ミシュラン「どうか御願い致します、もはや猊下だけが頼りなのです」
アイビスの王様の御召しにより、海軍さんに半ば強制的に借り上げられてしまった旅立ちの船、バルシャ船リトルマリー号。
パルキアの海軍さんが御化粧をしたものに、前作での紆余曲折の後、グラストの海軍さんがさらに御化粧を施して、大変な姿になってやっと王様の元へと辿り着きました。
これでようやく王様に御披露目が出来た……と思いきや。何だか様子がおかしいみたい。
ユロー枢機卿は一瞬立ち止まり、壁に掛けられた小さな鏡で自分の襟と髭を目視する。何の問題も無い。それから、この船内での自分の居場所である所の礼拝室に、ノックもなく静かに入る。
王都を守るレアル艦隊の旗艦ブランディーヌ号は甲板長50mの大船ではあるが、そこはあくまで船は船、船内礼拝室は決してそう広くはない。
しかしそこに置かれていた長椅子は、背もたれにまで綿入りのクッションを設えた、天鵞絨張りの豪華な物だった。一般的には礼拝室の椅子というのは信徒が腰を下ろして説教を聞く為のものなので、質素な物が置かれるものなのだが。
その長椅子に。臙脂色のプールポワン姿の長身の男が一人、明らかに不貞腐れた様子で寝転がっている。
男は枢機卿に背中を向けたまま、力なく呟く。
「エド? やっと来てくれたのかい。酷いもんだよ……はぁ……年の終わりに私をこんな目に遭わせるなんて、運命って奴はなんと残酷なんだろうね」
エドというのは、この寝転んでいる男がエドゥアール・ユロー枢機卿の事を呼ぶ時の愛称だ。
枢機卿は溜息を堪え、落ち着いて答える。
「海軍に何か不手際がございましたか?」
「不手際なんてもんじゃないでしょう、なんだい君まで。解るだろう? いや私には解らないよ? 何で彼等が私をこんな目に遭わせたがるのか」
男は枢機卿に背中を向けたまま、上半身を起こす。
「私があの小船の梯子を登った時の気持ちが解る? 梯子だよ? この私に梯子を登れと。だけど仕方無いじゃない、小さな船だってのは解ってたから、私は我慢したよ。そうしたらねぇ……勲章をいくつもぶら下げたおじいさんが出て来てね、感激だの光栄だの言うじゃない? はぁ……どういう事なの! あんまりですよ!」
そもそも枢機卿は、今回の舟遊びに反対だった。
宿敵レイヴンの国力は日々増強著しく、二国間関係は決して穏やかではない。特にアイビス海軍は物量、戦術、制度、あらゆる面でレイヴン海軍に遅れをとっている。既存の海軍を甘やかしているような余裕は全く無いのである。
その舟遊びを辞めさせ、ついでにグラスト海軍に改革を迫ろうという枢機卿の計画は、思ってもいなかった伏兵の出現により阻止されてしまった。
しかし、やると決まってしまった以上はきちんと実行し、国王人気の維持と国威高揚に役立てようと、ユロー枢機卿は一転、この舟遊びが恙無く実行されるよう神経を使い、手筈を整えて来た。
それが今日の、国王によるバルシャ船リトルマリー号への記念乗船である。
それなのに。
アンブロワーズ・アルセーヌ・ド・アイビス。
アイビス国王はリトルマリー号の甲板に一歩踏み込むなりへそを曲げ、乗船は中止すると言ってブランディーヌ号に戻り、理由を尋ねる廷臣達にも口を閉ざしたまま、ただ一人、礼拝室に立て篭もってしまっていたのである。
枢機卿は色々な意味で強い人物だった。彼は決して失望や怒りを表に出さず、いつも通りの、穏やかで優しい声で尋ねた。
「私の負けです陛下。私には陛下の憤りがどこから湧き出したのか解りません。どうか御親切を……問題の回答と解説をいただく訳にはいきませんか」
