ソフィ「お母さん? 泣いてるの?」ニーナ「うふふ、心配しないで」
瞼の母編。最後まで三人称で御送り致します。
次からはマリーの一人称に戻るかしら……
「パスファインダー船長!」
威風堂々、群集を掻き分けるように颯爽と現れたのは、ストーク海軍の正礼装に身を包んだ、長身痩躯、乙女小説の中から出て来たような銀髪の美丈夫、マクシミリアン・ロヴネル提督だった。
「錨地に貴女のフォルコン号が停泊しているのを見掛けた時から、興奮を抑えきれませんでした! まさかここでお会い出来るとは、無上の喜びとはこの事です!」
海の男とは思えない色白できめ細かな肌、眉目秀麗で繊細な容貌、張りのある美しい声、威厳と野生を兼ね備えた強者の佇まい。そんな花も実もある男振りで幾多の淑女達を無自覚のうちに悩殺して来たロヴネル提督は、彼としては最上級の喜びを表しながら、マリーの正面へと進み出て手を差し伸べる。
「ロ、ロヴネル提督……先日は御挨拶もせず失礼致しました」
マリーは差し出されたロヴネルの手を取り、しっかりと握手する。
ストーク海軍将校の正礼装をしているロヴネルに対し、マリーはその辺りの魚屋のような姿をしているのだが、慇懃な礼を捧げているのはロヴネルの方だった。
「フォルコン号のフルベンゲンでの活躍を聞きました! 海賊の大艦隊を寡兵で打ちのめしたと! 我等もスヴァーヌに対し防衛の義務を負っているというのに、私はその場に自分が居られなかった事が残念でなりません、貴女はそこに居られたのですね、フォルコン号の指揮を執られたのは貴女ですか? それともフレデリク卿が?」
マリーは軽いパニックに陥っていた。フレデリクを下げるか、マリーを下げるか、どうすればいいのか判別がつかなかった。
「ああ、あの、戦闘の指揮を執ったのはあくまでレイヴン海軍、グレイウルフ号のマカーティ艦長でしたので……」
マリーの返答を聞いたロヴネルは、ますますその笑顔を輝かせる。
「勿論それこそがまさにフレデリク卿の大計なのでしょう、今やストーク王宮で貴女とフレデリク卿の名を知らぬ者はありません! パスファインダー船長。フレデリク卿は御一緒なのですか?」
馬車に戻る途中で振り返ったニーナは、ただ目を丸くしていた。そのストークの提督だという男は、ニーナの35年の人生の中で見て来た美男子ランキングの第一位を軽々と塗り替えていた。
マリーはそんなニーナの様子には全く気づかず、ロヴネルの問いに答える。
「あ、ああ彼はその、フォルコン号が5日前に接岸してすぐに、やる事があると言って出掛けたきりで……申し訳ありません、いつもの事ですが何処へ行ったかというのもさっぱり」
それを聞いてようやく、ロブネルはマリーの手からそっと手を離す。
「結果を見届けるより早く、次の目標へ向かう……如何にも彼らしい。彼に出会う事は今や私の人生の目標となりつつあります」
ロヴネルは空を見上げそっと瞳を閉じる。ニーナは思わず叫びそうになる。憂い顔も素晴らしい、何と悩ましき美男子だろうか。
そこへ。
「ロヴネルさまー! 抜け駆けはずるいですわ!」
一人の。甲高くも美しい、少女の声が雑踏を貫きマリー達の耳に届いた。マリーが、ニーナが、声のした方に顔を向ける。
また誰かがこちらにまっしぐらに走って来る。その人物は桃色の可愛らしくも美しく豪華なドレスを着ているのだが……その長く広がったスカートを両手でつまみ、石畳の波止場をこちらに向かって全力疾走して来るのだ。後ろに大勢の、盛装した召使いを引き連れながら。
「姫ー! お待ち下さい!」
「姫! はしたのうございます姫!」
「姫! 走ってはなりません、姫ー!!」
お転婆なお姫様と、振り回される侍従達……それはまるで絵本か何かから丸ごと飛び出して来たかのような光景で、マリーもニーナも何の冗談かと思った。しかしそれは冗談では無かった。
「そちらは何方ですの!? ロヴネル様、勿体ぶらずに教えて下さい!」
「こちらがパスファインダー船長です、シーグリッド様」
豪華なドレスを着てお付きの者を振り切りながら全力疾走して来た少女は、ロヴネルからその返事を聞くなり。
「きゃあああああああ! こんなに可愛いらしい方が大豪傑ですの!?」
