マリー「かっ……可愛いなあ……何であんなに可愛いんだろう……」
深まる誤解……どうもマリーとニーナの出会いは毎度間が悪い。
ニーナの中ではどんどんマリーの印象が悪くなって行ってるのでしょうか。
そして挫けかけたマリーに気合いを入れてくれたのはまたしてもぶち君でした。
瞼の母編、そろそろ終盤には差し掛かっております……
幅6m程の運河を行き交う細長い川舟の一つが、岸に寄って停まる。
川舟の積荷は港から運ばれて来たキャベツやらビーツやら、様々な野菜の詰まった麻袋だった。そんな麻袋の一つが、足を生やして立ち上がる。
「や、助かりました本当に、これお礼です、いやいいから、いいから、はい」
被っていた麻袋を脱いだマリーは船頭の手に銀貨を押し付けると、魚の駕籠を担いで川舟を降りる。他の袋の隙間からは二匹の猫も這い出し、マリーについて行く。
そこはまた、ノルデン男爵の屋敷の近くだった。ぶち猫は目を細めて一声鳴く。
「アオオゥ」
「もうやめとけって? これでおしまいだから、ソフィちゃんをもう一目見れたら帰るから。船乗りの人生は一期一会ですよ、もしかするとこれっきり、二度と会えないかもしれないんだから」
マリーは猫と会話をするように独り言を言うと、辺りを見回しながら、男爵屋敷の脇の小路へと歩いて行く。そこへ。
「え……ええっ!?」
ちょうど小路の反対側の角を曲がって現れたのは他ならぬこの屋敷の当主、ノルデン男爵だった。
マリーは一瞬慌て、どこかに身を隠そうかとも思ったが、ノルデン男爵の方も妙に辺りをキョロキョロと見回しながら、足音を忍ばせるように、勝手口の方へと走って行く……そして棒手振り商人姿のマリーに気づくと、少しびっくりしたような振りをした後に、妙な愛想笑いを浮かべる。
自分の屋敷の勝手口で、何をコソコソしているのだろう? そう思いながらもマリーは少し不器用な会釈を返す。
男爵はたまたま目が合った見知らぬ小商人にはそれ以上構わず、勝手口から屋敷の中に入ろうと、引き戸に手を伸ばす。
その瞬間。引き戸は中から開いた。
そこから現れたのは、頬に痣を拵え鼻血の跡も生々しい、傷ついた男爵令息、ユーリだった。
「……ユーリ!?」
「ち……父上ッ!?」
こそこそと自分の屋敷に忍び込もうとしていた男爵と、こそこそと自分の屋敷から出ようとしていたユーリは、勝手口の引き戸の前で鉢合わせてしまった。
この時ノルデン男爵は、息子が怪我をしているのは怒った劇団員か劇場関係者に追いつかれ、殴られたからではないかと思った。恐妻家の男爵が恐れていたのはその事だった。そんな事が起こったら自分も妻から大目玉を食らう。
男爵はユーリの肩を掴み、敷地の中へ入ってすぐに引き戸を閉める。
「ユーリ……その怪我は一体どうした?」
一方のユーリは父親に叱られる理由などいくらでもあると思っていた。ユーリの母はユーリが芝居見物に夢中になっている事を良く思わず、父にもそれをさんざん訴えていた。そして男爵は息子に芝居見物を禁じ、小遣いも取り上げていた。だけどユーリは先程劇場に居た。
その上自分は劇場で父の大事な取引相手の脛を蹴りつけた。その事はどう考えても父にとって良い事であるはずが無い。
さらに、そもそも今の時間ユーリは屋敷で勉強をしているはずだったのである。それをすっぽかして遊び歩いていたのだ。
ユーリはそれらのどの理由で叱られる事も恐れてはいなかった。けれども一つだけ、ユーリには絶対に父には話せない事があった。
「父上……私は怪我なんてしてません」
「してないってお前、顔は痣だらけだし、鼻血も出ているじゃないか!」
「そ、そうですか、ぜんぜん気づきませんでした!」
「気づかない訳無いだろう! だっ……誰にやられた? どこで!?」
「誰にもやられてません! ちっとも痛くないから気づきませんでした!!」
ソフィを守って子爵の息子と喧嘩をして殴られた。ユーリはそれだけは父に言う訳には行かなかった。
自分はソフィの為に戦ったつもりだった。だけどそんな事が知れたら、両親はますますソフィとニーナをこの屋敷から追い出すよう計らってしまうかもしれない。
「お前ッ……その怪我でそんな訳が」
男爵がユーリの手首を掴んだ、その瞬間。
「キャアアアアアアア!?」
屋敷の母屋のバルコニーから、絹を引き裂くような悲鳴が上がる。