「えええ? 君までそんな、風紀兵団の阿呆共のような事を言うの?」
陛下と呼ばれた男は、長椅子の上でそのまま振り向き、背もたれにぐったりと上半身を預け、顔だけを枢機卿に向けた。
濃茶色の髪に、角張った大きな顔。彫りが深い顔立ち。本来はとても濃く太いはずの眉毛は丹念に切り揃え、整えられている。口髭の反り返り具合も完璧だ。印象的な漆黒の瞳はフェザントの王女だった母親譲りだという。
「はは、風紀兵団とは手厳しい。本当に降参です、御願いします陛下」
「なんで船長がただのおじいさんなの?」
にこやかに御辞儀をした枢機卿に、長椅子の背もたれに抱きついた国王は、無邪気な32歳の幼子のように、小首を傾げてそう尋ねた。
「は……?」
「そうでしょう!? どうして!? あのさ、皆何かとんでもない誤解をしてない? 私がどうして小さなバルシャ船になんか乗りたがったと思ったの!?」
長椅子から立ち上がったアイビス国王は身長185cmほど、手足は長く、細身だが肩幅の広い偉丈夫だった。
「そんな訳ないじゃない、そうでしょうエド? 私ってそんな、小さな部屋に篭って小さな幸せを愛するような小さな人間? そんな事ないだろ! 私、王様だよ? アイビスの国王だよ!」
国王は再び枢機卿に背中を向けると、壁際の吊り網棚から蓋付きの水差しを取り、やはり天井から吊るされている網棚に収まった、小さな白い花が咲いている素焼きの鉢植えに、そっと水を差す。
「はぁ……あれがリトルマリー号だというのなら。マリー船長はどこに居るの?」
国王は背中を丸め、花に水をやり終えると、溜息をついてそう呟いた。
日頃滅多な事では動揺を表に出さないユロー枢機卿は、国王のその言葉に小さく動揺する。
「それは確か……リトルマリー号の元の船長の名前でしたでしょうか」
「ああ……やはり君は知ってるんだな。私は本当はこの件を全部君に任せたかったんだよ? だけど君は私のこのアイデアが好きじゃなさそうだったから」
国王は枢機卿に丸めた背中を向けたまま、水差しを網棚に戻す。
「嫌な予感はしてたんだよね。海軍が何も解ってなかったらどうしようってさ……案の定ですよ! タルカシュコーンでのレイヴンの陰謀をただ一人見抜き、我が国を締め出しの危機から救った英雄ナントカの……なんだっけ」
国王は半ズボンの前ポケットからサイコロを取り出して説教台の上に置く。さらに反対側のポケットから虫眼鏡を。次に胴衣のポケットに手を突っ込み、爪やすりを、何かのボタンを、巻貝の貝殻を、それからズボンの尻ポケットを探りようやく見つけた折り畳んだ手紙を取り出す。
「ああこれだ。英雄パンツ一丁のフォルコンの娘、マリー・パスファインダー……一点の曇り無き夜の満月の如き、凛とした美しい立ち姿。眉目は比類なく秀麗にして余人の追随を許さず、その瞳に射竦められて心奪われぬ者は無し」
枢機卿はますます狼狽し目を見開く。一体これは何だというのか? アンブロワーズ国王は誰の、どんな手紙を読んでいるというのか?
「その声は氷の結晶のように冷たくも美しく、もしもその声で暖かい言葉をかけられたなら、男心は空に昇り、夢と天国の狭間を彷徨う事になるだろう、そう彼女は月の光のように孤高で誰にも触れる事は出来ず」
「お待ち下さい。陛下は一体何を御覧になられているのですか? そのような……御伽噺を、一体誰が陛下の御目に掛けたのでしょうか」
枢機卿は広がる動揺を押し隠しながら、努めて冷静にそう言葉を繋ぐ。
一体どこの誰が陛下にこのような悪質な冗談を吹き込んだのだろう。レイヴンの間者か? 国内の政敵か? 改革派の刺客か?
