港湾役人「おいどうするんだよこれ!」港湾役人「とにかく野次馬を追い払え! 衛兵を居るだけ集めろ!」
ごめんねカイヴァーン……君が私を姉ちゃん姉ちゃんって慕ってくれるのはとても嬉しいんだけど、ソフィの可愛さは別次元なのよ……ぎゃあああ手ェちっちゃああああでもちゃんと動くゥゥウああああすりすりしたいすりすりしたぁぁぁい!!(マリー)
ソフィはとても大人しい子供で、ニーナの自慢の娘だった。いつもとても御行儀が良く、心優しく、子供らしく可愛らしい。
ソフィはとても素直で母の言う事は何でもよく聞き、母の意に沿わない事は決してしない。それは決して母が怖いとか、自分は良い子で居たいとか、そういうのではなく、純粋に母が大好きだからそうしていたのだ。
「や、やめなさいソフィ、こっちへ来なさい」
普段、ソフィは無理に手を引いたりしなくても、ニーナが呼べばすぐに自分の方に来る。しかし今のソフィがマリーの手を離す事は無かった。
「お母さんがさがしていた、私のお姉ちゃんはこの人よ!」
「ソフィ、違うわ、貴女にお姉ちゃんなんて居ないの、貴女は私のたった一人の娘なのよ、」
「お姉さん!!」
いつも人形のように可憐で大人しいソフィは、生まれて初めて、腹の底から声を出した。その声は舞台女優である母の声を思わせる程大きく、先程まで見て見ぬふりをしていた周囲の露店主や買い物客をも振り向かせる程だった。
「お姉さんの名前は……マリーなの?」
ソフィは、碧色の瞳に強い意志を宿らせ、まっすぐにマリーを見上げて言った。
マリーは一瞬視線をニーナに向ける。そしてすぐにソフィに視線を戻し、片膝をついて目線の高さをソフィに合わせる。
「私の名前はマリーですよ、ソフィちゃん」
マリーがそう答えると、それを見ていたニーナは祈るようなしぐさで震える。
「だけどそれは偶然じゃないかなあ。マリーっていう名前は珍しくなくて、多分この市場にもね、たくさんのマリーさんが居ると思うのね」
落ち着いた声で。諭すように、マリーはゆっくりとそう、ソフィに告げた。
ソフィは目に涙を浮かべだす。
「でも、でも……! お姉さんのお顔、お母さんそっくりだもん……それにお母さんと同じくらい優しそうだもん……」
マリーの腕にすがりついたまま、ソフィは俯き、鼻をすすり出す。
「お母さん、寝言でよく言うの。マリー、マリーって」
ソフィの言葉は矢となって、いや槍となってマリーの胸を貫く。
「お姉さんは本当は、グスッ、本当はお姉ちゃんなんでしょう!?」
マリーは。一瞬でも油断すればソフィを抱きしめてしまいそうになるのを堪え、ポケットからハンカチを取り出して、ソフィの涙を、鼻水を丁寧に拭う。
「ソフィちゃん。私も貴女みたいなとっても可愛い子が妹だったら素敵だなあとは思うけど、お母さんもね、言ってるでしょう? 貴女にお姉ちゃんは居ないって」
「だけど……お母さん、一度だけ教えてくれたの! 私には本当はお姉ちゃんが居るんだって!」
酔っ払っていたな? とマリーは思う。自分と一緒に暮らしていた頃も、ニーナは父と居るとお酒に飲まれてゲラゲラ笑っているような事が良くあった。
「ニーナさん……ソフィちゃんのお母さんはたくさんの詩を読める素敵な人だからねぇ、もしかすると夢の中でも詩を読む練習をしていたんじゃないかな? あるいは……そうねぇ」
マリーはハンカチをしまい、そっとソフィの手を自分の腕から解かせながら立ち上がる。
「もしかしたら世界のどこかに、ソフィちゃんの本当のお姉ちゃんは居るのかもしれないね。その人はきっと、とても素敵な人だと思うよ! 私みたいな小さな魚屋じゃなくて……お城を持った貴族だったりして? いやいや、どんな夢も叶えてくれる魔法使いかも!? ニシシシ」
「でも……」
ソフィはまだ、つぶらな瞳を恋しげに見開き、じっとマリーを見つめる。
マリーの決意がたちまちに揺らぐ……本当は自分がお姉ちゃんだと言ってソフィに抱き着いてみたい。あの柔らかそうな頬に頬擦りしたい。
しかし、マリーには理性も残っていた。マリーの心の中では『理性』と書かれた鎧を着た衛兵マリー達が、自分の中に眠っていた過剰に妹に萌える危険なマリーを追い掛け、追い詰め、捕えて牢へと連行する。
「急がなくていいんですよ、ソフィちゃん。世界はとても広くて、貴女が大きくなるのを待ってくれているから」
マリーはソフィの手を引いてニーナの方に連れて行き、最後にポンとその背中を押す。ニーナは驚きと焦りに顔を硬直させながらも、ソフィを自分の懐に迎え入れる。
「ああ……あの馬車はニーナさん、貴女を迎えに来たんじゃないですか?」
場外市場に隣接した、ここから少し離れた大路に、一台の馬車がやって来て停まる。マリーはそれを指差して言う。それは確かにノルデン男爵家の馬車だった。
「お芝居の途中だったんじゃないですか? ソフィちゃんを連れて、早く帰った方がいいんじゃないですか?」
マリーは。すっきりとした笑みを浮かべてそう言った。
馬車の方からも誰かが走って来る。それはロベールという男爵がニーナの世話につけている執事見習いだった。