「ユーリ! 勉強の時間にどこにも居ないと思ったら、貴方何という怪我をしてらっしゃるの!? 出世前の男子が顔にそんな怪我を、一体何事ですの!?」
バルコニーで悲鳴を上げたそのふくよかな婦人はユーリの母でもある男爵夫人デボラだった。
そこへ更に。
「……ノルデンおじさま……!」
勝手口の近くの小さな納屋の物陰から、涙目のソフィが姿を現し、いそいそと、男爵とユーリの方に駆け寄って来る。
「ソフィ! あっちへ行ってろ!」
ユーリは男爵に肩を捕まれたまま、そう言ってソフィに向かい腕を振り回す。ソフィは一瞬怯んだが、もう一度意を決し、か細い声で訴える。
「……ユーリをおこらないで下さい、ユーリは私のせいでけんかをして……」
「あっち行けっつってるだろ!! 余計な事を言うな!」
ソフィのか細い声はユーリの怒りの叫びに掻き消され、男爵の耳には届かなかった。
ユーリは怒っていた。何故ソフィはあの子爵令息の猪豚野郎の言う事は聞いてしまうのに、自分の言う事は聞いてくれないのかと。
先程までユーリはさんざんソフィに言っていたのだ。自分があの猪豚野郎と喧嘩をした事は絶対に誰にも言うなと。そこにソフィが居た事も絶対秘密だと。何度もそう言い聞かせたのに。
一方ソフィには、弱虫のソフィなりの想いがあった。
ソフィが子爵令息一味に逆らわないのは、そうしないとユーリが彼等と喧嘩をしそうだと思っていたからだった。ソフィはソフィで何度もユーリに言っていたのだ。自分は何を言われても平気だから、喧嘩はしないでと。
しかしその危惧は今日現実になってしまった。子爵令息の脛を蹴りつけたユーリは、報復でその取り巻きの少年達に殴る蹴るの暴行を受け怪我をしてしまった。
必死で声を絞り出そうとするソフィを見て、ユーリは父に向かい叫ぶ。
「父上、私は怪我なんてしてません、勉強が嫌だから外で遊んでただけです! 顔は外を走り回ってる時にどこかにぶつけたかもしれないけど、全然痛く無かったからわかんなかったです!」
屋敷の中が騒がしい。二階に居た男爵夫人が供を引き連れ庭に降りて来ようとしているようだ。
「……ユーリ」
父である男爵は、息子のユーリに険しい声で語り掛ける。ユーリは、どんなに叱責されようと秘密を守る覚悟で、俯いて唇を噛み締める。
「お前いつの間にそんな、一丁前の男の顔をするようになったんだ? パパ、ちょっと驚いたぞ」
ユーリは思わず顔を上げる。男爵は依然として険しい表情のまま、ユーリと周囲の様子を見比べていたが。
「まずい、ママがもうすぐ来る……よし! 逃げるぞユーリ!」
そう言って男爵はいきなり勝手口の引き戸を開ける。
引き戸の向こうで鍵穴の僅かな隙間から中を覗き聞き耳を立てていたマリーは、思わずつんのめって敷地の内側に転びそうになる。
「ぬ? 何だねキミは?」
「さっ……魚屋ッ、何しに来たんだよ帰れッ!」
男爵は先程会釈だけした見知らぬ棒手振りが聞き耳を立てていた事に驚き、ユーリは魚屋が父に告げ口しに来たのかと思い焦った。
「ユーリ! お母様の所へいらっしゃい!!」
屋敷の方からは男爵夫人のかなりヒステリックな叫び声が聞こえて来る。その声は二階から一階、一階から庭へと、次第に近づいて来ているらしい。
混乱したユーリは勝手口横の納屋に隠れようとするが、男爵はその首根っこを捕まえて止める。
「馬鹿ッ、そんな所すぐに見つかるわ! ああもう、どうしよう」
男爵はそう言って辺りを慌ただしく見回す。
その様子を見たマリーは勝手口の外から手招きをして言う。
「坊ちゃん、男爵閣下、私が乗って来た川舟がまだそのへんに居ます、良かったら御一緒にいかがですか」
男爵は、四尺棒に魚の駕籠を提げた棒手振り商人と、息子のユーリを見比べる。どうもこの二人は顔見知りらしい。
「どなたか存じませんが御親切にどうも、行くぞユーリ」
「おッ……父上! こんなどこの誰だか解らない奴について行くんですか!?」
「人生は冒険ですよ、坊ちゃん」
「あー、コホン……こっちへ来いユーリ! 今日という今日は……あー、許さんぞ!」
男爵はユーリの手を引いて勝手口から外に出ると、最後に屋敷の中に聞こえるようにユーリを叱る演技をして、それからマリーの後を追う。
マリーは二人を誘導しながら最後に振り返り、勝手口から半身を乗り出して心配そうにユーリと男爵を見つめている、ソフィの顔を見た。
今年も宜しく御願い致します。