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猫「せっ……拙者のせいではござらん……」

行き掛りでノルデン男爵と息子のユーリを連れ出してしまったマリー。

どんな事が起こるやら。

 マリーが二人を連れて行ったのは、自分が乗って来た川舟(ボート)だった。それはまだ、休憩の為に近くの河岸に泊まっていた。

 川舟(ボート)の船頭は、彼の舟に先程も強引に乗って来て、今度も強引に乗ろうとしているマリーに呆れ顔を向ける。


「またお前か、今度は何だよ」

「すいませんお兄さん、もう一度乗せて下さい」

「やあどうも、お世話になりますよ船頭さん、ユーリ、お前が先に乗りなさい」


 何故か息の合うマリーと男爵にうながされ、ユーリも結局川舟(ボート)に乗り込み、皆で野菜の詰まった麻袋の影にそれぞれ身を隠す。


「ええっ! 貴方様はそちらのお屋敷の、ノルデン男爵閣下では……?」

「ごめんなさい、内緒にして下さい」


 マリーが連れて来た人物が誰なのか気付いた船頭が恐る恐る声を掛けるが、男爵は人差し指を唇にかざしてそれを制する。

 船頭は口をつぐんでうなずき、かいぎゆっくりと舟を進ませる。


「いやあ助かりました……魚屋さん?」


 マリーはふと考える。昨夜面会を申し込みに来た時は断られてしまったが、この人物は間違いなく、一度会って母ニーナの事を尋ねてみたかったノルデン男爵だ。今自分がパスファインダー商会の商会長云々を持ち出す事に問題は無いような気もするのだが。


「ええ。お二人のお手伝いが出来て良かったです」


 もう肩書きを振り回す事にりていたマリーは、簡潔な返事をするに留める。



 舟はウインダムの水路を進んで行く。三人は野菜を取り出した後の空になった麻袋を背負って偽装し、屋敷の方に背中を向けている。

 しばらくの間、三人は黙っていた。


「なあ、息子よ。その傷は一体誰につけられたんだ? 劇場の人に捕まって怒られたのか?」


 最初に話を切り出したのは、ノルデン男爵だった。

 しかしユーリは俯いたまま答えない。


 マリーはふと、荷物の隙間から男爵屋敷がある方の河岸を覗いてみた。


「あっ……」


 岸辺にはあの茶虎猫が置き去りになっていた。見ればぶち猫の方はマリーの足元に座りそっぽを向いている。マリーが顔を見ようとすると、ぶち猫はさらに顔を背ける。


「ちょっと。ぶち君?」


 茶虎猫はぶち猫が乗ったこの川舟(ボート)を切なげに見つめている……猫の姿をしていても、船乗りは船乗りという事か。マリーが腕組みをして溜息をつきながらそんな事を考えていると。屋敷の脇の小路から、ソフィが駆け出して来るではないか。

 ソフィは茶虎猫の横に並びかけ、ボートの方をじっと見つめていた。


「……ソフィに関係があるんだな?」


 男爵もソフィが岸辺まで追って来ていた事に気付き、ユーリにそうささやく。しかしユーリはやはり膝を抱えて黙ってしまう。


「坊ちゃん。男は口が堅いのが大事な時もありますけど、ちゃんと話した方がいい時もありますよ。そんな怪我を我慢しなきゃならないんじゃ大変です」


 マリーがそう口を挟むと、ユーリはたちまち顔を上げて抗議する。


「何だよ魚屋! お前だって……!」


 呼ばれもしないのに屋敷の裏口から勝手に入ろうとした、いんちき魚屋じゃないか。ユーリはその言葉を飲み込む。何故そう思うのかは自分でも解らない。だけどユーリはこの怪しい魚屋に敬意と感謝を感じていた。


「そういえば、貴女はどうしてユーリと知り合いなんです?」


 男爵は静かにマリーにそう尋ねた。川舟(ボート)は水門をくぐり、幅30m程のやや広い運河へと漕ぎ出して行く。


「ええと、私は……」


 少し考えて返事をしようとしたマリーを、ユーリの言葉がさえぎる。


「父上! 本当の事を言います、アルフと喧嘩をしました。ごめんさない!」

「えっ……」

「あいつ、いつも自分の親父の方がお前の親父より偉い、逆らったら大変な事になるなんて言うんです」

「えええ……いや、それは……あのなユーリ、爵位というのは軍隊や役人の階級とは違うんだ、別に男爵は子爵の言う事を何でも聞かなきゃいけない訳じゃないぞ」

「知ってます……だけど、そんな風に言われて、悔しかったから……」


 アルフというのはユーリが猪豚野郎と呼ぶ、近所の子爵家の令息である。彼自身はユーリに脛を蹴りつけられると、痛い痛いと泣きながら家に訴えに帰った。ユーリを制裁したのは彼の取り巻きの少年達である。


 しかし、アルフが常日頃、子爵の自分の父の方が男爵のユーリの父より偉いと吹聴ふいちょうしていたのは本当なのだが、今回の喧嘩はそんな事が原因ではない。男爵はそれを、ユーリの向こう側で渋面を作ったマリーの表情から察した。


