猫「……一緒に来る?」ソフィ「……うん!」
紆余曲折はあったけれど、マリーはニーナがこの街に居る理由や、親娘のこの街での暮らしぶりについて聞く事が出来ました。
結局ユーリが喧嘩の本当の原因を話す事は無かったが、男爵には概ね察しがついた。息子はソフィの為に喧嘩をしたのだろうと……歳のわりに奸智に長けた少年であるユーリが、そんな手段を選ぶとは。
ノルデン男爵は自らの幼い頃の記憶に想いを寄せる。
あの頃。近所の二つ年上の子爵の息子は自分よりかなり体が大きく、いつも自分に対して威張っていて、自分は彼との勝負を避け卑屈に逃げ回っていた。
そんな自分も根性を出して立ち向かわなくてはならない時があった。幼馴染の女の子を巡って彼と対立したのだ。その殴り合いの喧嘩には普通に負けたが、幼馴染の女の子は自分の方を選んでくれた。
やがて三人は大人になり、自分は男爵に、彼は子爵に、女の子は自分の妻になった。今では小言の多い妻と居る時より、気の置けない友となった子爵と月に一、二度、季節の魚を釣りに行っている時の方が楽しいというのは皮肉なものだが。
◇◇◇
川舟は一時間ばかり大小のウインダムの水路を巡り、元の男爵屋敷の前の岸辺に帰って来た。
「ありがとう。お蔭で久しぶりに息子とゆっくり話をする事が出来ました。思えばもっと早くにこうすれば良かった」
男爵は船頭に礼を言って、ユーリと共に川舟から岸辺に上がる。マリーは船頭に一時間分の手間賃を渡してから、やはり岸辺に上がる。
「魚屋さんも。本当は上がってお茶でも飲んで行って欲しい所なんですが、多分これから私はユーリの母を説得しないといけないので……ほら、この顔でしょう?」
ユーリは鼻血だけは運河の塩水で洗ったが、顔の痣は勿論まだ治っていないし、腫れも完全には引いていない。
「お構いなく。幸運を祈ります、では私はこれで」
マリーがそう言って四尺棒を担ぎ、踵を返した、その時。
「貴方! どこへ行ってらしたの!」
男爵屋敷の正門の辺りに居た女達の一団の中から、かなりふくよかな婦人が金切り声を上げる。男爵夫人デボラである。デボラは四人の侍女を引き連れ、ノルデン男爵の方に駆け寄って来る。
「あ、ああ愛しい人よ、私達のユーリの事なら大丈夫、今回ばかりは私は父として、それはもうキツく叱っておいたので」
「そ……それではソフィは一緒ではなかったの!? あの子はどこへ行ったの?」
「え? ソフィちゃんがどうかしたの?」
「出入りの牛乳屋さんがおかしな事をおっしゃったの、ソフィが一人で東の市場の辺りを走って行くのを見たって……まさかと思って探してみたら、本当に居ないのよあの子、ついさっきまでお庭に居たのに!」
男爵は思わずユーリの顔を見る。しかしユーリも何も知らないらしく、ただ呆然と母デボラの顔を見ていた。
「いや、あの……市場で見たのは何かの間違いで、本当は近所で友達と遊んでるんじゃないか? 今はまだ昼間なのだし……」
辺りを見回しながら、ノルデン男爵はそう言った。
「だから私達、近所や知り合いの所を探してますの、だけどまだ見つからないのよ、どうしましょう、本当に一人で遠くへ行っていたら……」
そこへ。通りすがりの魚屋が口を挟む。
「あ、あの……ソフィちゃんのお母さんは役者さんで、今、クレイン劇場? で公演をされてるんですよね? ソフィちゃん、お母さんの所に行った可能性は無いでしょうか……?」
「む……ソフィちゃんはとても賢い健気な子で、お母さんからは劇場に来るなと言われていて、普段はその言いつけを守っている……しかしその線は無いとは言えないな、ただ、クレイン劇場は北なのだが」
そこへユーリが、前に進み出る。
「父上! 劇場へは私が行ってみます!」
男爵は一瞬、腕組みをしたが。
「解った。劇場は任せたぞユーリ」
「は……はい!」
ユーリはそう応えるや否や踵を返し、元気に駆け出して行く。男爵はその後ろ姿を見て呟く。
「急に逞しくなったな、あの子」
「そんな事を言ってる場合じゃないわ……」
男爵夫人はふくよかな顔を青く染め、すがるように夫の顔を見上げて訴える。
「ニーナさんがあの子をどんなに大事にしているか御存知でしょう!? どうしましょう、ソフィに何かあったら、私、ニーナさんが御仕事をしている間はきちんとソフィを預かると約束したのに……」
デボラは本気で憔悴していた。彼女は彼女で能天気な夫の有り様に苦労していたのだ。
魚屋はそんな夫人を見て密かに思う。母は故郷から遠く1000km離れたこの地で、良い人脈を得て元気に暮らしていたのだと。腕白なユーリ、親しみやすい男爵。男爵夫人だってこんなに心配してくれている。
その時。運河にかかる橋の方から、仕立ての良いお仕着せを着た男が駆けて来る。彼は男爵屋敷の執事見習いの一人だった。
「男爵閣下、戻られましたか! あの、ソフィさんはまだ見つかりませんが、東の市場からさらに北の倉庫街で見たという証言が! 今、衛士と馬丁が手分けしてその近辺を重点的に探しています!」
「なんだって? 何であんな所に……あのへんはスリやひったくり、食い詰めて何をするか解らない奴も多いんだ」
「やめて下さい縁起でもない! 私も倉庫街へ行きますわ!」
「駄目だよ愛しい人、君達は近所を重点的に探してくれ、倉庫街へは私が行く。イゴール君、案内したまえ!」
男爵はそれなりの距離を走り通して来た執事見習いの男に、今来た道を駆け戻るよう促す。男は一瞬愕然とするが、すぐにこれも仕事だと思い直したのか、踵を返して駆け出そうとする。しかし、その前に。
「あれ……? 貴女、どこかで御会いしましたっけ……?」
執事見習いの男は、ふと視界に入った魚屋の顔を二度見する。実際この男は昨夜もマリーの顔を見ていた。
しかしその時のマリーは立派なオレンジ色のジュストコールを着て髪をきちんとセットし、立派なお仕着せを着た執事を連れていた。
「イゴール君、早く!」
次の瞬間、男爵は執事見習いの男を待たずに橋へと向かって駆け出した。
「ああっ!? お待ち下さい閣下!」
イゴールという名の執事見習いも、慌てて男爵を追って走り出す。
「私達ももう一度近所を周りましょう!」
男爵夫人もそう言って侍女達を連れ、屋敷の周りの道へといそいそと歩いて行く。
残されたマリーは腕組みをして思案する。
男爵も夫人も屋敷の人達も、男爵令息のユーリの姿が見えなくてもそこまで心配しないのに、食客の娘のソフィの姿が見えないだけでこんなに心配するのかと。
つまりそれだけソフィが居なくなる事が珍しいのだろう。ではその普段大人しいソフィは何故居なくなったのか? ソフィの目撃証言が嘘でないとしたら、彼女は自分の意志で走っていると思うのだが。大人しいソフィが意を決して屋敷を飛び出す理由……
マリーは足元に目を落とす。ぶち猫はマリーの足元に居て彼女を見上げながら、落ち着かない様子で尻尾を左右に揺らしていた。