アイリ「私、マリーちゃんを探しに行く」ウラド「しかし、船長は絶対に船を降りるなと」
ロイ「すまん……わしが寝ていたせいで」
不精ひげ「ロイ爺のせいじゃないぞ、全員寝てたんだから」
カイヴァーン「ぶち猫も居ないや、あいつ怪我が治ってないフリしてたんだな」
アレク「あの……他の人に探しに行って貰うのはどうかなあ」
マリーがふとユーリの方見ると、ユーリはアイマスクをしたまま慌てた様子でマリーを見ていた。そのマスクの向こう側の表情から、マリーはあれがノルデン男爵なのだと察し、桟敷の手摺りから離れる。
するとユーリは慌ててマリーの右腕にすがりついて来て、小声でせっつく。
「待って! 財布は返すしあの、使った分のお金も今度返すから、御願い、親父には言わないで!」
マリーは単に、ユーリが下から見つからないよう気を使ってやったつもりだった。それに。
「別に告げ口なんかしませんよ。だけど財布を返すというのはお断りです。坊ちゃん、貴方はそれをニーナさんに渡すという仕事を私から請け負ったんです。男なら最後までやり遂げて下さい」
ユーリのアイマスクが鼻からずり落ちる。
「……僕がこのお金を、全部使っちゃうとは思わないの」
正直、マリーは八割方そうなるだろうとは思っていたが。
「私は信用して預けたんです。それだけですよ。今は都合が悪いというのなら後でも宜しい。私はもう少しここで稽古を見て行きます、貴方はご自由にどうぞ」
マリーは再び手摺りの所に戻り、舞台を見下ろす。
男爵と思しき人が現れた事で稽古は止まってしまったが、マリーが見たいと思っていた物は今そこにある。
母はウインダムでどんな暮らしをしているのか。庇護者と思われるノルデン男爵はどんな人物で、母とはどんな関係なのか。
一方。ユーリはそんなマリーの背中を見ていた。彼からしてみれば、マリーは名前も知らない怪しい魚屋である。普段屋敷に来ている魚屋ではないし、今まで近所で見た事も無い。
それでも。彼は今まで誰かに「信じて任せる」などという事を言われた事は無かった。男爵家の跡取りとして大事にされ、厳しく育てられているユーリだったが、屋敷に彼を一人の男として扱う者は居なかったのだ。
マリーはユーリに背を向け、稽古の中断した舞台を何故か熱心に見下ろしていた。芝居通の老人達は手摺りから離れてその辺に腰掛け、稽古の再開を待っている。
ユーリはマリーに歩み寄り、イチゴの入った巾着をマリーのコートのポケットに押し込む。
「残りは、やる」
「坊ちゃん?」
マリーが振り返ると、ユーリは天井桟敷の扉を通り抜け、通路の方へと走り去って行く。
マリーは舞台に目を戻す。
「稽古は良いのですけれど、ここは寒くて……舞台衣装は薄手で露出も多いですから、体が芯まで冷えて台詞が凍えそうになりますわ……」
「ダーウィッツ君、舞台に篝火を置いたらいいじゃないか、見た目も派手になって観客も喜ぶだろう」
「このシーンは月光だけが照らすバルコニーのシーンです、篝火なんかある訳無いじゃないですか」
ダーウィッツと言うのは先程の小太りの演出家の事らしい。マリーはどことなく佇まいがアレクに似ていると思った。
「しかし君、役者達が凍えてしまってはだね」
「そこは根性で乗り越えて貰わないと! ここは月下のバルコニーですから!」
男爵と演出家は舞台装置について口論する……しかしマリーの目にはそれが奇妙な物に見えた。二人共何か、事前の打ち合わせ通りの口論をしているような、そんな雰囲気があると、マリーは見破っていた。
果たして。
「あの……ちょっと宜しいでしょうか」
客席の一つに腰掛けていた、男爵と一緒に来ていた紺のコート姿の中年男が遠慮がちに手を挙げる。男爵はすぐさまそれに応える。
「おお、勿論ですハイネン殿、何か助言がいただけますか」
「古代帝国時代の裕福な市民の邸宅には、属州から運ばれた豊富な薪炭とたくさんの奴隷が居て、市内では深夜まで明かりが絶えず、さながら午前零時までは昼間のようであったと聞きます。このバルコニーの場面に篝火があっても、決しておかしくはないかと思うのですが」
これを聞いたノルデン男爵は、大袈裟に手を打つ。