「誰って……海軍から来た公文書ですよ、ほら」
国王は事も無げに、その折りたたんだ手紙を枢機卿に渡す。確かに、国王が読み上げた文言はアイビス海軍の制式文書用紙に書かれている……しかし署名は書かれていない。このような事はあってはいけないはずである。
「私はね、この女船長に会いたかったんですよ、解るでしょ普通。余計な誤解を生みたく無かったから詳しくは言わなかったけど、解るでしょ普通」
枢機卿は密かに息を飲む。夢見がちな国王を惑わしていたのは、幻の女船長だったのだ。自分が近くに居ながら、何という不覚だろうか。
皮肉な事に自分はその女船長の実物を見た事がある。それは別の理由でユロー枢機卿にとって忘れられない人物となったのだが。
あれが一人の女性としてどう見えるかと言われたら、どこにでも居そうな鼻の低い田舎娘だと言わざるを得ない。田舎の小さな村に居れば器量良しで通るかもしれないが、わざわざ国王陛下の前に引き出す程の女性ではない。
或いは、ああいう田舎っぽい小娘が好みという男も世の中には居るかもしれない。しかしアンブロワーズ国王の好みは全く違う。国王陛下は背が高く腰は細いがグラマラスで髪の長い、大人の色気のある都会の美人が好きなのだ。
「成る程……陛下の御気持ちに気づく事が出来ず、申し訳ありません」
枢機卿は一つ深呼吸をする。彼は起きてしまった事を悔いたりはせず、変わり行く状況をしっかりと見つめ常に善後策を講ずる事を良しとする人物だった。
「しかし陛下、まずはこの場を収めないといけません。陛下の御上船は中止にすべきでは無いと思います。午後にでももう一度、リトルマリー号を訪れて、30分でも良いので湾内を一周していただく訳には参りませんか」
「嫌ですよ。うやむやにするつもりでしょう? それで」
この国王の返答は枢機卿の予想通りだった。
「しかし、レブナンの民衆は陛下の行幸をとても楽しみにしているのです、何とか御願い出来ませんか」
「そんなの侍従長にも散々言われたよ、君までそんな事を言うの? 嫌なものは嫌ですよ、私はあの船には乗りません。だいたい何だよあのマスト、何で今日の私の服と同じ色なの」
「そうですか……まあ、陛下のおっしゃる通りかもしれませんね。そもそもこの舟遊びは、余り良い考えではありませんでした」
枢機卿はそう言って、小さな礼拝室の説教台の方に向かう。
「では陛下、神に祈りましょう……我々は日々の行いを振り返り反省し、明日の道を探し求める時に思い出すのです。灯明を持つ者は率先し持たざる者を導き」
そうしてユロー枢機卿が一介の聖職者の顔に戻り、淡々と礼拝を始めようとすると。アンブロワーズ国王は慌てて講壇に駆け寄り、枢機卿の袖を掴む。
「待て、ちょっと待って! エド! 話を終わらせるなよ! 君は知っているんだろう!? リトルマリー号の船長の事を!?」
「ええ、パルキア海軍の勅任艦長だそうですが」
「そっちじゃないよ! 月の光のような、美しくも誰も触れる事の出来ない乙女にして、タルカシュコーン事件とブルマリン事件に関わった、海軍が借り上げる前のリトルマリー号の船長のほう! 女の子だけど英雄なんだろう?」
「陛下、英雄かそうでないかで言えば、陛下がただの老人とおっしゃった勅任艦長こそ英雄です、その人物は長年王国の為に戦いたくさんの手柄を立てたので、陛下の御上船の船長に選ばれたのでしょう……それはさておき。陛下がマリー・パスファインダーの召喚を望まれるのでしたら、それは達成されなくてはなりません」
「どういう事? 説明して下さい」
国王は枢機卿の袖から手を離し、一歩下がって、綺麗に反り返っている口髭の片端をつまみ上げる。
枢機卿は。僅かに国王から視線を逸らし、斜め下を見つめる……その穏やかな眼差しの中に、鋭く不穏な光が宿る。
「陛下が御召しになったアイビス人が、陛下の御前に現れないという事は、あってはならないのです。マリー・パスファインダーは今、我々の手元には居りません……しかし、草の根分けても探し出し、必ず陛下の御前に引き立てます」
枢機卿がそう答えて御辞儀をすると、国王は長く深い溜息をつき、それから礼拝室の壁の小さな板窓の戸を開け、外を覗き見ながら呟く。
「ブラボー。素晴らしいよエド、正直に君に相談して良かった。それにしても……ねえ? リトルマリー号って本当に元々あんな船だったの? あれじゃお風呂の玩具じゃない……誰かが余計な事したんじゃないの? あの船に」