そのままの勢いでマリーに抱き着いた。危うく転倒しそうになるマリー。
「あ、あ、あの……?」
「嫌ですわ私とした事が、申し訳ありません、私、ストーク王国王女のシーグリッドと申します、貴女が、貴女が噂の少女船長、マリー・パスファインダー様ですのね!?」
マリーがストークの王女だと言う盛装の美少女に組み付かれ、返事も出来ずに目を白黒させ硬直していると。
「姫ッ! 貴女は次期女王なのですぞ、どうかそれを弁えて下さい!」
「ロヴネル提督、貴方ともあろう方が何です、姫を諌めるどころか煽り立てて!」
黒地に金糸の装飾を施した老若男女のお付の者達が息を切らして殺到し、たちまちマリーとシーグリッド姫を幾重にも取り囲む。
「提督閣下! 将兵を束ねる貴方が無闇に駆け出すものではありません!」
「やめて下さい提督! 若い伝令兵じゃないんですから!」
姫君のお付の者達よりは少し余裕を持って後からやって来た、ストーク海軍の将校達も口々にそう言う……そのうち一人の、黒髪でオールバックの男の方はマリーとも面識があった。ロヴネルはその男、旗艦艦長のイェルドに告げる。
「自分を抑えきれなかった。すまない。しかしフレデリク卿はもう次の戦いに向かわれたそうだ」
それを聞いて驚いたのはシーグリッド姫だった。
「フレデリク様はいらっしゃいませんの!? そんな……お会い出来ると思いましたのに……」
後から駆けつけたシーグリッドの侍女達は、マリーの腕に抱きついたままの王女を何とか剥がそうとは思うのだが、王女の腕を握り無理に引き剥がす訳にも行かず、困った顔をして二人の周りをぐるぐる回っていた。マリーはその事に気づいて言う。
「あ、あの……シーグリッド殿下、皆様がその、お困りのようですが」
「ま、まあごめんなさいマリー様! 私ったらつい興奮して」
シーグリッドはそこでようやくマリーの腕に抱き着くのはやめたが、その手を離す事はなかった。
「マリー様はアイビスの方とお聞きしましたが、ストーク語もお上手ですのね……あの、マリー様。不躾をお許し下さい、私一つだけ、どうしても貴女に御伺いしたい事がございますの」
シーグリッドの身長はマリーより数cm高い程度だった。そのシーグリッドが少し身を屈め、上目遣いにマリーを見上げて言う。
「姫、お止め下さい」「姫、いけません!」
周りの侍女や侍従は、シーグリッドが口を開く前からそれを諌めようとした。当のシーグリッドもそれを本当に口に出すべきか大分迷っていたが、やがて意を決し、真剣な眼差しで言った。
「マリー様は……フレデリク様の心に決められた方ですの!?」
他のどんな名前でも、自分と男性がそんな関係にあるのかと尋ねられていたらマリーは狼狽したかもしれないが、相手がフレデリクではマリーもピクリとも動揺しようが無かった。
「いいえ。私と彼はそのような関係ではありません」
「ほ……本当に? フレデリク様はいつも覆面をなされてますけれど、その素顔は大変な美男子であるという噂もございますわ……」
マリーは少し離れてニヤニヤしているアイリに一瞬視線を送りつつ、溜息をついて答える。
「本当です、彼とはただ、彼が時々私共の船を利用するだけの関係で」
「それはご謙遜ですわ! だって貴女とフォルコン号は恐ろしい海賊の大船団と命賭けで戦われたのでしょう!? ああ……ですが……貴女のおっしゃる事が本当なら! まだ私にも、私にも資格はございますのね!」
シーグリッド姫はそこでようやくマリーから手を離し、両手の拳を握り、小さく空に向ける。
「姫……?」「姫、一体何を……」
侍女や侍従達が、皆でシーグリッド姫の顔を覗き込む。
「やはりフレデリク様こそ! 私の夫となる方なのかもしれませんわ!」
シーグリッドはまるで屈託もなく、快哉を込めてそう言い放った。
たちまち侍女や侍従達は狼狽し、姫の周りを回りながら口々に彼女を諌める。
「姫、滅多な事をおっしゃってはなりません!」「そうです、これからブレイビスに参りますのに」「フレデリク卿はまだどんな方かも解らないのです!」「貴女は一国の王女なのです、軽はずみな言動はどうかお止め下さい」
シーグリッド姫は懐から東洋の竹と極楽鳥の羽根で作った羽扇を取り出すと。
―― ……バッ!!
