アンコウ「私の……出番ですね……はい……」
監督「ニーナが居ないだと!? どうするんだこの後すぐ出番だぞ!?」
ダーウィッツ「仕方ありません……衣装係、ドレスとカツラを! ニーナの代役は私がやる!」
支配人「しょ……正気か君はッ!?」
ニーナ・ラグランジュは昨日の昼、詩吟を鑑賞したいという港の大店の旦那衆の席に呼ばれ、芝居の稽古をキャンセルして、ノルデン男爵が貸してくれた馬車で、その会場へと向かっていた。
彼女が10年前、アイビス王国南部の片田舎ヴィタリス村に置き去りにして来た実の娘、マリーの姿を見たのはその時である。
ニーナは最初それがマリーだとは信じられなかった。ここはクラッセ王国の新興都市ウインダム、ヴィタリスからは1000kmは離れているのだ。
しかし、捨てたとは言え自分が初めて産んだ娘、その顔は10年経っていても見間違えようがなく、忘れようにも忘れる事が出来なかった。
娘は顔も服も泥だらけで、地面に這いつくばっていた。這いつくばって頭を踏みつぶされた魚を拾い上げていた。
娘が着ていたのは、昔の夫がニーナの為に買ったものの、ニーナはあまり好きではなかったので家出の時に置いて来た服だった。
ニーナは、馬車の運転助手席に同乗していた男爵家の執事見習いのロベールに、あの物乞いの身元を調べて欲しいと依頼した。
ロベールは馬車を降り、物乞いを尾行して行った。そして詩吟の会の後で戻って来たニーナに、自分が見た事を告げた。
「あの少女は拾った魚を年下の少年に預けていました、たぶん物乞い仲間でしょう。それから少女はごろつき共が賭け掌棋をしている所に行きました……そこには筋骨隆々の恐ろしいオーク族の男が居ました。オークは掌棋の相手から金貨を巻き上げると、少女を連れて中央波止場の近くの場外市場の方に歩いて行きました。あの辺りには浮浪児共に飯を食わせる代わりに、その元締めとなって様々な仕事をさせているやくざ者が居ると聞きます。少女とオークはそういう関係ではないかと」
ニーナも決して過去を後悔していない訳ではない。自分に力があるのなら。過去に置き去りにして来た娘の事だって、救ってやりたいと思わないでもない。
しかし、自分にはそんな力など無い。街で偶然そんな娘と出会った所で、何か出来るはずも無い。
しかし。かつての娘、マリーとの出会いは偶然などではなかった。
10年ぶりに、娘らしき者を見てしまった日の夜。今度は上流階級のパーティの接待役として呼ばれ、娘にも綺麗な服を着せ馬車に乗って出掛けると。娘は再び現れた。
その姿は昼間見た時よりもみすぼらしくなっていた。昼間は古くて泥だらけではあるが、まだまともな服を着ていたのに、その夜現れた娘はわざとらしく、12月の寒空の下、酷く古びて色褪せ擦り切れた男物のチュニックなどを着込んでいたのだ。
ニーナは確信した。マリーがここに居るのは偶然などではない。
彼女は自分に何かを要求しに来たのだ。男爵の庇護を受け贅沢な暮らしをしている自分に見せつけるように、わざとみすぼらしい服を着て。
恐らくマリーは知っているのだ。自分がヴィタリスでの最初の結婚と、その中で生まれたマリーという娘の事を隠しているという事を。
それはマリー自身の知恵ではなく、賭け掌棋で誰かから金貨を巻き上げているような、恐ろしいオーク族のごろつきの差し金なのかもしれない。
ニーナは、そう考えていた。
◇◇◇
「はぁ、はぁ、はぁ……あ……貴女はッ……どれだけ私を憎んでるの!?」
「えっ……あ、あの」
執事見習いのロベールはユーリが劇場に辿り着く前に、ソフィらしき女の子が一人で街を走って行くのを見掛け、その事をニーナに伝えた。
そしてマリーの実の母であり、ソフィの母でもあるニーナは上演中の楽屋を飛び出し、ソフィが走って行ったという方向に駆け通して、ここにやって来た。
マリーとソフィの間に割り込んだニーナはソフィの手を引いてマリーから引き離すと、振り向いてマリーを睨みつける。
「ソフィにッ……ソフィに何を話したのよ!! 何故ッ……どうしてッ……何でこんな小さな子にまで、そんな事をするのよ……はぁ、はぁ……」
「ま、待って! 私そんな事」
「そういう誤魔化しは要らないわ! じゃあどうしてソフィがこんな所に居るの、貴女がおびき出したんでしょう!? ソフィ、ソフィは……まだ6歳なのよ!?」
しかしニーナは解っていた。自分では解っていると思っていた。
ソフィは6歳かもしれないが、自分がマリーを捨てた時、彼女はまだ5歳だった。幼い娘の年齢を盾に、誰かを非難する資格は自分には無い。
