フォルコン「はっはっは! 君は何の心配もしなくていい、僕は内海のヒーロー! キャプテン・パスファインダーだからねー!!」
ニーナ「キャー素敵ぃぃダーリン大好きぃぃ!!」
昔々。アイビスの南東のはずれ、内海から少し陸に入った山懐のヴィタリスという片田舎の村に、とても仲の良い母娘が住んでいた。
村の郊外には見事な牧草地があり、陽当たりの良い丘は春になるとシロツメクサの花に覆われる。母ニーナは毎日のようにマリーを連れ、そこにやって来た。
「おかあさん、今日はカエルさんがたくさんいるよ!」
「本当、あっちでもこっちでも、たくさん跳ねてるわ。だけどこれでは敷物が敷けないわ、踏んづけてしまいますもの……どうしましょう」
「だいじょうぶ、私がここだけカエルさんをどけてあげるから!」
「マリーは本当に優しい子ね、お母さん貴女のそういう所が大好きよ」
二人は牧草地の柵の外の、特にお気に入りの場所に敷物を敷くと、周りに水筒や焼き菓子の入った駕籠、それに本などを広げる。
ニーナとマリーはいつも一緒に居た。春夏秋冬、季節のお気に入りの場所で、毎日。花で冠を作ったり、木の実でネックレスを作ったり。本を読み合ったり、絵を描いたり、歌を歌ったり……
「今日はね、ピンクのシロツメクサだけで冠を作るの、そしたらね、おかあさんは王女さまになるの!」
「まあ素敵! じゃあ私は白い花だけで作るわ、マリーが妖精になれるように!」
二人はまるでお姫様か妖精のように、毎日ほのぼのと遊んで暮らしていた。その評判は近所は勿論、隣の町にまで広がる程だった。
◇◇◇
「お母さんはずっと一緒に居てくれて、私、毎日本当に幸せだった。だけど私、幼心にも解り始めていたの。私達、本当はとんでもない母娘なんだって」
◇◇◇
マリーの家は四人家族だった。父フォルコンは滅多に帰って来ないが、家に居る間は過剰な程に優しいお父さんで、マリーもフォルコンが大好きだった。
母ニーナは父が帰って来るとまず、約束より帰りが遅いと言ってとても怒った。そして父が出掛ける時になると次はすぐに帰って来てねと泣いた。つまるところ、両親は一緒に居る間はとても仲が良かった。
そんな母ニーナが語る所によると、父フォルコンは船長という仕事をしているという。船長というのは何かというと、船の上の王様である。だから王様の娘であるマリーはお姫様なのだと。マリーはニーナから、そう聞かされて育った。
そして祖母コンスタンスは働いていた。朝から晩まで働いていた。
ヴィタリス村の百姓として、朝は日が昇る前から藁工芸の内職、日が昇れば猫の額程の自家用の畑に丹念に世話をし一日分の洗濯物を大急ぎで片付け、その後は近所の農園主の所へ行き午後遅くまで農作業、戻ってくれば日が暮れるまでまた針仕事の内職、日が落ちれば獣脂蝋の僅かな灯りを頼りに皮なめしの内職……その仕事の合間に、ニーナとマリーが食べる食事の支度までするのだ。
◇◇◇
「私、よく覚えているの。お母さんが出て行ったのは半分私のせいでしょ?」
◇◇◇
都会の裕福な家で蝶よ花よと言われて育てられたお嬢様だったニーナは、自分は船長夫人であり、マリーは船長令嬢であると考えていた。夫フォルコンもそう言って、彼女のヴィタリスでの幸福な暮らしを根拠もなく保証していた。
けれども祖母の事も大好きなマリーは、その背中を毎日きちんと見つめていた。マリーの心の中には、少しずつ、これではいけないのではないか? という気持ちが育って行ったのである。
ある朝、ついにマリーは母に告げた。今日は遊びに行くのではなく、おばあちゃんの手伝いをしようと。自分達は本当はお姫様ではないような気がするので、仕事をした方が良いのではないかと。
ニーナは、笑顔でうなずいた。