「お前が喧嘩をしたのは、その程度の事が我慢出来なかったからなどではあるまい。パパ、ちゃーんと解っているぞ。なんたってお前のパパだからな」


 男爵がそう言っても、ユーリはうつむいたままだった。男爵はヒントを求めるかのようにマリーの顔をチラリと見る。マリーは指と顔で小さく、台本を観て台詞を読み上げるような仕草(ジェスチャー)をしていた。


「うむ、そうか……お前の事を解ってると言うパパが、何故お前の芝居好きを理解してくれないのかという事だな? だけどそこはママの言う事も一理あるんだよ、お前はちょっと芝居好き過ぎなんだ……観るなとは言わないよ? 本当に観たい芝居がある時はパパが連れて行ってあげるから、一人で観に行くのはやめなさい」


 ユーリは少し顔を上げる。


「お……父上、それは本当ですか」

「ああ。ユーリの気持ちも考えようと、ちゃんとそう言ってママを説得するよ……だけどな、ユーリ。お前そこまでクレイン劇場の芝居が好きなら、何でそれを支援してくれようとしているハイネン氏を嫌うんだ?」


 ユーリは今度はうつむかなかったが、視線は父から逸らしてしまった。男爵はまたマリーの方をちらちら見る。マリーは音を出さず、唇の動きだけでソフィ、ソフィと繰り返す。


「もしかして……お前はハイネン氏がニーナさんとソフィをルーデンに連れて行ってしまうのではないかと、そう考えているのだな?」


 今度は、男爵の言葉にユーリ少年は激しく反応した。たちまち顔を真っ赤にしたユーリは父親に向き直り、袖を掴んで振り回す。


ちげェよ親父! そんなじゃねえや、だってソフィにはソフィの父ちゃんが居るだろ! 死んだって父ちゃんだろ!」

「ユーリ、私の事はパパと呼べと……」

「僕もう9歳なんだよ! アルフはその事でも僕をからかうんだ……そうじゃない、ソフィの母ちゃんの事だよ!」


 ユーリは今度ははっきりと父の目を見つめて言った。


「どうして親父はハイネンとソフィの母ちゃんをくっつけようとするんだよ! ソフィは……ソフィの本当の父ちゃんの事を今も忘れていないんだ!」


 ノルデン男爵は。半ば助けを求めるようにマリーの方を見たが、マリーはマリーでユーリの言葉に気圧けおされたように、目を丸くして半身を引いていた。

 男爵は息をみ、それから一度深呼吸をしてから答える。


「そうだな。きちんと話そうか……ソフィちゃんのお父さんはアイビスのミレヨンという町のお金持ちだが、ニーナさんと結婚した時にはかなりの高齢だった……ああ、今年の夏の演目の一つに『鬼婆のおうち』という芝居があっただろう? あれと似た話だ。お父さんが亡くなると親戚達はニーナを遺産目当てで近づいた女だと中傷ちゅうしょうし出してね。ニーナはこのままではソフィが殺されると思った。だから相続を放棄して、親娘でアイビスのレアルという町に移ったのだ。残念だが本当のお父さんの所には、戻りようが無い」


 ぎぃ……ぎぃ、と。川舟(ボート)の船体は規則的にたわむ(・・・)。そよ風が時折、静かな水面みなもをさらさらと揺らす。

 そんな風景の中で、男爵は幼い息子相手に、包み隠さぬ真実を語り始めた。


「ニーナは元々詩の朗読を職業にしていたが、レアルでは舞台に立つ仕事も始めた。レアルには主演級の女優がたくさん居て、ニーナは脇役専門だった。私はレアルの劇場で観た彼女を……まあその、演劇と芸術を愛する者として純粋に、脇役で終わらせるには忍びない器だと思ったので、ちょうどその時主演級の働きが出来る良い女優を探していた、ウインダムのハールマン一座を紹介したという訳だ」


 川舟(ボート)は熟練の船頭の櫂捌かいさばきで、様々な大きさのいかだや船が行き交う、悠々と広い運河を進む。岸辺には古い舟の上に小屋を取り付けたような水上住居も係留けいりゅうされている。


「だけどねユーリ、世間というのは世知辛せちがらく、人々はゴシップが大好きなのだ、特にパパのような男前の話になるとね。ノルデン男爵に新恋人か! 御相手はレアルで評判の新人女優! そんな根も葉も無い噂をね、陰でコソコソ言い立てる人が居るんだよ、お前も男ならママが嫌がる気持ちも解るだろう?」


 マリーはそんな生々しい大人の事情を聞かされて大丈夫なのかと心配し、横目でちらりとユーリの方を見る。しかし。ユーリは手を頭の後ろに組み、一丁前の男のような顔をして真昼のウインダムの薄雲のかかった空を見上げた。


「パパはあくまで芸術支援家として、ニーナさんが演劇に集中し女優として生きて行けるようになるまで、うちで生活の面倒を見てあげると持ち掛けただけなのにね……だけどねえ。世間体を気にしているのはママだけじゃない」


