アンブロワーズ「マリー船長が? またまた、冗談がキツいよ、そんなに早く出て来る訳がないでしょう……何ですって?」
王様が急遽、リトルマリー号に再度乗る事を決めたようです。
どういう風の吹き回しなのでしょう(棒読み)
この話は三人称で参ります。
異変を知らされた時、ユロー枢機卿はレブナン郊外の修道院に居た。アンブロワーズ国王の信任の厚さでは並ぶ者がなくなりつつある枢機卿だが、彼は今の所自分は一聖職者であるという姿勢を崩さず、質素な生活を心掛けている。
そして取り急ぎ、レブナン市街の高台にある国王の別荘に参内すべく、馬車を急がせていた時だった。
「馬車を止めてくれ。今、見えてはいけない者が見えた気がする……」
「は……如何なされましたか」
枢機卿は止まった馬車の窓のカーテンの隙間からそれを確認する。間違いない。レブナン郊外の浜辺から市街に続く道を一人で歩いていたそれは、リトルマリー号の元船長、マリー・パスファインダーだった。
「どういう事だ……何故あの者が今ここを歩いているのだ」
馬車に同乗していた黒衣の男も、枢機卿が見咎めた人物を見て言う。
「あの小僧が何か、都合の悪い人物なのでしょうか? 幸い辺りは人影も疎ら、捕えて始末する事は容易いかと存じますが」
修道騎士団の精鋭の男は、そう言って枢機卿の返事を待つ。
「デュモン。無暗にそのような事を考えるものではない……特に自分が把握しきれていない物事に対してはな。あの少女は、一筋縄で済む相手ではない」
「は……申し訳ありません、猊下」
「陛下の元に急ごう。出発してくれ」
◇◇◇
先々代のアントワーヌ王時代に建てられたレブナンの別荘は、これまで実際に王族に使われた事は無かった。この建物はごく普通の大きな邸宅のような佇まいで、レブナンの高台から街と港を見下ろしている。
邸宅はそれなりに広い敷地と林に囲まれており、その周囲は王都から同行している正規の近衛騎士団が厳重に警護していた。
「ああ、ごめんねエド、私、今日は休みでいいと言ったのにね」
アンブロワーズ国王は出掛ける支度を済ませた様子で、ユロー枢機卿を玄関ホールで出迎える。
「臣下として当然の務めです、陛下。やんごとなき方が無暗にお詫びの言葉など口にされませぬよう……それより。リトルマリー号への御上船、御英断いただけたと伺いましたが」
アンブロワーズは大きな襞襟のついた濃緑色のプールポワン姿で、玄関ホールの大きな鏡に向かい、髭の角度を整えだす。
「あ……ああ……ドパルドンもミシュランも何度も泣きついて来るし、君も昨日ね、レブナンの民衆も私の姿を見るのをとても楽しみにしていると言っていたじゃない……だからその……何だ、この場はね、私が大人になるべきなんじゃないかと」
国王の声は語尾に向かうにつれ次第に小さくなって行く。
「陛下、貴方はアイビス国王なのです、このような事で臣下に理由を説明する必要はありません、気が変わった、と一言仰れば宜しいのです。ともあれ、私も一臣下として陛下の御配慮に深く感謝申し上げます」
「む……そうだな、君の言う通りだ」
枢機卿が深く頭を下げると、国王は胸を張り、咳払いを一つする。
「それでは、出掛けるとしようか」
アンブロワーズ国王はそのまま玄関を出て馬車の方へ向かう。
当初の予定ではブランディーヌ号からリトルマリー号へ移乗するつもりだった国王は、今日は港から陸路で乗り込む事になった。
そのせいで今、リトルマリー号の近くの桟橋は大変な事になっていた。御破算になった警備体制を一から作り上げなくてはならないのだ。その主導権を誰が取るかを巡り、本来の接待役であった海軍を中心に、陸軍、衛兵、騎士団、有力貴族、教会、様々な武装勢力が仁義なき戦いを繰り広げているのである。
◇◇◇
「国王陛下の行列だ! 皆歓声を上げろ!」
「待て、大通りからは離れろ!」「下がれ! 下がれー!!」
昨日の昼と同じような、騎兵の隊列が、槍兵の行列が、そしてただ大砲を牽かされているだけの砲兵の行列が町を行く。広場には楽団が展開し、鼓笛による勇壮な行進曲を演奏する。
「国王陛下万歳!!」「アイビス万歳!!」
市民達は再び、沿道に集まっていた。
