ロベール「どうなさいましたマダム? は……あの少女をですか? かしこまりました」
新章開始早々、怪しい動きを見せていたフォルコン号の面々。彼等は何故仕事もせず遊び呆けていたのか? それもまた、マリーのせいだったらしい。
物語はそんなマリーの一人称に、元の時間帯に戻ります。
今朝の話。フォルコン号に積み込む飲用水の樽がやっと届いた。
しかし樽は届いたのだがその手配に行ったアレクが戻って来ない。さらにアイリが新鮮な野菜が全く無いと言い出す。
それでアイリは野菜を買いに行くと、不精ひげとカイヴァーンはアレクを探しに行くと言い出したのだが、私は三人とロイ爺には船に残って出港準備をするよう命じ、ウラドにアレクを探して来るよう頼んでいた。
アイリや不精ひげを差し向けたら夜まで戻って来ず、古い知り合いに出会って宴会をしていたなどと言い出すだろう未来が見えたからだ。
そして船長である私が自ら乗組員の為の野菜を買い込んで戻って来てみると、アレクはひょっこり戻って来ているものの、今度はそれを探しに行ったウラドが戻って来ていない。
そしてアイリと水夫共は出港準備もせず甲板で日向ぼっこをしながらカードゲームに興じていた。
フォルコン号は観光ヨットではないし我々は貴族ではない。
一体皆どうしちゃったんだろう。過酷な航海の後で疲れている皆に、良かれと思って与えた休暇。それが良くなかったとでも言うのか。
他の水夫は酷い有様だがウラドに限っては仕事を怠けて遊びに行ったりはしていないと思う……ウラドは私にそうしろと言われても出来ないだろう、とにかく勤勉で真面目な人なのだ。
船の飲用水の差配は水運組合でやっている。アレクを探しに行ったのなら、ウラドが居るのはその周辺のはず。
港沿いの大通りはたくさんの船乗りや街の人々で賑わっている。船乗り向けの宿や酒場も多いし、海を越えてやって来た商品を商う店も多い。ここはサフィーラやディアマンテと同じ大都会だ。確かに、こんな場所で時間を潰したら楽しいだろうなあとは思う。
だけど船にはもうこの港で入手した交易品を積んでいる。硝子製品や染織生地などの工芸品に、遥か東の彼方から大船団で運ばれて来たばかりの香辛料など、量は少ないが高価な物ばかりだ……まあ仕入れ値も高価だったし、一刻も早く出航したいのだ。
さて。この辺りは道幅は広いが、人や物も多い。そのへんの商人やら何やらが道に積み上げた荷物や、馬を外した荷車が方々にあり、狭くなっている場所もある。
そこへ。8歳か9歳くらいだろうか。小さな男の子が天秤棒を担いで通りかかる。
駕籠に入っているのは色とりどりの魚、まあ、漁師の網にかかる本命ではない魚、市場の隅の方で安値で取引される雑魚と呼ばれる類いの魚だ。
あの子はどこまであれを担いで行くのだろう。ああいう魚はこんな町中では売れないので、多分町から離れた郊外の村まで持って行くのだと思う。
偉いな。あの子はまだ小さいのに、きっとああして誰かの生活を支えようとしているのだ。
私があのくらいの年の頃は、婆ちゃんが私の生活を守ってくれていた。だから私は村の文筆家ジェルマンさんの家などに行き、村の幼馴染、サロモン達と一緒に字や算数を習って過ごす事が出来た。
私は何となく、少年が歩いて来るのを見ていた……だから、その後ろから急に角を曲がって現れた二頭引きの二輪馬車が、酷く馬を急がせながら突っ込んで来るのが見えていた。
「危ない!」
私は急いで飛び出したが間に合わなかった。馬車は少年の天秤棒の片側を無慈悲に引っ掛け、棒は宙へと跳ね、煽られた少年は転倒する。さらに。
―― バシャアアッ!!
