ハンネス「畜生、オークのくせに可愛い女の子連れやがって」ヤコブ「でも船長とか言ってたぞ」
マリーは一つも悪くないんですけれど、間が悪いよね。
まあ、この母にしてこの娘あり、あの父にしてこの娘あり、この妻にしてあの夫あり……人間はお互いに影響を与えあって成長して行くんです。ハハハ。
私はまず気持ちを落ち着ける。
そして顔と体についた泥水は近くの井戸水で洗い落とす。
それからちょうど近くを通り掛かった行商の駕籠売りを呼び止めて、壊れた駕籠の代わりを買った。少年はとても喜んで受け取ってくれた。
踏みつぶされた鰊は通りすがりの黒猫にあげた。黒猫は少年に感謝してその脛に額をこすりつけて喜んでいた。
少年とはそれで別れた。彼は井戸水で洗った魚を入れた新しい駕籠を天秤棒で担いで、郊外にある彼と家族の住む村へと帰って行った。
次はウラドだ。
ウインダムは大きな港で、水運組合の支所も何か所かに別れていて、フォルコン号から一番近い支所にもその隣の支所にもウラドは居なかった。
それで中央波止場にある水運組合の本所まで来てみると。ようやくウラドは見つかった。そこで私は衝撃を受ける。あの真面目なウラドまでがフォルコン号で待っている仕事を怠け、露天の茶屋で掌棋など指しているではないか。
「せっ、船長ッ!? 申し訳ないッ……アレクを探しに出掛けたはずなのに、つい掌棋に夢中になってしまい……」
ウラドは嘘も下手だなあ。これは誰かに言われて仕方なく遊んでるフリをしてますね? 誰が真面目なウラドにそんな過酷な指示を出したのか? きっとアイリかロイ爺だな? ……そうだと思いたい。
「とにかく今すぐ船に戻る、すまないが、この勝負は私の負けという事で」
「おいおい! 最後まで指せよオーク! すっきりしねえだろこんなんじゃ!」
ウラドと対局していたのは町のごろつきらしい、刺青だらけの細身の男だった。私はその盤面をちらりと見る……一見ウラドの方が駒を減らされてるようだけど、反撃の準備は盤石みたいね。
そしてウラドは確かにオークと呼ばれる種族なのだが、その刺青男の言い方に差別的な物を感じた私はカチンと来た。
「ウラド先生、この男の言う通り最後まで指して下さい。賭け金はいくらですか? 銀貨2枚? 私がさらに金貨1枚載せますよ! 勝った方に差し上げます」
「なんだあ? ただで賞金乗せてくれんのか? それに今何と言ったオーク、船長だって? ハハハ、お前の船の船長、この女の子か!」
男が笑い、周りの野次馬もさざめく……まあ私が笑われる分にはいいや。
私自身、こんな小娘がウラドのような立派な紳士から船長と呼んで貰うのはおかしいと思うし。
「そう。賞金がいらないなら何とでも笑いなさいよ」
「いやいや待て待て、笑わないよ、だから俺が勝ったら金貨一枚くれよ?」
観衆は沸き勝負は盛り上がったが、私の読み通り勝負はウラドの圧勝に終わった。この刺青男もかなりの強者だったみたいだけど……うちの船、こんな達人が潜んでたのね。
刺青男は悔しがったが、銀貨2枚の負け分をきちんと払って、悪態をつく事もなく立ち去って行った。
「やったわねウラド、はい賞金!」
「そ、それを受け取る訳には行かない、私は仕事中に遊んでいたのであって」
「いいから受け取って、正直スッキリしたわよ私」
私は受け取りを渋るウラドの手に無理やり金貨を握らせながらそう囁き、それから賭け掌棋に賑わう水運組合本所近くの茶屋から離れる。
「さあ行きましょう、あははは」
ウラドが掌棋で、ウラドと私の事をちょっとバカにしていたごろつきをスマートにぶちのめし、銀貨2枚をせしめてやった。ざまぁである。
私は口では笑っていた。だけど多分、私の目は笑っていなかった。
先程魚売りの少年の為に新しい駕籠を買ってあげて、すりむいた膝をハンカチで拭って元気づけてあげる、優しいお姉さんを演じていた時も。
ウラドを探す為港の水運組合の支所を渡り歩いていた時も。ウラドを見つけ、掌棋の勝負の行方をじっと見つめるふりをしていた時も。
本当は私の頭の中は、醜くどす黒い感情で一杯になっていた。
何故ニーナがここに居るのか? いや。私を捨てて家を出て行き10年も経ったのだ、そもそもどこに居ようと彼女の勝手なのだろうが。
随分いい暮らしをしているではないか? 去年の今頃、私は田舎で貧困の中頼りであった祖母を亡くし毎日泣いていた。その間もニーナという女は二人の馭者と二頭の馬が引く天蓋付きの四輪馬車に乗り、高価なドレスを着て都会で優雅に暮らしていたのか?