昨日はお預けになった焼き菓子は今日、警備担当者の手違いにより国王が来るより前に市民に配られてしまった。焼きたてではなくなってしまった焼き菓子ではあったが、これは市民の機嫌を改善する事に大いに役立っていた。
そしてやり直しのパレードには大変なサプライズが含まれていた。国王を乗せた馬車が市街地を通過するのだ。
「国王陛下すてきィィ!!」「王様ー!! こっち向いてー!!」
たくさんの花や美しい布で飾り立てられた馬車の窓を少しだけ開け、アンブロワーズが微かに手を振ると、沿道から淑女達の黄色い声が飛ぶ。
◇◇◇
桟橋に居た他の武装勢力は、国王陛下本人を護衛して来た近衛騎士団にまとめて蹴散らされた。結局の所、錦の御旗を抱えていた者の勝ちという事である。
しかし海軍の一部だけは追放を免れ、その場所に留まっていた。アイビス王国の第一海軍卿、ドパルドン侯爵はその中に居た。
「国王陛下。我ら海軍の願いを御聞き届けいただき、誠に有難うございます」
アイビスの海軍卿は王都における海軍の最高責任者であり、名目上はアイビス王国内の全ての海軍を統べている事になっている。
しかし実情はその通りには行かない。アイビスの各地の海軍はそれぞれが半ば独立した封建領主のような性格を持っており、極端な話、西へ行けという指示を中央から出しても、すぐに従わず、今は南西へ行くべきであるという意見書だけが返って来る、そのような事が時折起こる。
それは西と南西とどちらが正解かという問題ではない。そんな事に時間を浪費していたら、海上でレイヴンに勝つ事など出来ないのだ。
ユロー枢機卿が腐心しているのはそういう所である。中央から西へ行けと言われれば、それがどんなに間違っているように思えてもただちに西へ向かうのが、強い国の軍隊なのだと。
それはさておき。
「ドパルドン君。昨日のおじいちゃんはどうしたの」
「は……おじいちゃん、とは……?」
国王の問い掛けに、海軍卿はきょとんとして応える。
「リトルマリー号の代理船長ですよ! 居たでしょう、勲章をたくさんぶら下げた……彼は何故ここに居ないんですか」
「し、しかしあの者は昨日、陛下の御不興を買ったものと思いましたが」
「不興? そんな訳が無いだろう。いいかい。彼は長年王国の為に戦いたくさんの手柄を立てたので、私が乗る船の船長に選ばれたんだろう? 何でそういう人を大事にしないかなあ。私には理解出来ないよ」
恐縮したように肩をすぼめる海軍卿に、国王は昨日枢機卿から諭された内容をそのまま自分の言葉のようにしてぶつける。
黒いドレスを着た淑女、マリー・パスファインダーは、そのタイミングで。桟橋に係留されたリトルマリー号から現れ、跳ね上げブリッジを伝い、いそいそと……駆け下りて来た。
「申し訳ありませんドパルドン閣下、私がこのような大事な折に御邪魔申し上げたせいで」
マリーは海軍卿ドパルドンの斜め後ろに進み出て、恐縮しつつ奏上する。
ドパルドンはそちらを向き、やんわりと窘める。
「パスファインダー船長、高貴な方の御前であるぞ、控えよ」
「待ちなさい」
黒いドレスの淑女を下がらせようとする海軍卿に、国王は穏やかに声を掛ける。それから、マリーに尋ねる。
「貴女が……マリー船長ですか?」
華やかで洗練されている事にかけては北大陸随一と言われるアイビスの王都には、世界の美女が集まって来る。
そして国王であるアンブロワーズの目は王都で一番肥えていると言っても過言ではない。単なる美人なら見飽きる程見ているのだ。
しかしそれが長身で手足が長くグラマラスだが腰は細く髪の長い、クールで知的な洗練された、彼の中での100点に限りなく近い程の超美人となると、いかに国王といえどそうそう年中見つける事は出来ない。
「はい。私がマリー・パスファインダーでございます、高貴な方」
マリーは目の前に居るのがアイビスの国王だとは気づいていないかのように、軽く小首を傾げて答える。
ユロー枢機卿はこの場では出しゃばる事を避け、国王からかなり離れた後ろに追従していたが。
「これは一体、どういう事ですか」
枢機卿は近くに居た王宮の外務高官の一人、マリオット男爵の背後に近づき、声を落とし、あくまで穏やかに、しかし有無を言わせぬ圧力を籠めて囁く。
「あ、ああ、これは枢機卿猊下……何か、御不満な点でも」