二人はその日から祖母について回り、祖母のする仕事を手伝い始めた。
祖母は喜び二人にも仕事を教えようとしてくれたが、二人は何の役にも立たず、祖母の仕事は一人でやる時の倍の時間がかかるようになってしまった。
ニーナが居なくなったのは、それから三日後の事だった。
◇◇◇
ニーナは両手を地面につき、半ば蹲って固まっていた。
アイリは何か言おうと何度か口を動かしていたが、その半開きの口からは何も言葉が出て来なかった。
マリーは腕組みをして目を細め、空を見上げて言った。
「あれはきっと、限界だったんだよね……お母さんはそれが解ったんでしょ。このままではコンスタンス婆ちゃんが死んじゃうし、そうなったら私達もおしまいだって。お父さんは全く何の当てにもならないし」
マリーは地面を見下ろして続ける。
「私を置いて行ったのは、私の為だったんでしょ。ヴィタリスに居れば生きてはいけるし仕事も教われる。お婆ちゃんだって孫一人くらいなら面倒見れるもの」
◇◇◇
実際、ニーナが出て行くとパスファインダー家の経済状況はかなり改善した。父フォルコンの稼ぎは相変わらずだったが、無駄遣いをする者が居なくなった家計は黒字に転じ、増え続けていた借金も少しずつだが返せるようになった。
そして祖母コンスタンスの薫陶を受けたマリーはやがて、小作人として身に着けるべき技能や礼法、勤労精神を身に着け、どこに出しても恥ずかしくない清く貧しく逞しい百姓娘へと成長して行った。
◇◇◇
マリーは腕組みを解き、両手を広げてみせる。
「だけどね、私、お母さんと居た間、本当に幸せだったんだよ。あんなに一緒に居てくれるお母さん、どこにも居ないもの」
「嘘よ、そんなの……いくら優しくしてたって、最後は貴女をポイッと捨てて一人で逃げた母親なんて、恨んでない訳無いじゃない……!」
「本当だよ。だから私、お母さんにたくさん手紙を書いたんだよ。お母さんに帰って来て欲しかった……だって、心配だったから」
「心配……ですって?」
ニーナは地面から手を離し、膝立ちになる。マリーは再び腕組みをして目を細める。
「だってお母さんまるで生活力なさそうだったし、すぐ悪い男に引っ掛かりそうだし。あのお父さんと結婚しちゃうぐらいだもの……」
「なっ……!?」
「ちょっと、マリーちゃんそんな言い方は無いんじゃ……」
マリーの本音をむき出しにした言葉にニーナはたじろぎ、傍で聞いていたアイリも、心配しマリーを咎めるような表情をみせる。
しかしマリーはそんなアイリをも一瞥して続ける。
「今、この街で偶然再会して……妹が居る事にはビックリしましたよ。だけどそれでますます心配になって。お母さん、昔のまんまだったらどうしようって……私の妹……ソフィちゃんの事、今度こそ最後まで育てる気はあるのかなって」
マリーは少し困ったような視線を、ニーナに向ける。
ニーナの震えが、止まった。
「そこまで……そこまでバカにされる筋合いは無いわよ!」
ニーナは拳を握って立ち上がり、マリーをしっかりと見据える。その瞳からはまだ、茫々と涙が毀れていたが。
「私だって後悔ぐらいしてるんだから! 貴女の事だってねえ、助けられるなら助けたかったわよ、だけど出来ないものは仕方無いじゃない! 反省だってしてるわよ、だから……貴女に出来なかった分! ソフィだけは何があっても私が守るって、そう誓ったのよ!!」
ニーナの叫び声に辺りが一瞬静まり返ると、遠く大桟橋の方から、歓声だか悲鳴だか解らない大きなどよめきが聞こえて来る。
しかし場外市場はまたすぐに、売り子や買い物客、それぞれの生活のざわめきを取り戻す。
アイリはマリーの横顔を心配そうに見つめる。実の母にあんな事を言われて、マリーは傷ついたのではないだろうか?