音高く、短い動作でそれを大きく開く。その音で侍女も侍従もたちまち静まる。
「心得ておりますわ。私はストーク王国の第一王女。勿論それを踏まえた上で申し上げておりますのよ……」
シーグリッド姫は背筋を張って見栄を切り、途中までは威厳のある声でそう言ったのだが。
「私の夫となる方……それはレイヴンの王子様? それともストークの英雄? ああ……私、一体どうしたらよいのかしら!?」
言葉の後半からは浮かれた声になり、しまいにはヒラヒラと舞い始める。
「姫、はしたのうございます!」「皆様が見ておられます、姫!」
さすがに捕まえて止める訳には行かないのだろう、慌てた侍女や侍従達がまた、姫の周りを回りだす。
そこへ。
「方々! どうかお戻り下さい、クラッセ王室の使者がお見えでごさいますぞ! 姫! 我々は予告も無くここに来ているのです、どうか礼儀正しく願います!」
やはり正装した高位の官僚らしい背の高い紳士が他の官僚を連れてやって来ると、ようやくシーグリッドは舞いを止め、羽扇を畳み懐に戻す。
「エイギルおじさま、こちらがパスファインダー船長でいらっしゃいますわ」
「なんと……貴女が海賊アナニエフを打ち破った3隻のうちの……コホン。私はストーク王国宰相のエイギルと申します。此の度の貴女の義挙には我が国王陛下も深く関心を持たれており……」
エイギルと名乗る威厳のある紳士は、背筋を伸ばしてそうゆっくりと語り出そうとするが、その袖を他の官僚に引いて止められる。
「エイギル閣下! ブラウエル侯爵様がお待ちです、時間がありません!」
「いかん、そうだった! パスファインダー船長! 後ほど船の方に御伺い致します、是非イースタッドにお越しを」「シーグリッド殿下、どうかお急ぎ下さい、クラッセ側の特使がお見えなのです!」「ロヴネル提督もお急ぎを!」「パスファインダー船長、どうかまた後ほど」「ごめんなさいマリー様、後できっと! エイギルおじさま、侯爵はどちらですの!」「姫! 淑女は! 淑女は走ってはなりません、姫ーッ!!」
ストークの使節団の人々は最後に大騒ぎをして、現れた時と同じくらい唐突に立ち去って行く。
ロヴネルだけは一度振り返り、名残惜しそうに溜息をつき、マリーに向かって苦笑いをして頷いてみせてから、ゆっくりと歩いて立ち去って行った。
「な、なんだったんだ、あれ……」
「今の……お姫さまでしょう? ストークの……」
「すごいな……お姫様見ちゃったよ、俺」
「あの提督さん? いい男だったわねぇ……」
場外市場の露店主や買い物客が、口々に今見た騒動について感想を漏らす。
アイリもようやく一息ついて、マリーの元にやって来る。
「マリーちゃん……今の背の高い男の人は誰?」
「初めて見ましたよ。エイギルさんって言ってましたね」
「いやあの、そっちじゃなく……解るでしょ! あの銀髪の王子様に決まってるじゃないの!」
「ロヴネルさんですか? 前にロングストーンで御会いしませんでした? あっ……そっか、あの時はグラナダ侯爵と一緒でしたね」
「ええっ、そうなの!? もしかしてディアマンテでも一緒に居たの? それより! どういう方なの!? 独身? マリーちゃんとどういう関係!?」
「……あの人も船乗りですよ? おやめなさい、お嬢さん」
袖や襟に掴みかかるアイリを振り払い、マリーはロヴネルと話す前にその辺りに置いていた、魚屋の四尺棒を担ぎ上げる。
そこへ。
「何……今の?」
