ダーウィッツ「ネ……ネズミに驚いたですってぇ!?」芝居好きのお爺さんA「さっきのお嬢さんなら、そう言っておったぞ」
何故か視点がいつものマリー一人称に戻りません。別にバトルが続いてる訳でも話がクライマックスを迎えてる訳でもないのですが……
申し訳ありません、もう少しこのまま行きたいそうです。
ノルデン男爵の従者達、劇団の舞台助手や端役の役者達、劇場の支配人と使用人達。三つの勢力はいずれも隣国の豪商であるハイネン氏の実益ある友誼に預かりたいと考えており、彼の為に襲撃者を捕まえて袋叩きにしたいと思った。
「あのクソガキは何処へ行ったああ!?」
それが劇場と劇団の大事なパトロンの一人であるノルデン男爵の御令息であるとは気づいていない筋骨隆々の大道具係の男は、拳骨を振り回しながら劇場の正面入り口を飛び出して来て、慌ただしく辺りを見回す。
その後ろから、劇団の衣装係、兵士役の男、劇場の改札係、男爵の従卒、劇場の副支配人、劇団の演出助手、老婆役の男、牛役の男、劇場の饅頭売り……天井桟敷の方へ急行した一部の男達を除く、他の関係者も続々と現れる。
顔面蒼白のノルデン男爵はそのさらに後ろから現れた。彼は一人の紳士としても武勇の誉れ高き男爵としても、狼藉者を追う陣頭に立たねばならないのだが、彼だけはその狼藉者が自分の愛息だと気づいている。
「畜生め、ケツの皮を剥いでやる!」
「どこ行ったクソガキゃあぁあぁ!」
しかし追手の一行はユーリを見失っていた。大人達は劇場の正面広場でバラバラに辺りを見回す。
「ええい、俺達は劇場の周囲を探す!」
「解った、俺らは下町側を探そう!」
「心得た、我らは上町側を探しましょう閣下!」
そして劇場関係者は劇場の外周を、劇団員は下町の方を探す為、追手は手分けして広場を離れて行く。
「閣下! 早く!」
「あ……ああ……」
男爵家の家臣達も、何故か足取りの重い当主を引き連れ、劇団チームと反対側の上町の捜索をすべく駆け出して行く。
「一体何の騒ぎだい、これは……」
劇場の入り口の果物屋の屋台の店主は小さく溜息をつく。その屋台の足元の棚の中から、毛織のコートのフードを被ったマリーは転がり出て来る。
「ありがとうお姉さん、助かりましたよ」
泡を食って劇場の通路を逃げ回っていたユーリを誘導してここに一旦匿ったのはマリーである。
果物屋の店主は芝居好きで悪戯小僧のユーリ坊ちゃんの事を良く知っていたし、気風のいい魚屋マリーを悪しからず思っていたので、咄嗟に味方してくれたのだ。
マリーは辺りを見回し、追手の姿が無いのを認めると、屋台の足元の物陰から先程匿ったユーリを引っ張り出す。
「ほら、今のうちに行きますよ坊ちゃん!」
「ぼ、坊ちゃんはやめろって言ってるだろ」
マリーはユーリを連れて逃げる前に、彼が被っていた誰かの外套を取り、劇場の入り口の方へ持って行ってそこに置いておく。
◇◇◇
魚の駕籠とぶち猫を回収しそのへんの水路を行くボートに潜り込み、橋の下で飛び降りたりして、マリーはユーリを連れて劇場から少し離れた河岸へと移動していた。茶虎猫はまだついて来ている。
「このへんまで来れば大丈夫ですかね。やれやれ……それで? 何であんな事をしたんです?」
マリーはユーリの顔を覗き込む。ユーリは水路の川面を見つめ、口をへの字に曲げて俯いていたが。
「だって……あんなの不潔だ! お前だって見ただろ、あのハイネンとかいう奴。まるでヒキガエルみたいじゃないか!」
「そんな風には思いませんでしたけどねェ、私は」
「それに! あれは……ソフィの母ちゃんだ」
ユーリは憤懣やる方無いという顔で、膝を抱える。
