ノルデン「やめろー! 追跡やめ! 誰も望まない犯人探しはやめだ、いいから! とにかく終了ッ、終わりッ!」
男爵令息のユーリ少年はソフィが好きで、ソフィの母ニーナの再婚話が気に入らなかった。それを推し進めようとする、自分の父を始めとする大人達も。
少し後。マリーは辺りの様子を伺いながら劇場の近くに戻っていた。
時刻はまだ午前だが、そろそろ正午開演の部の開場が行われるようだ。ほんの数人だが開場待ちをしている熱心な客も居る。
一方、脇の関係者口の方からは、一度戻って来たノルデン男爵がハイネン氏と連れ立って出て来る。
「災難……とも言っていられませんな、本当に申し訳ない。今後は素性の知れない者が紛れ込まないよう、きちんと警備をさせますので」
「本当にどうかお構いなく、私が迂闊だったのです、もう少し考えを持つべきでした、大変お恥ずかしい」
男爵はハイネン氏に気を遣っていて、ハイネン氏はそれに恐縮している。
「いやいや! 貴方が反省するような事は何もありません」
「ノルデン閣下、一つだけ御願い出来るなら、どうか犯人探しのような事はやめていただけませんか、私はともかく、こんな事でニーナさんに何か悪い噂が立つような事だけは、どうしても避けて欲しいのです」
魚の駕籠を背負い猫を二匹連れたマリーは、ちょうど柱のすぐ向こうを通り過ぎて行く二人の会話を聞いていた。
「はッ、犯人探しはッ……そそ、そうですか、ではハイネン氏の寛大さについてなるべく早く皆に話しませんと、バステン君ベルカンプ君、まだ外を走り回ってる連中に伝えるのだ、ハイネン氏は報復を望んでいないと、行けッ!」
男爵の後ろからついて来ていた二人の従者は、それを聞いてどこかへ走り去って行く。
「気を遣っていただいたのに、申し訳ありません。私は少し休ませていただきます、開演時間にはまた戻って参りますので」
「コホン。では私も少々急ぎの用事がございます故、一旦お暇しましょう、ハイネン殿、どうかお気を悪くされませんよう」
ノルデン男爵はそう言って、馬車も呼ばず従者も連れず、駆け足でどこかへ走り去って行く。マリーはここ半年でたくさんの貴族を見て来たが、泡を食った様子で町中を走り去って行く貴族というのは初めて見た。
さて。ハイネン氏もどこかへ歩み去って行く。宿はすぐ近くなのだろうか。
マリーは思う。半年前の自分だったら、こんな人に道端で声を掛ける事など出来なかっただろうと。
しかし船乗りにとって、人との出会いは「限られた僅かな幸運」なのだ。それを逃してはいけない。
「あのっ、もしや貴方はルーデンの、ルーデンのハイネン様ではありませんか?」
マリーは魚の駕籠を四尺棒で背負ったまま、ハイネンの隣に追いついて、そう声を掛けた。
「え……ええいかにも、ハイネン商会の商会長を務めております、クリストフ・ハイネンと申します……どこかで御会いしましたかな?」
ハイネンはすぐに立ち止まり、マリーの方に向き直る。
マリーは少し感心する。立派な男爵があれほど慇懃に接するのだ、ハイネン商会はさぞや名のある大店なのだろうに。その商会長のハイネン氏が、市中でいきなり声を掛けて来た棒手振り担ぎの小商人の自分にも、こんなに丁寧に応対するのかと。
「ああやっぱり、ごめんなさい、有名な人だから知り合いのような気がしちゃって、今日は芝居見物でしたか、そこの劇場……どうでしたか、最近は下町の劇場にやられちゃってあんまり元気が無いんスけど。向こうは幽霊船とか竜退治とかの話をやってるでしょう?」
マリーは自分でも馴れ馴れしい奴だと思いながらそう話しつつ、ゆっくりと歩を進める。するとハイネンもそれに付き合い、歩調を合わせてついて来る。
「下町の演目は解りやすいですし、人気があるのは解ります。ですがこちらの劇場で盛んに演じられている古典にも良い所はたくさんあります。こちらも何とか、流行り廃りに負けず続いて行って欲しいものです」
ハイネンは相槌を打ちそう言った。マリーはもう一歩踏み込んだ話を始める。
「あの劇場や劇団……支援なされるんですか?」
「私は最初からそのつもりでした。ここクラッセの、特にウインダムの人々は常に新しい物を求めておられますが、ルーデンやファルケの各都市にはまだまだ、本格派の古典演劇を現代的な演出で観てみたいという人々がたくさん居るのです。こちらの劇団にも是非、公演に来ていただけないかと思いまして」
マリーは一つ咳払いをし、そっぽを向いたまま、次の話を切り出す。
「あの女優さん……あー、ニーナ・ラグランジュさんですか、彼女ももしかしたら、ルーデンの御客さんの前で演じた方が、より喜んで貰えるかもしれないと」
自分でそう口に出した後でマリーは少し後悔する。ニーナの話を振った自分は結局ただのゴシップ好きの人間だと思われてしまうのではないだろうか。しかし。
「ニーナさんは……大変素敵な女優さんだと思うし、観客に愛されるのも頷けます。ところで」
ハイネンは立ち止まる。