たまたまそこの石畳には深く広い窪みがあり、そこには泥水が溜まっていた。二輪馬車の車輪はそこで大きく跳ねながら、少年と、彼に飛びついた私に、思い切り泥水を浴びせて来た。
今起きた事は、それだけだった。
馬車は速度を緩める事もなく、何事も無かったかのように走り去った。
周囲の人々は一瞬、少年の方に目を向けたが、すぐにまた目を逸らし、これも、何事も無かったかのように歩み去って行く。
「大丈夫!? 怪我は無い?」
私は転倒した少年に這い寄る。少年は膝を擦りむいていた。そう大きな怪我ではないが……少年はたちまち涙を浮かべ、嗚咽し始める。
彼が泣いているのは足が痛いからではない。今の事故で駕籠の片方が完全に壊れ、中に入っていた魚達が飛び散ってしまったからだ。
中には、誰かが避けきれず踏みつけてしまったのか……潰れてしまっている魚もあった。
私も商人の端くれだ。この少年も多分そうなんだと思う。こういう無念は痛い程解る。私にも散々経験があるのだ。頑張って縫い上げた服を扱き下ろされたり、無碍に扱われたり……そういう時に出る涙は、ただ転んで痛い思いをした時に出る涙とはまた違う味がする。
「大丈夫よ、お魚、私も拾ってあげるから、洗えばちゃんと売り物になるわ」
私がそう言うと……少年は涙目に顔を歪めながらも、何とか頷いてくれた。たくましい子だな。
片方の駕籠は壊れてしまったので、私はとりあえず拾った魚を残りの駕籠の方に入れて行く。壊れた駕籠の代わりを私が買ってあげると言ったら、少年は受け取ってくれるだろうか? 駕籠は二つ無いと少年は上手く魚を運べないと思う。
痛んでない魚はだいたい拾い終えた。
痛んでる魚はどうしよう。この場に残して行けばカモメが来て突くとは思うけど。少年は悔しいよな……一応ちゃんと集めて、それから少年の手でカモメなどにくれてやるようにしてはどうか。
私はそう思い、石畳の上を這って、誰かに頭を踏み潰された鰊の尾をつまんで持ち上げる……これはもうハーリングには出来ないわねぇ……そんな事を思いながら、私は顔を上げた。
「ひ……ひいッ……!?」
その瞬間私は。確かに、そんな悲鳴を聞いた。
広い道の向こう側を二頭の馬に引かれた天蓋付きの立派な四輪馬車が、さっきの二輪馬車とは逆方向から、ゆっくりとやって来ていた。
その悲鳴はその四輪馬車に乗って窓の外を見ていた貴婦人が、私を見て、上げたものだった。
さっきの二輪馬車が跳ねて行った泥水を頭からかぶり、髪も顔も泥だらけ。
体は痩せて貧弱。着ている古い服も泥だらけ。
そして往来で人が踏みつけて潰れ、半ば石畳に貼り付いたようになっている鰊を拾っている私の姿は、四輪馬車の窓の向こうの貴婦人の瞳にはどのように映ったのだろう。
貴婦人を乗せた天蓋付きの四輪馬車は、往来をゆったりと走り抜けて行く。
私を見て悲鳴を上げてしまった貴婦人は、慌てて窓から顔を逸らし、その窓についているカーテンを閉じた。
今起きた事は、それだけだった。
私は石畳で四つん這いになったまま、頭の潰れた鰊をぶら下げて放心していた。
顔も忘れたと、自分では思っていた。
その人物の事を私はいまだによく夢に見る。だけど夢の中のその人物にはもう本来の顔は無く、全然知らない女の人の顔にすり替わっていたりするのに。
だけど例え記憶から消えていようと、あの顔は間違いない。
鼻は低くて背丈も冴えず、手足は短く丸顔で、どんぐり眼だが目力は無い、ぼんやりとしたその風貌、つまり、髪の毛の色以外は私と瓜二つというあの顔は……
あれはニーナ。
5歳の私を残して家を出て、何度かは帰って来たもののまたすぐ出て行き、ついには戻って来なくなり、風の噂ではミレヨンの町で金持ちと再婚したと聞く、私が何度手紙を出しても返事もくれなかった、私を産んだ実の母だ。