よりによって何故あんな出会い方をした? 服も顔も泥だらけという格好で、通行人に踏み潰された魚を拾う私を見て、あの女は私を何だと思ったろうか?
こっちだってあんな女の顔は忘れていた。向こうも忘れていただろう。だけどあの様子は絶対、私が誰だか思い出したのだろう? ただの浮浪児を見ただけなら、ヒッとか悲鳴を上げて慌ててカーテンを閉める必要は無いはずだ。
酷い。
何が?
あの女か? 私か?
「はぁぁぁ……」
私は盛大な溜息をつく。違う。酷いのは運命だ。何故あんな出会い方をしなきゃならないんだ……酷過ぎる。運命は酷過ぎる。
「あの、船長。少し宜しいだろうか」
しまった。私、今ウラドと一緒に歩いてたんだった。溜息というのは、むやみに人に聞かせてはいけないものなのだ。
「あああっ、その、大丈夫だよ私、元気だから、元気!」
「む……そうか、それならばいいのだが……」
私が慌てて誤魔化すと、ウラドも言おうとしていた事を引っ込めてしまった。何を言おうとしていたんだろう?
こういう時も普段の私ならしつこく聞き返すんだろうけど……今の私は、先程の望まない出会いの事しか考えられなくなっていた。
◇◇◇
フォルコン号の面々は出港準備をしていなかった。帆布は全部帆桁から外されたまま、朝のうちに配達された水の樽は上甲板に放置されたままだ。
「お帰りなさい船長、あの、ちょっと困った事が起きて」
舷門を跨いだ私の元に、アレクが走って来る。
「鼠が出たんだよ、ほら、うちはこないだまで極光鱒と鰊を山ほど積んでたじゃない? それに今まではぶち君が退治してくれてたんだけど、今ぶち君休んでるでしょ、だから」
「そう……」
私は目を伏せて頷き、そのまま艦長室へ向かう。
「あの! それで皆で鼠退治をしてるの、今、船じゅう掃除して餌になりそうな物が無くなるようにしてるから」
アレクはまだ何か言っていたけど、私の耳には聞こえなかった。艦長室に戻った私は扉を閉め、そのままベッドに倒れ込む。
この船にはもう一匹、頼れる仲間、ぶち猫のぶち君が乗っている。
船に鼠はつきもので、どこかに寄港した時に荷物と一緒に乗り込んで来てしまう事がある。しかしぶち君は鼠捕りの名人らしく、すぐにそれを捕って来て私などに見せびらかす。
ぶち君が鼠を見せに来るのは港を出て一日か二日の間だけで、狩り尽くしたら探しにも行かない。彼には鼠の声が聞こえているのだ。
そんなぶち君がいくら療養中とはいえ、全く鼠を探しに行こうともしない。
この船はこの前まで極北のスヴァーヌの港に居た。あんな寒い国では鼠は冬眠していたのだろう。
今、この船に鼠は乗っていないと思う。
不精ひげやアイリ、アレクは一体何を企んでいるのだろう。真面目なウラドまで巻き込んで。
時刻はまだ正午を少し過ぎた頃だと思うのだが。ここの所の睡眠不足と疲労のせいか、私の意識はいつしか夢の中へと飛んで行ってしまった。