マリー「あ……あの違います、食い逃げじゃありません、ちゃんとお金は持ってるし払います! 払えなくて泣いてる訳じゃないですから!」
マリーとフレデリクで全く違うトライダーの評価。
だけどそれはトライダーにも問題があったのです。フレデリクには何でも腹を割って話し、フレデリクの話もよく聞いて理解してくれたのに、マリー相手には王立養育院一辺倒。それじゃあ付き合いきれないよね。
でもちょっと待って。今それどころじゃないかもしれない。
眩暈を、覚えた。
ちょっと待って。
これは私をこのレストランに招待するという意味かもしれない。
「マリオット卿から御話は承っております。どうぞこちらへ」
だけどレストランの執事さんは普通に、この女の人をマリー・パスファインダーとして、店内に案内して行くし、女の人はこちらに気づきもしない。
私は肩を落とし、背中を丸め、口をポカンと開けたまま、少し後からレストランの入り口へと向かう。
店内はたくさんの善男善女で賑わっていた。やはり見た目よりは気さくな店らしい。
「いらっしゃいませ……御一人ですか?」
店の入り口から侵入した私を見つけ、若い給仕のお兄さんが飛んで来る。私はただ、おずおずと頷く。
「……こちらへどうぞ」
お兄さんは私を店の奥の、隅っこの方へと連れて行く……そこには他の華やかなダイニングテーブルとは雰囲気の違う、お一人様用の簡素なテーブルと椅子が並んでいた。
「あの……看板のシチューとパンを……」
「かしこまりました」
私はすぐに希望を告げ、席に着く。お兄さんは手に持った小さな黒板に何かを書き込みながら立ち去って行く。
私の身に、何が起きているのか?
あのお姉さんは魔法使いか何かで、私はお姉さんの術にかかり、気がつかないままにここへ誘導されて来たのか?
それとも、あのお姉さんが冗談か何かで自分をマリー・パスファインダーだと言ったのか? そこに偶然、物凄い偶然にも、本物のマリー・パスファインダーが通りかかったのか?
いや待てよ。同姓同名という事は無いか? マリーという名前はありふれていて、北大陸の町ならどこにでも居る。
一方、パスファインダーは変わった苗字だ。あまりアイビス風ではなく、どちらかと言えばレイヴン風だと思う。だけどこの町はレイヴンから近く、パスファインダーという苗字の人が生活している可能性はヴィタリスなどよりずっと高いのではないか。
きっとそうだ。あの人は普通に私とは別のマリー・パスファインダーさんなのだ。
「初めてお目にかかります、閣下。マリー・パスファインダーと申しますわ」
しかし何という事か。私が座る店の隅の席、その壁の向こう側は上客用の個室になっているらしい。そして銃士マリー姿の私は、船酔い知らずの地獄耳で壁の向こうの声を聞く事が出来てしまった。
「おお、これはお美しい……ああ失礼、つい本音が。ははは……コホン。えー。では、一つずつ質問させていただこう。まず……貴女の御職業は?」
「パスファインダー商会の商会長を務めております」
偶然ですよ、苗字に商会ってつけただけだもの、ありがちな社名だから……きっとあの人も、私のとは違うパスファインダー商会の商会長なんですよ……
「あー。アイビス海軍は今、リトルマリー号という船を借り上げているのだが」
「勿論ですわ。リトルマリー号は私の父、フォルコンの船でした」
―― ゴト。
「お待たせ致しました。林檎と鶏もも肉をクリームで煮込み三種類のチーズで仕上げたレブ葱とろける絶品シチューでございます」
私の前に、料理が置かれた。
「御父上の事は、残念でしたな」
「いいえ。父は心から国を思う人でした。アイビスと国王陛下の為に戦って命を落とした事は、父の本望だったと思いますわ」
「何と殊勝な……しかし淑女の身でリトルマリー号とパスファインダー商会を引き継ぐ事には、様々な御苦労があったでしょう」
「そのような事はございません。国王陛下の治世は四海を遍く照らし鎮めておりますわ……そして暗がりに残る凶賊にも、勇敢なアイビス海軍の皆様が目を光らせていて下さいますもの。勿論……時には危険な事もございますが」
こんなに柔らかい鶏もも肉は初めてだ……どんな下拵えをしたらこうなるのだろう。そして溶けかかった葱の上品な甘さと林檎の爽やかな酸味が、種類の違う溶けるチーズと溶けないチーズのハーモニーが、口の中一杯に広がる……
「いやぁ……貴女のような美しい人がそのような苦労をなされるとは、何と忍びない事でしょうなあ。いやいや……コホン。今日、レブナンに来られた理由を御伺いしても宜しいかな?」