「それ見た事か! ダーウィッツ君、これが教養という物だぞ」
「なんと、そうなのですか、これはお恥ずかしい事を申し上げました……ハンス君、ここに篝火を立てよう、準備が出来るまで稽古は中断だ!」
演出家はそう相槌を打ち、舞台係の助手達に指示を出しながら舞台から離れて行く。自分の番を待っていた他の役者も、一旦休憩する為どこかへ去って行く。ノルデン男爵までも、煙管を取り出し舞台から離れ、壁際のランプに火を借りる為そそくさと歩み去る。
そして舞台の上のニーナと、舞台の下に居たハイネンという紳士だけが残される。ニーナは優雅な仕草でゆっくりと舞台から降りると、毛皮のショールが掛けてある座席の方に向かう……偶然かどうかは知らないが、ハイネンはその近くに居た。
マリーは赤面し手摺りから離れそうになったが、何とかそこに踏み止まる。10年離れていたとはいえ、そこに居るのは自分の実の母なのだ。
ハイネンの歳は40半ばから50くらいの間だろうか。マリーの目にはその男は背が低く地味だが実直そうな紳士に見えた。
マリーには自身が絡む恋愛の経験は無い。その一方で幾多の少女小説や恋愛小説を読破して来たマリーは、第三者の恋愛を観察する者としては年増のように目敏い。
ノルデン男爵と演出家ダーウィッツはこの状況を意図的に作り出している。マリーはそう思った。
今から母ニーナとハイネン氏は男爵らの計画通りの恋に落ちるというのか。その噂はノルデン男爵が絡む水産会社の仕事を手伝っているロビンという名の仲仕まで知っていた。恐らくこれは昨日今日始まった計画ではないのだろう。
「今日は本当に寒い……さあ、どうぞ」
ハイネン氏は椅子に掛けてあった毛皮のショールを取り、ニーナに近づく。
「まあ……貴方のような立派な方にこんな真似をさせるなんて。衣装係はどこへ行ったのかしら。申し訳ありません……でも、嬉しいですわ」
大胆に肩を露出させた舞台衣装を着たニーナは、はにかみながら頷き、ハイネン氏からその素肌に毛皮のショールを掛けて貰う。
マリーは数年前までは父フォルコンの言葉を信じていた。父は娘に繰り返し約束していた。いつか必ずお母さんに帰って来て貰う、そしてまた父と母と祖母とマリー、四人で仲良く暮らそうと。
しかしマリーは少なくとも三年前にはその言葉を信じるのをやめたし、今では全く信じていない。それでも自分の実の母と知らない男性の馴れ初めのようなものを目の前で見せられるのは、複雑な気持ちだった。
「あの……今ニーナさんとお話しされている紳士、あの方はどんな方なのか御存知ないですか」
マリーは先程話し掛けてくれた、芝居好きの老人に尋ねてみる。
「ハイネン氏の事かね? 絹織物や材木を扱うルーデンの大商人だよ、この街にはよく取引で訪れる芝居好きさ。見た目がカエルのようだなんて言う奴も居るが、悪い男じゃないぞ」
「最近ニーナさんとその……仲良くされているという噂も聞いたんですけど」
マリーは先程ユーリから押し付けられたイチゴを老人に勧めてみる。老人は会釈してイチゴを一粒取って口に入れる。
「ふっふ、まあゴシップも芝居見物の楽しみの一つだな。ハイネン氏は仕事一筋の男であの歳で独身、一方のニーナは恋多き女性だという噂だね。まああれだけの醜男と美女では仕方ないと言えば仕方ないが」
まさか目の前に居るのがニーナの実の娘だとは思わない老人は、あっけらかんとそう言った。マリーは別段ハイネンを醜男だとは思わなかったが、世間の評価ではそうらしい。
マリーは再び無人となった舞台を見下ろし、物思いに耽る。
舞台の下ではニーナとハイネンが小声で何事か話している。その言葉はマリーの耳にまでは聞こえなかったが、雰囲気、ニーナの方が積極的にハイネンに話し掛けているように見える。
「誰かが面白く思うかどうかは別として、悪い組み合わせじゃあないと思うがね」
老人は誰に言うともなくそう呟く。それを聞いたマリーは頬杖をついたまま、二度頷いて呟いた。
「ええ。結構な話ですよ」
その時。一階の客席と外の通路を隔てる扉の一つが、そっと開いて行く。