マリーが振り向くと、ニーナは周りの野次馬達の間に佇み、目を丸くしてマリーの方を見ていた。
ニーナはもう帰ったと思っていたマリーは少し驚き、それから自分の頬を軽く指でつつき、照れたような苦笑いを浮かべる。
「あはは……ちょっとね、知り合い」
「マリー……」
ニーナは。小さく呟いた。
マリーの耳はその呟きを聞き逃していなかった。マリーは大きく目を見開きニーナを見る。ニーナは無表情であったが……その目はしっかりと、マリーの方に向けられている。
たちまち、マリーの瞳に涙が浮かぶ。
ニーナが。母が、ついに自分の名を呼んでくれたのだ。10年ぶりに、1000kmの距離を越えて、母ニーナが、今、自分をマリーと。マリーと呼んでくれたのだ。
「お母さん……!」
マリーはそっと、母に向けて一歩、足を踏み出した。
「貴女……私にざまぁを……ざまぁを仕掛けたわね!?」
マリーの目が、点になった。
「は?」
「10年前にポイ捨てした娘、実は海の英雄になっていた! なのにちょっと物乞いの真似をしただけで他人のフリですか? せっかく会いに来てあげたのに、今さら母親面してももう遅い! 超イケメン提督と王女様が迎えに来たので、もう行きますさようなら……! そうでしょう!? 貴女今からそう言うつもりなんでしょう!?」
「言わねえよ! つーか貴女普段どんな本読んでるんだよ!!」
「冗談じゃ……冗談じゃないわよ!! 意地悪! 陰険! やっぱり貴女私の事恨んでるんじゃない! ボロボロの捨て猫みたいな恰好して現れて……こんなの……こんなの解る訳ないでしょう!? 何よあんな超イケメン見せびらかして! 羨ましくなんかないわよ……悔しくなんかないわよ!!」
マリーは三歩後ずさる。ニーナは。母ニーナはさっきより余程本気で泣いていた。
いや。正直な所マリーは気づいていた。先程までの話の中で、アイリに責められたりしてニーナが流していた涙、あれは確かにレアルでも評判になり、ノルデン男爵もつい援助したくなる程の優秀な女優であるニーナ・ラグランジュの一流の演技であると。
しかし今。母ニーナは本気で、演技抜きで泣いていた。
「負けないわ……負けないんだからね!! 私、絶対に幸せになってやるんだから、私だけじゃない、ソフィも、ソフィも絶対幸せにするんだから!!」
「ちょ……ちょっと、何を言うのよ貴女!」
アイリは慌ててマリーとニーナの間に入ろうとするが、半笑いのマリーはすぐにそれを止める。
「ア、アイリさん……いいから、いいから……」
「良くないわよ、何よ今の!」
「いいの! 本当に! 本当に良かったの! お母さんがこんなに元気でいてくれたなんて、これ以上嬉しい事ないよ!」
マリーは晴れ晴れとした表情で、母ニーナに向かって突進し手を伸ばす。ニーナはそんな娘の手を振り払い、突きのける。
「何よ! 要らないわよそんなの、さっさとストークでも何でも行って幸せになりなさいよ! 私はここで石にかじりついてでも生きて行くんだから!」
「頑張ってねお母さん! 私も頑張る! 頑張って幸せになる!」
「知らないわよ! 貴女とは競争よ、絶対貴女より幸せになってやるわ! 離して、離しなさい!」
「ありがとうお母さん、私やっぱりお母さん大好き!」
べたべたとニーナにじゃれつくマリー、そんなマリーを振り払おうとするニーナ。
アイリはそんな二人を見て溜息をつく。自分の母もこんな人なら良かったのにと。いや。自分も母にこのくらい自分をさらけ出す事が出来れば良かったのにと。