増して、相手がその当の娘であれば尚の事だ。
しかし、自分にどんな罪があるにせよ、ソフィには何の罪も無いのだ。
「無いのよ……お金なんか本当に無いわよ、あれで精一杯なの! 今だって人様の家に間借りして何とかソフィと二人、生きているんだから!」
「だから私お金なんていらないから、話をきいて」
「解ってるわよォ!! 私がソフィの事を言えば言う程、貴女は……貴女は私に……憎しみを募らせるのよ……」
髪を振り乱し、茫々と涙を流し、激情に顔を歪めながら、ニーナは叫ぶ。マリーは青ざめ、震えながら立ちすくむ。
場外市場の人々は、そんな二人の姿を単に見て見ぬふりをして通り過ぎて行く。親子か何かと思われる女が二人、生活苦を理由に喧嘩をしているようだが……そんな光景はここでは日常茶飯事なのだ、巻き込まれないようにするのに限る。
辺りのそんな様子に気づいたニーナは、声を落とし、マリーの耳元に顔を近づけ、囁くように言う。
「……どうしろと言うの? 私にどうしろと言うの!? ハイネンさんに何か吹き込んだり、ソフィを遠くに連れ出したり……! 貴女が何でも出来るのは解ったわよォ! それでどうしろと!? 私に……死ねとでも言うの!?」
マリーは一つ、呼吸をつく。
さすがに、この不幸にも目が慣れて来た。
そして思う。何と言う間の悪い母娘なんだろうと。そう考えたら急におかしくなって来た。マリーは思わず、小さな笑みを零す。そうすると今度は呼吸も楽になった。
「これを見て」
マリーは担いでいた四尺棒を降ろし、魚の駕籠から大きな深海魚を取り出し、尻尾を掴んでニーナの顔の前に掲げる。
「ひッ……」
その飛び出した目玉と鋭い牙の並ぶ大きな口に威嚇され、ニーナは小さな悲鳴を上げて半歩後ずさる。
「見た目は悪いんですけどね、マトバフあたりじゃこの魚をね、十種類の香辛料に葱や青菜を添えて煮込むんです、長時間煮ても煮崩れが少なくて、ぷりぷりした食感を楽しめる、とっても美味しい魚なんですよ」
マリーは。まるでただの魚屋のように、そう口上を述べた。ニーナは唖然として、さらに半歩後ずさりする。
「まあ本当は鯛や鰊や極光鱒もあったんですけどね、今日は午前中に全部売れちゃって。後は猫用の鰯ぐらいっスねぇ。ほら。今日はね、大商いっスよ、大儲け。ええ」
マリーはポケットからあの青い財布とは別の、魚屋としての財布を出して振ってみせる。それはジャリジャリと、重そうな音を立てる。
「昨日から貴女には間の悪い所ばかり見られてるんスけど……仲間の小僧が落とした魚を拾ってる所とかね。私は魚屋ですから、道に落ちた魚だってそのままほっとく事なんて出来ないんスよ。気の毒でしょ? 魚が。それから、昨夜はねぇ……ニシシ」
妙な声で笑いながら、マリーは一歩前に出てその魚屋の財布をニーナの手に押し付け、握らせる。
「あの時は運河に落ちた子供を助けるのに自分も運河に飛び込んだ所だったんス。そこを貴女に見られて……ちゃんと説明したかったんスけど、寒くて寒くて歯の根が合わなくて喋れなくてね。あれは……可笑しかったなあ。ニシシシ」
ニーナは唖然としたまま、財布とマリーを見比べていた。マリーは二歩下がって、深く頭を下げる。
「あの時はありがとうございました! 人の情けが身に沁みましたねェ。だけど御覧の通り! 私は五体満足、立派に魚屋をやって暮らしております! 物乞いや何かじゃございません!」
それはマリーにとっては中途半端な嘘であり、中途半端な真実でもあった。
第一に、マリーはただ伝えたかったのだ。母に会えたのならば、自分は元気に生きていて、手に職もあってちゃんと暮らしていると。母はきっと、自分の事を心配しているだろうからと。
魚屋はもちろん嘘だが、手に職があるのは真実だ。元気だという事も、ちゃんと飯を食えているという事も。
「棒手振り担ぎの代金ですからあんまり入ってないと思うけど、貴女が牧師さんに寄付したお金の足しに! どうか、そいつを使って下さい。それじゃあ失礼」
マリーは駕籠に魚を戻し、四尺棒を担ぎ上げ、踵を返す。
これでもう、未練は無い。
しかし。
「お母さん!」
そう叫びながら、お母さんではなくマリーの方に向かって飛び出して来たのは、ソフィだった。ソフィの手はしっかりとマリーの右手を握っていた。
「ソフィ、やめなさい!」
ニーナは慌ててソフィを引き剥がそうとするが、ソフィはマリーの右手を握るだけではなく、その右腕にすっかり、抱き着いてしまった。
「お母さん! このお姉さんは本当のお姉ちゃんよ!」
ソフィは、そう叫んだ。