「貴女はもしや……先程天井桟敷で叫んで、ユーリ坊ちゃんを助けて下さった方なのでは?」
マリーは硬直する。ニーナに見られていたのは気づいていたが。
「な……何故そう思われますか? いや……見てらっしゃったんですか」
「はは、御姿は見えませんでしたが、今お話しを伺ってみて声で解りました。私、芝居も姿以上に音で楽しむ質でして」
色々な意味で、マリーは溜息をつく。ハイネン氏は芝居好きのふりをしているただの金持ちではなく、本物の演劇通らしい。そして自分の脛を蹴りつけたのがノルデン男爵の息子だと知った上で、彼が咎めを受けないよう願っている。
「あは、は……どうでしたかね、私の芝居は」
「うーむ……正直に申し上げれば真に迫っていたとは言えませんなあ、乙女の悲鳴と言うよりは、勇者の雄叫びでした。ははは……まあ一座の演出家のダーウィッツ君は騙されたようですが」
そして芝居の事には手厳しい。ここ半年やむにやまれず色々な芝居をして来たマリーではあったが、そう言えばか弱い乙女を演じた事はあまり無かった。
「あのっ! 本当に申し訳ありません、私、ユーリ坊ちゃんは別の用事で一階に降りて行ったと思ってたんです、まさかあんな乱暴な事をするとは夢にも」
「そこはその、きっと貴女のせいではありません、私が悪いのです……坊ちゃんは以前から私に怒りを向けておられます。理由も解っております」
ハイネンは大きな水路沿いの大通りと交差している、小さな水路のある小路へと折れ曲がり、その幅2m程の水路沿いのベンチに腰を降ろす。マリーはベンチの脇に魚の駕籠を置き素早く近くの露店で温かい木の椀の紅茶を二杯買って来た。
「ああ、有難い……御馳走になります」
「あの……私が言うのも何ですが、いいんですか、見覚えの無い流しの魚屋にそこまで話してしまって」
ハイネンは自分の仕事一筋で女性に縁の無かった半生と、最近のノルデン男爵との交友の事、その中で持ち上がった劇場と劇団の支援話の事、そして男爵が勧めて来る、劇団に最近加わった「レアルで評判の女優」であるニーナとの縁談の話について、簡潔に解りやすく、マリーに話してしまった。
「私も普段はここまでお喋りではないはずなんですが、長年やって来た商人の勘と申しますか……貴女には話してみたくなりましてね」
「大商人の勘ですか! そりゃあ凄い、じゃあ私、いつかウインダムで一番の棒手振りになれますかね!?」
「ははは、志が大きいのか小さいのか解りませんな……まあ単に少し寂しくなってしまったのかもしれません。随分色んな人に気を遣われてますからね、最近は」
ハイネンはニーナとの縁談に前向きではあるという。そして彼女の女優という職業にも理解を示していて、その仕事を続ける事も応援したいと。
世間の男は女優の演じる芝居を観るのは好きだが、自分の妻が人前でロマンスを演じる事を好まない者が殆どなのだが。
「彼女は以前結婚していて、娘さんが一人いらっしゃるというのは存じています。私は初婚ですが、御覧の通りの中年の醜男ですからな……私からしたら、願ってもないような素敵な縁談なのです、本当に」
「そ、そんな事をおっしゃるものじゃありませんよ」
話がニーナの一人娘ソフィの話に及ぶと、ハイネンの表情が影を帯びる。
「しかしはっきり言って……私は娘さんが、ソフィが許してくれないならこの縁談を諦めようと思っています」
「えっ……」
「こんな男が新しい父親だなんて嫌だという気持ちも解りますからね。ユーリ坊ちゃんはソフィと親しいそうなので……あの子はソフィの気持ちを代弁してるんじゃないですか? 私、そこまでしてニーナとソフィの間に割り込む覚悟は無いんです」
ハイネンの隣で話を聞いていたマリーは、立ち上がって彼の正面に回り込む。
「待って下さい、だけど……ソフィちゃんが本当にそう思ってるかは解らないじゃないですか、いいえ、私にはソフィちゃんの気持ちが解るんですよ、私、今日もソフィちゃんに会いましたから!」
「えっ……えええ、しかし」
「あの子の一番の願いはね、優しいお母さんと一緒に居る事なんですよ、出来ればいつも! お母さんが毎日仕事をしなくても良くなって、他人の家の客間じゃなく自分の家の居間や庭先でね、一緒に編み物をしたり花の冠を作って暮らせるようになったらね、どんなに幸せな事か! ソフィちゃんはそう思ってますよ、いや、今は小さいから自分の気持ちが解ってないかもしれないけれど、そんな暮らしが出来るようになったらね、きっと! その暮らしをくれた新しいお父さんに感謝しますよ!」
マリーはそこまで言ってしまってようやく、自分が必要以上に興奮していた事に気づく。ハイネンは目を丸くして唖然としていた。
「あの……貴女は一体」
「あー……私はただの、男爵様の屋敷の脇をよく通るマリーと申します魚屋なんですけどね、差し出口を致しまして申し訳ありませんです……ああいけない、そろそろ配達に戻らないと、空いたお椀片付けますね、それではごきげんよう、はい」