「……ソフィの親父は死んじゃったんだって。だけど死んだって親父は親父だろ。金持ちの材木屋だか何だか知らないけど、何であんなヒキガエルが、ソフィの親父みたいな面してソフィの母ちゃんの肩に触るんだよ! 不潔だろ!」
ユーリは知らないが、そのソフィの母ちゃんはマリーの母親でもある。
マリーは腕組みをして思案していた。マリーについて来ていたぶち猫は、そんなマリーの横顔を問い掛けるように見上げる。
そんなぶち猫の背中に、茶虎猫は幸せそうに目を細めて喉を鳴らし、こめかみを擦りつける。
マリーがまだ持って来ていた魚の駕籠の中では、売れ残った三尾ばかりの痩せ鰯と一尾の目玉の飛び出た大きな深海魚が虚空を見つめていた。
「ユーリ君。君、ソフィちゃんに惚れてるね?」
マリーは目を細め、おもむろに呟いた。
「なッ……何バカな事言ってんだよ! そんなわけねーだろ!!」
「いいじゃないの、別嬪さんだし中身もいい子だよ、私にもね、お魚を見せてくれてありがとう、って言ってたなあ。あんな小さいのにちゃんとそんな事が言えるんだから偉いよ……あの子、母親と一緒に君の屋敷で暮らしてるんだよね? きっと良くしてもらってるんでしょう? 君の親父さんに」
飄々とした渡世人風のマリーは、そう言ってユーリの顔を覗き込む。年のわりには良く言えば利発、悪く言えばませたユーリは、やや顔を赤らめ俯きながらも、素直に答える。
「親父はソフィの母ちゃんを気に入ってるけど、俺の母ちゃんは気に入らないらしくて、ソフィにもあんまり優しくしてくれない」
男爵家でのニーナの生活も全てが順調という訳ではなかった。男爵の妻、つまりユーリの母は夫が色恋の噂の多い未亡人を養っている事に嫉妬しており、男爵はそんな事もあって、早くニーナとハイネンを結婚させてしまおうとしていた……マリーはふと、そんな物語を想像してしまう。
「あのさ。大人は子供の都合なんか何も考えてくれないだろ?」
いかにも悪ガキらしい憮然とした表情を浮かべ、ユーリはそう切り出す。
「近所に俺の一個年上の嫌な奴が居てさ、ソフィを見るといつも女優の子が来たとか、何か芝居やってみせろとか言うんだ。ソフィは臆病で何も言い返せないし、すぐ泣くから」
「そッ……それで! 坊ちゃん、いやユーリ君は何て言ってやるんですか!?」
「俺が見てる時は、すぐ走って行ってそいつの脛ェ蹴っ飛ばしてやるんだ」
「そ、そうなんだ、男だねユーリ君は。それで?」
「だけどソフィはいつも、喧嘩はやめてって言うんだよ」
ユーリの話の途中からやや興奮し食い気味に、自分より20cm近く背の低いユーリの顔を覗き込み話を聞いていたマリーは、急に鼻を押さえて空を向く。
ユーリはますます憂鬱そうに俯き、小声で呟く。
「ソフィには俺が必要なんだ。だけど……あのヒキガエル野郎はソフィの母ちゃんをルーデンに連れ去ろうとしているし、俺の母ちゃんはきっとそうなればいいと思ってる。親父もあの通りだ。見ただろ! 最低だ、ソフィの天国の父ちゃんが見たら何て思うんだよ、あんなの!」
ユーリは最後に、ハイネンがニーナの肩に手を置いた瞬間を思い出し、語気荒く吐き捨てる。
マリーはほんの一瞬、かつてのニーナの夫であり今は多分地獄に居ると思っている自分の実父に思いを寄せる。
「成る程、良く解った。解りましたよユーリ君」
「お……大人なんかに、何が解るんだよ!」
マリーが頷くと、ユーリは少し語気を荒らげて立ち上がる。
「ユーリ君?」
「魚屋、やっぱりお前は坊ちゃんって呼べよ、何でかお前に名前で呼ばれるとすごく調子狂うから! 俺はもう行くから。じゃあな!」
「どこ行くんです、坊ちゃん」
「ついて来んな! 財布ならちゃんと届けてやるからよ!」