「私は陛下が翻意されたとしか聞いておりません。あの女性は誰ですか」
片眼鏡を着けた、ややレイヴン訛りのある伊達男、マリオット男爵は、少し気まずそうに顔を傾けながら枢機卿に答える。
「あれは……リトルマリー号の船長、マリー・パスファインダーです」
「リトルマリー号の船長はラッセンという男のはず。そもそもアイビス海軍は女性の任官を認めておりません」
枢機卿は鎌を掛けるべく、敢えてそう切り出した。
「私は海軍の人間ではないので詳しくは存じませんが、リトルマリー号は民間船ですので……ラッセン氏もパルキア海軍が派遣した代理船長でした」
「ではラッセンはどこです。彼には国王陛下の前でリトルマリー号を指揮するという任務があるはずだ」
「ああ、彼は……どうしたのでしょうね、まあ高齢のようでしたからね」
「あれは本物のマリー・パスファインダーではないのでラッセンには見せられない。そうではないのですか?」
枢機卿の囁きに、マリオット男爵は震え上がる。彼は枢機卿が恐ろしく抜け目の無い男だという事は知っていたが、まさかこのマリー・パスファインダーの正体を一目で見抜かれるとは思ってもいなかった。
「控えよというのだ、マリー船長、君は自分が何方に話し掛けているのか解っているのか」
ドパルドンはあくまで穏やかにマリーを窘めて、また国王に向き直る。
「申し訳ありません、彼女は平民の出の者、どうか不躾をお許し下さい、陛下」
陛下。ドパルドン侯爵が穏やかにそう口に出すと、マリーは半歩後ずさり、相手が国王陛下御本人だという事に今気づいたという、芝居掛かった仕草で狼狽すると、慌てて片膝をつき、腰を深く折って平伏する。
「何という事でしょう、私、なんと畏れ多い事を」
「ああ……貴女のような高潔な方が無暗に膝をつくものではない。ドパルドン君、君の言い方も良くないよ、リトルマリー号に御願いして来て貰っているのは私の方だし、今日私が来る事を彼女は知らなかったのだろう?」
桟橋の狂騒を見れば、国王が来た事に気づかない人間など居ないとは思うが、ともかく、国王本人はそう言ってマリーに立ち上がるよう求めた。
「どうしましょう……私、心の準備が出来ておりませんわ」
立ち上がったマリーに、国王は穏やかに両手を広げて見せる。
「深く考えないで下さい、我侭を言っているのは私の方なのだから。さあ、貴女のリトルマリー号を案内していただけませんか。昼食は済んでしまったけれど、おやつには丁度いい時間ですね。ミシュラン君、準備は出来てるよね?」
名前を呼ばれた国王の侍従長ミシュランは、他の侍従達と共にお茶とお菓子の準備を携えて、桟橋からリトルマリー号の方へ進み出る。
「畏まりました……このような小さな船にやんごとなき方を御案内するのは心苦しゅうございますが……どうか御覧下さい、これが私と父フォルコンの船、リトルマリー号ですわ。どうか御足下にお気をつけてお越し下さい」
マリーは踵を返し、国王を誘うように振り返りつつ、跳ね上げブリッジを渡りリトルマリー号の甲板へと戻って行く。
アンブロワーズ国王はそんなマリーの後ろ姿を、より正確に言えば黒いドレス姿のマリーの美しい背中と魅惑的な腰つきを見つめていたが。
「ドパルドン君」
「はい、陛下」
「何故海軍はこういう事をするの? 君達は荒々しいが素朴で実直な、海の男達だと思っていたんだけど」
国王はドパルドンに横顔を向けたままそう言った。ドパルドンは国王の言葉の意図が解らず密かに青ざめる。しかし。
「想像以上じゃないか……! マリー船長はね、私の想像を越えているよ。彼女は何と美しいのだろう、そしてとても野性的だ、王宮にはああいう女性は居ない。素晴らしい……なのにどうして昨日は隠していた? さてはわざと意地悪をして、私を一度がっかりさせたのだな? そうに違いない、何て奴だ君は」
「え……いえ……そのような事は断じてございません、マリー船長が今日ここに現れたのは、私共も全く予想していなかった偶然によるもので、それは」
「結構、続きは本人から聞くよ」
アンブロワーズ国王はそう言ってドパルドン侯爵との会話を終わらせると、足取りも軽く飛び跳ねるように、リトルマリー号に架けられた跳ね上げブリッジを通り、その甲板へと歩いて行った。