しかしマリーは、パッと笑顔を輝かせて言った。
「最初はね! そういう心配もしたけど、お母さん、ソフィちゃんの事は本当に大事にしてるみたいだから……それは本当にホッとしたよ。それからハイネンさんの事も……お母さんの恋人がまたどっかの見た目と口先ばっかりで頭カラッポみたいな男だったらどうしようと思ったんだけど、話してみたらとてもいい人みたいだから……安心した! お母さんも成長したのね、きっと」
「バッ……バカにするのもいい加減にしなさいよ、半分その頭カラッポ男の血を引いてるアンタにだけは言われたくないわよ!」
ニーナは涙を拭い、顔を赤らめて抗議する。
「それから……お母さんの仕事。初めて見たよ? 働いてるお母さん」
「……ええ、悪かったわね! 貴女と居た時の私とは……違うわ」
「……とっても、素敵だった」
そう言ってマリーは今度は穏やかな微笑みを浮かべる。ニーナは決まりが悪そうに目を逸らす。
「舞台の上で堂々としていて……仲間達と協力して、一つの芝居を作るんだっていう気持ちが伝わって来て。恰好良かったよ」
マリーは真っ直ぐに母を見つめ、心から素直にそう言った。
ニーナはますます決まりが悪そうに瞳を伏せる。娘の真っ直ぐな瞳が心を貫く。長年心の奥に秘めて来た後悔が蘇り、荒波のように胸に迫る。
マリーはそんな母の様子に気づいて、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「あー、でもあれはだめ、杖で私を叩こうとしたやつ、ぜんっぜん迫力が無かった。あんな芝居じゃすぐ野次が飛んで来るよ? あれじゃ台所でネズミを見た時のお母さんだよ! ネズミが怖くて腰が引けてて、絶対叩けそうにないやつ」
「なっ……何よ! アンタちゃんと青い顔して震えてたじゃない、それこそ台所のネズミみたいに!」
「だからダメなんでしょ、怖がりな女の人が台所でネズミを見た時の芝居ならあれでいいけど、人が人と戦う芝居であれは無いよ、あははは」
「私、そんな役やらないもんっ……ふ、ふ」
マリーがそこまで言うと、ニーナもとうとう苦笑いを漏らす。
一昔前は毎日一緒に居て毎日笑っていた母と娘は、10年の時と1000kmの距離を越えて、久しぶりに……ほんの少し、一緒に笑った。
大桟橋の方から、また大きなどよめきが聞こえる。相変わらずここからでは何が起きているか見えないが。
「そろそろ……戻った方がいいよ。お母さん」
マリーは微笑みを浮かべたまま、目を伏せる。
「そう……そうね……舞台の途中ですもの」
ニーナもマリーから目を逸らし、応える。
アイリはそんな二人を見比べた挙句、マリーから少し離れた所で何となく居心地が悪そうな顔をして背中を丸めて座っているぶち猫の顔を見る。ぶち猫はアイリの視線に気づくと、何気なく視線を逸らす。
「じゃあね、お母さん……元気でね」
マリーはもう一度、母を呼んだ。
「……貴女もね」
ニーナは結局、マリーの名を呼ばなかった。そして先に踵を返したのはニーナだった。母は振り返る事なく、少し足早に、馬車の方へと歩いて行った。
マリーは暫くそんな母の背中を見ていたが。やがてゆっくりと、アイリの方に向き直り、苦笑いを浮かべて言った。
「出航の約束に遅れちゃいましたね。ごめんなさい……行きましょう、アイリさん」
その時。妙に盛り上がっていた大桟橋の人波が、さらに大きくどよめく。
何かの騒ぎがこちらに向かって来るらしい。一体何が? マリーは小首を傾げ、そちらに向き直った。