ユーリはそのまま立ち上がると、自分の屋敷がある上町の方に向かって駆け出して行く。マリーは小さな溜息をついてその背中を見送る。
ぶち猫はその間もずっと、器量良しの茶虎猫にすり寄られて困惑していた。
「ぶち君君ね、先に港に帰っててくれませんかね。今日は出番は無いんじゃないですかね」
不意にマリーにそう言われたぶち猫は、目を見開き瞳孔を丸くしてマリーの顔を見つめる。茶虎猫はその間も、ぶち猫の耳の後ろの毛を丹念に繕っていた。
◇◇◇
ユーリは真っ直ぐ自宅のある上町の近くに戻っていた。
彼には考えなくてはならない事がある。今日は家庭教師が来るので屋敷で勉強をしなくてはならなかったのだが、臨時収入を手にしていた彼はそこから逃亡し、芝居見物に行く事を選んでいた。自宅に戻ったら、その言い訳をしなくてはならない。
その事について思案しながら、自宅と隣家との間の路地に入った、その時である。
「おい、女優の子だろお前。いつも母親が芝居してるの観てるんだろ。何か芝居をやって見せろよ。面白い台詞を聞かせてくれよ」
路地でソフィが、数人の男児に囲まれていた。そのうちの一人はユーリより一つ年上の近所の子爵令息で、10になるかならないかという歳なのに身長は既に160cmを越えている、色白で赤ら顔の肥満した少年だった。
ユーリは実際にこの少年の脛を蹴りつけてやった事は一度も無い。そいつの取り巻きの、子爵屋敷の使用人の子供達だって皆ユーリより背が高いのだ。
男の子達に囲まれたソフィは、既に泣きそうな顔をしていた。
ユーリは密かに舌打ちする。彼はいつも言っているのだ、あいつらの姿を見たらすぐ屋敷に逃げ込めと。こっちへ来いと言われても絶対に行くなと。だけどソフィはとても臆病なので、あの猪豚野郎に呼びつけられると素直にそっちへ行ってしまう。
ユーリは怒っていた。周りは男爵令息だなどと言って自分を持て囃すが、世の中は何一つ自分の思うようにはなってくれず、自分を一人の男として扱ってくれる奴なんか一人も居ない。
父は自分では女優とその娘を庇護したりするくせに、息子の自分からは芝居見物を取り上げ、芝居を観れないよう小遣いも全て没収してしまった。
その女優の娘が弱虫で可哀想だから自分が守ってやろうとしたら、自分が嫌な勉強を押し付けられている間に近所の猪豚野郎に虐められて泣いていたりする。
それだけでも十分腹が立って仕方無いのに、今度は父がその女優を取引相手か何かとくっつけようとしている。そいつはその女優とはとても釣り合わない醜い年寄りで、外国人だ。
それで自分に何が出来ているというのか。
せいぜい自分は傷ついていないようなふりをして、悪ガキらしい面をして斜めに構えている事ぐらいだ。
たったこれだけの事だって、自分なりに必死でやっているつもりだったのに。
そこに現れたのがあの魚屋だ。最初はただのぼんやりとしたお人よしだと思ったのに。やたらとソフィの事を気に掛けたかと思えば、いきなり自分の事を信用すると言い出す。
そして遠目に見た時は痩せっぽちの貧相な男に見えたのに。近くでよく見たら若い女だったし、嫌にソフィやニーナによく似ているのだ。その上に。
―― 男だねユーリ君は。
そんなもの、悪ガキの言葉を信じて金がたっぷり入った財布を預けるような貧乏で馬鹿な魚屋が、男爵令息の機嫌を取ろうとおべんちゃらで言っただけだと、ユーリは繰り返し繰り返し自分に言い聞かせていた。それなのに。その声は何度でもユーリの脳裏に蘇り、彼を苛んでいた。
「うあああああああ!!」
疾風の如く大柄な少年に駆け寄ったユーリは、その革靴のつま先で、相手の向こう脛を真っ直ぐに蹴り上げていた。