猫「だ、だから拙者は何もしておらぬ……何故拙者が主からそのようなじと目で見られなくてはならぬのだ……」
男爵屋敷の人々は姿が見えなくなったソフィの事をたいそう心配しておりました。息子が勉強サボって居なくなってても探しにも行かないのにね。
ぶち猫は何度かマリーから目を逸らしたが、マリーはじと目でぶち猫の顔を見続けていた。
やがてぶち猫は観念したように、ゆっくりと歩き出す。マリーはその後をついて行く。ぶち猫は少しずつ足を早めて行き、ついには小走りに走り出す。
魚の駕籠を提げ四尺棒を担いだ魚屋姿のマリーは、ぶち猫を追い掛けて昼下がりのウインダムの市街地を駆け抜ける。
「ちょっと、魚屋さん!」
「ごめんなさい! 急ぎの用事で!」
この仕事、余程向いていたのか、マリーは方々で昼食の食材を買い求めたい人々に呼び止められた。しかし彼女は今は立ち止まる訳には行かなかった。
ウインダムは北大陸の中でも五指に入る工業の発展した街で、その中でも一番の新興都市であった。高度な治水システムを持ち、高度差のある水路は多数の水門によって複雑かつ整然と管理され、都市機能の根幹を担っている。
風車の利用も盛んだ。町中にも郊外にもたくさんの風車があり、低地の排水や工業用動力に使われている。ここは風と水の都市である。
「何だありゃ、魚屋が猫を追い掛けて走ってるぞ」
「女の子みたいだったけど、随分足の速い子だな」
午後一時前の冬の日差しが柔らかく照らす石畳の道を、魚屋の少女と猫は、気まぐれな南風のように駆け抜けて行く。
◇◇◇
ぶち猫が向かっていたのは男爵屋敷から北北西方向、大きな卸売市場や保税倉庫が立ち並ぶウインダム港の中央波止場方面だった。
マリーもほんの一瞬だがあの男爵屋敷の前の河岸で男爵親子を連れ川舟に乗った時に、ぶち猫にわざと置き去りにされた赤茶虎の猫と、ユーリを追って来たソフィが顔を見合わせているのを見掛けたのだ。
そして男爵屋敷の前に赤茶虎猫は居なかった。
1+1は2である。ソフィはあの猫と行動を共にしているのではないか?
理由など解らない。だけど女の子がただ闇雲に猫を追って行動しているという事は十分有り得る。何故なら自分も猫を追って行動する事があるから。少なくともマリーはそう考えた。
では赤茶虎猫は何を考えているのか? 可哀想に、船乗り猫なんかに惚れるから……こんな悪い男の事なんか早く忘れてしまえばいいのだが、女は秤では計れない……昔、フレデリクがそう言っていた。
東の市場の辺りをねぐらにしていた赤茶虎猫が、港の方へ散歩に来て、ぶち猫と出会っていたら。
もう一度ぶち猫に会いたい赤茶虎は、ぶち猫と初めて出会った場所に戻ってみるかもしれない。
◇◇◇
ぶち猫とマリーは港の中央波止場の場外市場の辺りに辿り着き、周囲を見渡していた。
景気の良いウインダムの市場は多いに賑わっている。少し前に大規模な外洋艦隊が戻って来た所だというし、商品も豊富にあるのだろう。
子供の姿も多い……親に連れられた裕福そうな子も居れば、子供同士徒党を組んで我が物顔で走り回っている一団も居る。お遣いを頼まれたのか、買い物かごを手に一人で歩いている女の子だって居る。
マリーは、男爵屋敷の人々は少し心配し過ぎなのではないだろうかと思う。
赤茶虎猫がどこからついて来たのか、マリーにははっきりとは解らなかった。しかしぶち猫の方はそんな場外市場のとある街角で立ち止まり、きょろきょろと辺りを見回しながら、鼻を高く掲げ空気の臭いを嗅ぐ。
茶虎猫と出会ったのは、この辺りなのだろうか。そこは確かに、今朝マリーが仕入れたばかりの魚を担いで通った街角だった。
ふと。港の大桟橋の方から、大きなどよめきが聞こえて来る。マリーは思わずそちらに顔を向ける。何の騒ぎだろうか……次の瞬間。
「ニャッ!?」
マリーは突如ぶち猫に飛びつき、そのまま近くの樽影へと転がり込んで隠れる。