「ソフィさん、見つかったのですね! 良かった……奥様……その魚売りは」
駆け寄って来たロベールは、やはりソフィをたぶらかし連れ出したのがこの魚売りだと思ったのか、険しい視線をマリーに向ける。
「いいえ、そうね……早く劇場に戻らないと……ロベールさん、先にソフィを馬車に乗せておいて下さるかしら?」
「待って、お母さん!」
「しかし、奥様……」
ソフィとロベールは、それぞれの事情でニーナに抗議する。ソフィはまだマリーに未練があったし、ロベールはマリーを危険人物ではないかと考えていた。
「御願い。馬車に戻って……私はこの魚屋さんと、もう少しだけ話がしたいから」
マリーの説得の甲斐もあってか、ソフィは素直に、ロベールに連れられて30m程離れた大路に停車している馬車の中へと去った。
残ったニーナは。マリーに険しい視線を向けていた。
「どういう事なの……貴女は……私を憎んでいるんでしょう?」
さすがのマリーも、もうこの行き違いに慣れて来ていた。
「本当に、私がここに居るのは偶然だから! 私、お母さんにお金をたかりに来たとか、そういうのじゃないから!」
マリーは単刀直入にそう言った。しかしニーナは、まだ信じられないという顔をしていた。
「だって貴女、わざとらしく私がヴィタリスに捨てて行った服を着て……」
「ちっ……違うよ! あれは旅立ちの普段着……私はただ、好きだから着てるだけの服なの! 教会で着てたボロボロの服も、運河に飛び込んだから借りてただけだから! 私ちゃんと生活出来てるから!」
魚の駕籠を振りかざしながら、マリーは力説する。ニーナはまだ斜めに構えるのをやめない。
「信じられないわよそんなの……あの時の貴女はまだ5歳で、甘えん坊の無垢で純真な女の子だったわ……泣いたんでしょう? 怒ったんでしょう? 私が居なくなって……そうでしょう!? 貴女本当は私を憎んでるのよ!」
ニーナは怯えていた。それはマリーにも痛い程伝わった。
けれどニーナがどう思おうと、マリーにはマリーの、10年間抱えていた気持ちがあった。マリーはそれを、言葉にしてニーナに伝えようと思っていたのだが。
「ちょっと、待って」
ニワトリを売っていた近くの露店の、伏せられていた大きな駕籠の一つがいきなり立ち上がる。駕籠の中に入って隠れていた人物が、上半身から駕籠を取り去る……それは、フォルコン号の航海魔術師、アイリ・フェヌグリークだった。
突然の事に。マリーは総毛を逆立てるだけで何ら有効な反応をする事は出来なかった。
アイリは大股に歩み寄り、マリーとニーナの間に立ち塞がり、ニーナの方に正対する。
「お初にお目に掛かりますわ、私はマリーちゃん……マリー・パスファインダー船長の友人の、アイリ・フェヌグリークと申します。大変失礼ながらお話しは駕籠の中で聞かせていただきました」
マリーはもうニーナに敵意を向けられるのにも慣れ、怖い物はもう何も無いと思っていた。だけどそれはまだあった。
「貴女のおっしゃる事、あんまりじゃないですか!? マリーちゃんを強請りたかりの類いだと決めつけて、冗談じゃないわ! そもそも……」
「アイリさんやめて!」
ニーナに食ってかかろうとするアイリを、マリーは飛びついて止めようとするが。
「貴女が! 幼いマリーちゃんを置いて家を出て行ったんでしょう!?」
ニーナは酷く青ざめ、二歩、三歩と後ずさる。そうだ。ニーナはこの言葉の刃を最も恐れていた。
「御願い、やめてぇぇアイリさぁぁん、」
「だってそうでしょう、それをマリーちゃんが穏便に済ませようとしてるのに、この人、自分を憎んでるんだろうとか何とか!」
アイリの義憤はもっともだ。
だけどマリーは知っているのだ。母ニーナがヴィタリスでの生活や姑コンスタンスとの関係に思い悩み、家を出て一人で生きて行くという選択肢を並々ならぬ覚悟で選ぼうとしていたその時。父フォルコンは当時18歳のアイリと浮気をして、毎日にこにこしていたと。
「マリーちゃんはお母さんに捨てられて苦労したのに、とっても優しい子に育ったんだから! 私が借金取りから逃げるのを手伝ってくれたり、元海賊の人達を雇ったり、迷子を拾って水夫見習いとして鍛えたり」
「やめてアイリさん! 微妙に人聞きが悪いからやめて!」
ニーナはアイリの言葉に一方的に責められ、ぼろぼろと涙を零し震えていた。マリーは自分も泣きそうになるのを堪える。アイリは何も悪くないのだが、本来の二人の関係から言えば、ニーナがアイリにこの泥棒猫と叫びながら掴みかかってもおかしくはない。二人ともそんな事情は知らないとは言え、母がアイリに一方的に責められるのを見るのは、まことに辛い。
「マリーちゃんも! 言ってやればいいじゃない、今のマリーちゃんがどんな大親分になったのか、貴女わりと見栄っ張りですもの、お母さんに羽振りのいい所を見せつけるつもりで出掛けたんじゃなかったの!?」
「そうだけどそういうの全部失敗した後の話だからもうやめて! 仕方の無い事情が、仕方の無い事情があったんです、お母さんには!」