 ノルデン男爵も息子と同じように、背中に麻袋を背負ったまま空を見上げる。


「他ならぬニーナさんが、パパの援助に甘える事を嫌がるんだ。劇団を紹介してくれた事も生活を保護してくれた事も一生恩に着るけれど、なるべく早く自力で生活出来るようになりたい、そう言ってきかないんだよね」


 マリーは素知らぬふりをしながら、男爵の言葉を一字一句聞き漏らさぬよう耳を小象のように大きくして聞いていた。


「あの人よく馬車で出掛けるだろ? あれは贔屓のお客さんに呼ばれて詩の朗読をしに行ってるんだ。それでいくらかの謝礼を貰えるんだけど、中にはろくに朗読を聞きもせず、お酒の相手をさせようとする奴も居るんだよ……幼い娘を連れた未亡人が一人で生きて行くのは大変なんだ。ところでユーリ……ちょっとこっちを見なさい!」


 男爵はそこまで穏やかに話していたが、最後に語気を荒らげる。麻袋にもたれていたユーリは跳ね起きるように父に向き直る。男爵は、そんなユーリの手首を乱暴に掴む。


「お前、劇場でハイネン氏の事を何と言った!?」

「そ、それは……」

「触んなカエル野郎、そう言ったなお前!? お前はハイネン氏の何を知っている!? 言ってみろ」

「あ、あいつ……あの人は……ルーデンのお金持ちで……材木商……」

「そうだ材木商だ、彼にはたくさんの部下が居る、彼は部下からどれだけ尊敬されているか知ってるか? 彼には取引相手もたくさん居る、彼の取引相手で彼を汚いカエル野郎だと罵っている人が居ると思うか? 誠実で公平な取引をするハイネン氏は、同業の商売敵からも敬意を集める立派な人なのだ! お前も男なら、人を見た目の美醜で判断するなど大変な恥と知れ!!」


 今度は男爵の言葉の圧力が、ユーリと、その向こうに居るマリーを圧倒する。いや、マリーは別段ハイネンを醜いとは思わなかったのだが。

 男爵は息子の手首から手を離し、元通り麻袋を背負い直す。そして、元のやんわりとした言葉遣いに戻り、空を見上げて続ける。


「特に、お前やパパのような美男子はそういう所に気をつけなくちゃいけないよ。顔が綺麗な男はそれだけで嫉妬されちゃう事もあるんだから、こっちは顔の良し悪しなんて気にしてないです、っていう所を見せないと。いいねユーリ? 美男子は絶対に人を不細工と言ってはいけない。パパとの約束だ」


 マリーは密かに目を細める。マリーはノルデン男爵をそこまで美男子だとは思わないが……しかし、男爵はそれを本気で言ってるのではないのだとも思う。彼は今、幼い息子を教育しているのだ。



   ◇◇◇



 少し前。


 ぶち猫は、男爵屋敷の勝手口から走り去って行くマリーと、それについて行く男爵とユーリを見送っていた。

 ソフィはその三人を追って勝手口を出て、路地をパタパタと走って行く。しかしその足はマリー達には追いつけそうにない。

 茶虎猫はぶち猫と走り去ったマリーを見比べている。


 そしてマリーが路地を出て水路沿いの表通りに出た瞬間に、ぶち猫は全力で駆け出した。その一瞬後に気づいた茶虎猫は小走りで後を追った。

 途中でソフィを追い越す茶虎猫。しかしぶち猫はとっくの先に路地を飛び出し、既に離岸していたマリー達を乗せた川舟(ボート)に、水路を越えて飛び乗っていた。


 幅6m程の狭い水路を往く川舟(ボート)、河岸からの距離はほんの2m。距離的には茶虎猫にも飛べない距離ではないが。町猫は水の上を飛び越すのには慣れておらず、どうしても恐怖心が克服出来ない。

 それ以上に。ぶち猫に意図的に置いて行かれたという衝撃が、茶虎猫の脚をすくませていた。


「ニャゴロロロゥ……」


 茶虎猫は切ない声で鳴く。そこに、パタパタと走って来たソフィが追いつく。

 ソフィは見ていた。川舟(ボート)に乗って去る、魚屋を名乗る……だけど何故か母親そっくりで、自分の事を深い慈しみを籠めた瞳で見てくれる、ユーリを助けてくれた人……だけど母ニーナは驚き青ざめていた人……マリーを。


 ソフィは、傍らの茶虎猫を見た。

 茶虎猫も、ソフィを見上げた。

 6歳の少女と茶虎猫の瞳が交差し、何らかの情報交換が行われる……


 茶虎猫は辺りを見回し、北の方角へと小走りに走り出しながら、ソフィの方に振り返る。

 ソフィは。マリーに良く似た瞳にマリーが単独行動スタンドプレーを始める時のような強い意志を籠めた光を宿らせ、茶虎猫を追って走り出す。

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本作はシリーズ五作目になります。
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マリー・パスファインダーの冒険と航海シリーズ
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