかりなんです」
私は一瞬、このおじさんは今度は私の事を褒める気かと思ったのだが。そうではなかった。
「ああそうだ。私はリトルマリー号の所に行きたいんですよ。そこに案内して下さい。小さなマリーですよ、御存知ですか?」
ああ。つまり、この人も私と同じ、気まぐれで小船に乗る国王陛下を見る為、田舎から出て来たおのぼりさんか。
「知ってますけど、国王陛下の御上船はもう済んじゃいましたよ? 陛下ももう王都に帰られたんじゃないですかね」
「あっ、いや……あー。ああ、そうですか。それは別に結構、とにかくリトルマリー号の所に連れて行って下さい」
それは昼間であればお安い御用の道案内なのだが、暗い夜道を案内して行くとなると、あまり気持ちの良いものではない。
レブナンはやはりあまり宵っ張りな町ではなく、ランプや松明を掛けてあるような場所は大通りや広場に限られ、その数も少ない。
それなのに。
「ああっ、君、その道はいけない、兵隊がたくさん居るじゃないか!」
「……大丈夫ですよ、普通に通り過ぎる分には何でもないですよ」
「いいからッ! あんな事のあった後だろう、解らないのかい!? 困るよ、気を遣ってくれないと」
立派な髭を蓄えた肩幅が広く背の高いおじさんは、酷く兵隊さん達を怖がって、彼等が居る道を嫌い、暗く人気の無い裏道を通るようせがむ。
「これじゃ入る家を探してる泥棒みたいですよ……」
「うるさいなあ。君、やっぱり風紀兵団なんじゃないの?」
「断じて違います」
「だけどさっき、風紀ある市井、って叫んでたよね?」
「それは……!」
私は風紀ある市井と叫ぶ側ではなく、風紀ある市井と叫ばれながら追い掛けられる側の人間だったので、ついそのフレーズを覚えてしまっていただけで……
幸い、おじさんは別に私に興味など無いようだった。
「それより早くリトルマリー号に行かなきゃ。君ね、もっと近道とか無いの?」
「ありますよ! さっきの大通りですよ!」
「大通り以外にだよ! 解るでしょ馬鹿じゃないんだから。それとも馬鹿なの? やっぱり風紀兵団なの?」
それはさすがにカチンと来る物言いである。
「結構! この蝋燭をどうぞ、お取りなさい」
「え……? どうして? 君が持ってくれたらいいでしょ」
「この蝋燭を持ってどうぞお好きな道を一人で歩きなさいと申し上げてるんですよ! 私は断じて風紀兵団ではありませんよ? だけどあの人達がどれだけ、市民の健全な生活を守る為、良民に仇をなす悪を取り除く為、日夜情熱を燃やしているのか御存知無いんですか!? 自分達は大変な努力をしているのに、未だ救われない孤児が居る事に、どれだけ心を痛めているか、御存知なんですか!? 何も知らないくせに、風紀兵団を馬鹿にするのはやめて下さい!」
私は自分でそう言いながら、心中密かに自分はなんて酷い奴なんだろうと思っていた。この台詞、前半はともかく後半は完全に自分の事を棚に上げているのである。
「そんな大声を出すなよ……皆寝静まってるのに迷惑でしょう」
「いいからこの蝋燭を取りなさい! 私は帰りますよ、私だって寝る時間ですよもう!」
「わかったわかった、私が悪かったから……ほら、降参だよ、降参」
そう子供をあやすように言いながら、おじさんは小さく両手を挙げる……ああああ、むかつく、むかつく……何なんですかこの人は!
話しても無駄だ。とにかくさっさとリトルマリー号に連れて行ってしまおう。そうすれば向こうも私に用は無くなる。
「一人で歩くのが嫌なら黙ってついて来て下さい。一人で行きたくなったらいつでもそう言って下さいよ、この蝋燭を差し上げますから」
私はそう言って、振り向かずに歩き出す。
◇◇◇
私は港の閉場中の大きな市場の間を通り、海軍が陣幕を張って中が見えないようにしてあるドックの前に辿り着く。
「リトルマリー号はあの陣幕の中ですよ」
私は陣幕の隙間から、小さな蝋燭で中を照らす。
昼間と違い、辺りには警備の兵も見えない。揃いの制服を着たエリート水兵すら居ないっぽい……国王陛下の御上船が済んだ途端にこれかよ。この船を無事に私に返すまでが海軍の仕事なんじゃないんですかね。見張りくらい置いといてよ。
「ふーむ」
おじさんは陣幕の隙間からリトルマリー号を覗き込む。
「どうですか? なかなか立派な船でしょう?」
私はつい、そう言ってしまった。
「ああ、そうね、うん」
おじさんは気の無い返事を寄越す。
まあ……そうだよな。国王陛下が乗りたがる小船だと言うから、どんな凄い小船なんだろうって想像するよね、普通。だけど現実は見ての通り、ただの厚化粧をした古い船ですよ。
「満足しました?」
私はさっさとこのおじさんから解放されたいと思い、そう結論を急いだが。
おじさんはキョロキョロと辺りを見回しながら、上の空で答える。
「そうね……君はもう帰って結構」
ここでまたカチンと来る私は心が狭いのだろうか。それとも傲慢なのだろうか。私はまた何かを言いそうになったが。
「アルセーヌ様……」
小さな声が、私の船酔い知らずの地獄耳にはっきりと聞こえた。
私から既に10mくらい離れていたおじさんの前に、いつの間に現れたのか……黒いフードを被って髪と横顔を隠していた、背の高い美女……真実の、マリー・パスファインダーさんが立っていた。