その後暫くは、何も起こらなかったが。
「まだ戻ってないじゃない……大桟橋が騒がしいけど、まさかまたマリーちゃんが何か関わってるのかしら。どうしよう」
30秒程後に早歩きでそこに現れたアイリは、そう呟いた。中央波止場から200m程離れた大桟橋はここからは露店や倉庫の影になっていて見えないが、遠く港の外れの桟橋に係留されたフォルコン号は見えた。
フォルコン号の水夫達はアイリに「船長が戻ったらマストに吹き流しを掲げる」と言っていたが、マストに吹き流しは上がっていなかった。
今ここに居たマリーに気づかなかったアイリは、引き続き船長を探す為、早足で歩き去って行く。
アイリが去って少し後。マリーは慎重に辺りを見回しつつ、物陰から立ち上がる。
自分で言った約束の出港時間を過ぎてしまった……またやってしまったという罪悪感は無いでも無いが、今すぐ船に強制連行される訳には行かない。
「ぶち君、ちょっと急いでくれない? 水夫達も心配してると思うから……」
マリーは捕まえていたぶち猫を手放しそう言ってみるが、所詮猫は猫である。もう一度軽く辺りを見回したかと思うと、あまり急ぎもせず近くの低い水路へと降りる、短く幅広な石段を降りて行く。
「君ね、協力する気が無いなら先に船に帰ってくれていても……」
しかし。場外市場と交差するその低い水路の岸辺の先に、赤茶虎の猫は居た。
「あっ……」
ぶち猫は石段の最後の段を降りられずに固まっていた。
赤茶虎の猫は、尻尾を低く垂らしたまましなやかに……ぶち猫の方に歩み寄って来る。
改めて見ても。毛並みの良いすらりとした綺麗な猫だと、マリーは思った。人間の基準では相当な美猫だと思うのだが、猫同士ではそうは思わないのだろうか。ぶち猫はどうしてこんな美猫を、ひどいやり方で置き去りにしたのか。
この場はどうなるのだろう。自分は船長でありぶち猫は乗組員である。この場合自分にも何等かの責任が生じるのだろうか。マリーは一瞬ソフィの事も忘れ、近づくいて来る赤茶虎の猫と、固まっているぶち猫を見ていたが。
「……アオゥ」
硬直するぶち猫にゆっくりと近づいて来た茶虎猫は、そう一声鳴くと、毛繕いの時のように、ぶち猫の耳の後ろを一口、舐めて。
「……」
そのままぶち猫とすれ違い、すたすたと石段を上がる。
「え、ちょっと……そ、それでいいの? それだけ!?」
マリーは思わずそう呟きながら何度も振り返り、茶虎猫とぶち猫の背中を見比べる。
茶虎猫は、尻尾を低く垂らしたまま……振り向かずに歩み去って行く……
「ぶち君……君からは何も無いの!?」
マリーはぶち猫に向き直る。しかし、ぶち猫はただ目を細め視線を逸らして固まっているだけだった。
猫の姿をしていても、船乗り男は船乗り男か。マリーはそう思った。
船乗りとだけは付き合うな、結婚なんてもっての他、マリー、船乗りだけはやめなさい……繰り返し繰り返し語られた祖母コンスタンスの教えが、マリーの脳裏に蘇る。
そして、マリーがもう一度振り返ると、そこには。
「あっ……ソフィちゃん!」
ソフィはちょうど、彼女の方も茶虎猫を探していたというような顔をして、石段の上に現れた所だった。そして石段の下から上がって来た茶虎猫に手を伸ばそうとした恰好のまま、不意にマリーから声を掛けられて驚いていた。
マリーは考える。ソフィは本当に茶虎猫を追い掛けてこんな所まで走って来てしまったのだろうか。
茶虎猫はソフィの顔を見上げ、ソフィも一瞬茶虎猫の顔を見た。しかし茶虎猫はそのままソフィの横を尻尾を下げたまま通り過ぎて行き、ソフィは魚屋に視線を戻す。
「ソフィちゃんどうしたの、こんな所まで一人で来て……もしかして道に迷ったの?」
マリーは15歳のお姉さんとして言うべき事は言わなくてはと思い、そう言った。この場合のお姉さんというのは、血の繋がった姉という意味ではなく、単に年上の女性という意味の方である。