その様子は天井桟敷のマリーからは丸見えだったが、下では誰も気づいていないようだ。そこから忍び込んで来るあの小さな影は、ユーリではないだろうか。誰かの外套を頭から被っているが、足元のキュロットとタイツが時折見えるのだ。
ユーリと思しきその人影は、一階に居る他の関係者やノルデン男爵に見つからないように座席の間に身を潜めながら、ゆっくりとニーナの居る方に近づいて行く。
マリーは思う。まさかあの少年は今マリーが預けた財布をニーナに届けるつもりなのか? 今でなくてもいいと言ってやったのに。
ユーリが一人で買い物や芝居見物を楽しんでいるのは、父親であるノルデン男爵の許可を得てしている事ではないのだろうと思う。実際ユーリは先程、ノルデン男爵に告げ口しないでと哀願していた。
マリーはユーリを何とかして戻らせられないかと思った。しかしユーリはこちらを見上げる様子もなく、少しずつニーナに近づいて行く。
あとはユーリがノルデン男爵に見つからず、無事ニーナに財布を届けてくれる事を祈るしかないか。マリーがそう思った、その時。
ハイネンは背の低い男だったが、155cmばかりのニーナよりは5cm程高い。
そんなハイネンの手が、ニーナの長く美しいプラチナブロンドの髪を抱え込むように、ニーナの向こう側の肩に、そっと……添えられた……
マリーは一瞬赤面し、手で自分の目を覆おうとしたが。
「触んなカエル野郎!!」
突如激昂したユーリは外套を被ったまま身軽な猿のようにハイネンの正面に飛び出し、その向う脛を強かに蹴り飛ばした。
「ひっ……ぎゃああ!?」
「ハイネン様!?」
ニーナには何が起きたのか全く解らなかった。突然ハイネンが悲鳴を上げ飛び上がったのだ。
そしてノルデン男爵はたまたま、その瞬間を完全に見ていた。彼はニーナとハイネンから目を逸らしつつも、二人がどうなるか気になっていて時折密かに視線を送っていたのだ。
「ユッ……」
しかし今その名前を叫ぶ訳には行かないと瞬時に判断した男爵は口をつぐむ。
「な……何だあいつは!!」
一方、男爵と共謀し二人の行方をちらちら見守っていた演出家のダーウィッツは、外套を被りハイネン氏を襲撃した不審者を指差して叫んだ。こちらはそれが男爵の令息だとは思いもしなかった。
不審者、すなわちユーリは外套を被ったまま慌てて周囲を見回す。
衣装係や舞台係、非番の役者に演出家、ここに居る関係者の殆どは男爵の計略の協力者でもあり、今はニーナとハイネンが話しやすいよう、皆二人から離れていた。しかし彼等は今皆一様にユーリの方を向いている。ユーリがこの一階客席のどの出口から逃げようとしても先回りしてそこを塞ぐ事が出来るだろう。
「そいつを捕まえろ!」
ノルデン男爵が何故か黙っていたので、演出家のダーウィッツはそう叫ぶ。
ユーリは絶体絶命の窮地に墜ちていた。
「きゃあああああああ!!」
次の瞬間。ウインダムの歴史ある市民劇場に、天井に反響して舞台に降り注ぐような、甲高い、危機迫る乙女の悲鳴が鳴り響いた。
「助けてぇぇぇぇ何方かぁぁ! きゃああっ!?」
それはマリー・パスファインダー、一世一代の演技、『危機迫る乙女の悲鳴』だった。
その場に居合わせた芝居好きの老人二人は、潮風に鍛えられた声量に圧倒され、半ば腰を抜かしたような恰好で目を見開いてマリーを見ていた。
この隙にユーリは逃げられただろう。マリーはそう思いつつも、念の為、もう一度天井桟敷の手摺りから、そっと顔を出して、下を見下ろした。
関係者達は皆、天井を見上げていた。それは目論見通りなのに。ユーリまでも、先程の場所に留まったまま天井を見上げていた。
「バカッ!? 逃げてよ! 行きなさいよッ!」
マリーは密かに呟きながらユーリに行け、行けと指を振る。
ようやく魚屋の意図に気づいたユーリは、まだ天井を見上げている大人達の合間を縫い、客席の出口の扉の一つへと突進する。
その様子を見たマリーはようやく安堵の溜息を漏らす。しかし。
「……」
次の瞬間マリーは、周りの人々と同じように天井を見上げていたニーナと視線が合ってしまった。
ニーナの目は、それが完全にマリーであると認識していた。