「はい。皆様の警備の御仕事の忙しい時に、誠に申し訳無いとは思うのですが。リトルマリー号は父と私の想い出の船……父が幼い私を養う為、守り抜いて来た小さな城ですわ。その甲板に国王陛下が立たれるとは、何と畏れ多く、何と光栄な事でしょうか。私、どうしてもそれを一目、拝観したいと思いましたの」
「ああ……申し訳無い、美しい人よ。貴女に涙を流していただくつもりではなかったのです」
とろけているのは葱だけではない、蕪もこんなに柔らかくなって……蕪などというのは私などのような貧しい百姓だけの食べ物だと思っていたのだが、一流の料理人が調理するとこんなに素敵な味わいになるのか。
私もこの蕪のようになりたい。きっと丁寧に皮を剥き、長時間煮込んだのだろう。
それでも土の臭みを感じないのはチーズ達のおかげなのだろうが、これは貧しい百姓娘でも努力すれば華やかな舞台の脇役ぐらいにはなれるという、勇気を与えてくれる料理だ……私はそんな事を考えてしまう。
気が付けば私は泣いていた。ぽろぽろ涙を零しながらシチューを半ば食べ終えていた。
同時に注文したパンは来ない。皿に残ったクリームとチーズを、パンですくって食べたいのに。
「ゆっくり出来れば良かったのだが、あまり時間が無い。申し訳ない、素敵な淑女との会食に時間を割けないとは、アイビス男の名が廃るというものだが」
壁の向こうの個室を出た立派な紳士が、賑わう店内を通り抜けて行く。
「見ろ、第一海軍卿のドパルドン侯爵だ」
客席で、誰かが呟くのが聞こえる。侯爵の後ろには随行の海軍官僚と思しき人が数人の他、別の貴族と思われる片眼鏡の紳士がついて行く。あちらはマリオット卿だろうか。
そして紅一点。そんな彼等に護衛されるように、赤い薔薇の似合いそうな洗練された都会の美女、マリー・パスファインダーさんが通り過ぎて行く。
やっぱり背が高い、175cmくらいある。手足が長く姿勢もとても綺麗だ。きっと教養も豊かなのだろう。そしてグラマーだ、だけど腰は細い、髪の毛も長く艶やかで……海軍さんへの受け答えもとても知的で立派だった。
勝てる要素が、無い。
―― カシャン。
ああ……スプーンを皿に落としてしまった。近くの席の人がこちらを向いたようだが、涙で視界が滲んで良く見えない。
事実は真実の敵なり。
それは近年流行した、ニスル人作家の手による、コルジアのとある騎士の活躍を描いた小説に出て来る言葉である。
物語の中でその騎士は、野原にある粉挽き小屋の風車を指差してあれは邪悪な巨人族の戦士の偽装であると言い出す。
従者は騎士を説得して止めようとする。あれはただの風車ですと。しかし騎士は話を聞かず、いや、十分に聞いて吟味し考慮した上で、従者を逆に諭し、風車に突撃して……その羽根に跳ね飛ばされて意味も無く大怪我をする。
私はその間抜けな騎士の物語をゲラゲラ笑いながら読み耽ったのだが……今はもう、それを笑えない。
私がリトルマリー号元船長、マリー・パスファインダーである事は事実である。
しかし、あの人は自分をフォルコンの娘にしてリトルマリー号の現在の所有者であるマリー・パスファインダーだと言った。
そして海軍の皆さんが賛辞を贈り、喜んだ。皆、マリー・パスファインダーさんが洗練された都会の淑女で良かったと思ったのだ。
その時。ほんの一瞬、真実のマリー・パスファインダーさんがこらちを見た。しかしすぐ向こうを向く。私は思わず目を伏せる。
涙が止まらない。なんでこっちが目を逸らさないといけないんですか。私は少し恨めしげな視線を、もう一度彼女に向ける。
「……」
彼女はもう一度、こちらを見ていた。単に、変な者を見る目で。
ああそうだ。ただ飯を食っていただけの女が突然ボロ泣きし出したら変だよな。まずは泣き止まなきゃ。だけど何で泣いてたんだっけ、私。思い出せない。
そうだ、パンが来ないよ。私、頼んだのに。お皿に残ったチーズが勿体無いじゃん。だけど仕方無い。忘れられてるんだ。私、存在感が無いから……
私は少しの間俯いていた。それは数秒だったかもしれないし数分だったかもしれない。
ようやく顔を上げた私の前には、難しい顔をした恰幅の良い髭のおじさんが居て、おたまを持ったまま腕組みをして私を見下ろしていた。
その後ろには心配顔の執事さん、呆れ顔の給仕の兄さんが。周りのお客さん達も、みんな私をちらちら見ている。
海軍卿や片眼鏡の人、海軍官僚さん達、真実のマリーさんの姿はもう無い。