「ごめんなさい、お姉さん」
ソフィはまず、そう応えて俯く。何とも素直な子ではないかとマリーは思う。
そしてソフィの口から出る「お姉さん」という言葉……何と甘美な響きなのだろう。心を酔わすとはこの事だ、何度でも聞いてみたい、でも出来れば「お姉さん」より「お姉ちゃん」と言ってみて欲しい……マリーはそんな煩悩に塗れて、心中密かに身悶えしていた。
「い、いや、私はいいと思うんですけどね、猫ちゃんと散歩してただけだよね? 子供は元気が一番ですよ! ええ! だけどちょっとその、屋敷の人達が心配してるから、その」
ここで勝負を掛けようか? そう考えたマリーは生唾を飲み込む。そして自分の中に潜んでいた未知の人格に戦慄しつつ、次の言葉を口に出す。
「あの。お姉ちゃんと一緒に、ノルデンさんのおうちに帰らない?」
マリーはそう言ってソフィに右手を差し出す。左手は四尺棒を担いでいるので空いていない。
鼓動が高まる……あまりじろじろ見てはいけないと解っているのに、マリーはソフィの小さな手から目を離す事が出来ない。
マリーは息を呑んで待つ。その手が自分の左手に伸びて来るのを。
しかし。ソフィの手はマリーには向けられなかった。ソフィは自分の両手をしっかりと握り合わせ、心細そうに俯いてしまった。
マリーは心中密かに青ざめる。しまった。幼い少女に警戒されてしまった。あの小さな手を握ってみたいという、自分の願望が伝わってしまったのだろうか。
「あ、あ、あのね、デボラさんもユーリ君も本当に心配してたから、一度帰った方がいいと思うよ!? えーっと、帰り道は解るのかな、解らなかったら私が案内しますけど、あの、あっちだよ、あっち」
マリーはソフィに手を伸ばすのをやめ、ソフィから少し離れながら右手で大きく、男爵屋敷へ真っ直ぐ向かえる方の道を指し示す。
とにかくソフィを屋敷に返す、そのくらいはしなくては……マリーはそう思った。しかし。
「待って、お姉さん!」
ソフィは突然……怯えたような、心細そうな憂い顔をぎゅっと引き締め、勇気を漲らせた表情でマリーを見つめ、真っ直ぐに駆け寄って来ると、四尺棒を掴んでいるマリーの右手をぎゅっと握った。
「もしかしてお姉さんは……私のほんとうのお姉ちゃんですか!?」
一瞬にして、マリーの頭に血が登る……視界が紅潮し涙が溢れる。鼻血が吹き出しそうだ。実際に吹き出した訳ではないがそうなってもおかしくない、マリーはそう思った。
今何と? ソフィは今何と言った?
ソフィは自分をじっと見上げている。
辺りには春の花が咲き乱れ、暖かい春風が吹き抜けている。カエルが飛び跳ね、蝶が空を舞い、でんでん虫だって草の上で触角を伸ばしている。勿論本当にそういう事が起こった訳ではないが、マリーには辺りの景色がそのように見えた。
今は真冬ではなかったのか? ウインダムに春が来たのか? 信じられない想いに、マリーは思わず顔を上げ、辺りを見回した。
場外市場の雑踏の中。道の彼方から、誰かがこちらに向かって真っすぐに走って来る。
「ひッ……」
マリーは、小さな悲鳴を漏らす。
北風が吹き、蝶たちが春の花と共に吹き飛ばされて行く。カエル達は慌てて穴を掘って土の中に潜り、でんでん虫も殻に篭って固く蓋を閉じる。
勿論本当にそういう事が起こった訳ではないが、マリーには辺りの景色がそのように見えた。頭から血の気が引き、唇が震える。
マリーはとにかくソフィから手を離そうと三歩後ずさる。しかしソフィはマリーから手を離さず三歩前に出る。
雑踏の中、怒りのオーラを身に纏い、まっしぐらに走って来るのは勿論、古代グース風のドレスを着て、肩に外套を掛けた小柄な女性だった。
マリーの冒険が始まってから実時間で二年が経ちました。第一作第一話は2019年の1月9日に掲載されました。
読んで下さる皆様のおかげで、私も書き続ける事が出来ました。いつも御覧頂きまして本当にありがとうございます。