フレデリク「アイマスクをつけた生意気な貴族の小僧? ははは、許してやれよ」
茶虎「いい香りね貴方の毛並み。潮風に磨かれた船乗り猫の香りだわ」
ぶち「……寛いでいる場合では無いのだ、拙者はまた一人歩きを始めた主を見守らねばならぬ」
茶虎「貴方って……もしかしてサムライなの!?」
ぶち「さッ……侍? な、何の事やら解らぬ」
茶虎「やっぱり! 貴方船乗り猫でサムライ猫なのね! 素敵ぃかっこいい!」
ぶち「往来で婦女子がそのようなはしたない、ま、待てッよさぬかッ」
公演は昼からで劇場の正門はまだ開場していなかったが、ユーリは中に入る方法を知っていた。天井桟敷に行ける裏口はこの時間にも開いているという。
「お前田舎者みたいだし、僕が居なかったらこんな所に入れるの知らなかったろ。感謝しろよな」
ユーリはマリーが預けた財布から堂々と銀貨を6枚出して裏口の改札係に渡す。ぐうの音も出ないマリーは相槌を打ってついて行く。
「確かに私一人じゃ入れなかったですね、坊ちゃんのおかげですよ」
天井桟敷は舞台から一番遠い吹き抜けの天井近くの席である。役者の顔が見えず台詞も聞こえない事もある。しかし値段は安いので同じ芝居でも毎日観たい常連や、金は無いけど芝居を観たい者などには愛されている。
舞台は一周全てを客席に囲まれていた。一階席の客は舞台を少し下から見上げる格好になる。二階席、三階席は天井桟敷同様、吹き抜けの周りのバルコニーのような席だ。三方の壁にはいくつもの採光用の窓がある。
そして舞台の中央には今まさに、マリーの実の母ニーナが立っていた。古代グース風の舞台衣装を身に着け、手にした本を朗読している。
劇場の採光は巧みな物で、日が出ている時間ならどこかの窓からの光が、10m四方の舞台のどこかに当たるように出来ている。そして演者はその光の当たる所に立ち、それを利用して演じるのだ。
ニーナの美しい白金色の真っ直ぐな長い髪が、薄暗い舞台の中に浮かび上がるように輝く。
「ああ……」
桟敷の手摺りから舞台を見下ろしながら、マリーは溜息をつく。
「……お前、ニーナさんのファンなの?」
「えっ? え、ええ……あの髪は綺麗だと思いませんか坊ちゃん……どうしてニーナさんはソフィちゃんにもあの髪をあげなかったのかなあ」
「何言ってんだお前。あと坊ちゃんはよせよな、ユーリでいいよ。お前年上だろ」
ユーリはそう言って巾着のイチゴを一つ取り出して房ごと食べ、マリーにも勧める。
「どうも」
マリーは礼を言って巾着から一つイチゴを取って食べる。それはよく考えたらマリーの金で買ったものなのだが。
「……後悔しないかとおっしゃいますのね。私、絶対に後悔する自信がありますわ。ここに踏みとどまる事が出来るのなら、貴方のその偽りの笑顔と、憐憫を籠めた優しさを、一時は私の物に出来るのですもの」
ニーナは本を読む芝居をしているのではなく、台本を持ったまま練習をしてるらしい。そしてこの芝居は何かドロドロの愛憎劇を描いたもののようである。
舞台にはもう一人、小太りの男が立っている。マリーは最初それを相手役の俳優かと思ったのだが。
「ここはやはり相手の顔を見ないで喋るべきだな。いや、背中を向けるんじゃない、体は前を向いて、目線は逸らして。そう」
田舎者だが知識では芝居を知っているマリーには、それがこの芝居の監督か演出家なのだと解った。一階の客席には他にも数人の男女が居るが、あれも皆客ではなく他の俳優や衣装係、舞台係などのようだ。
天井桟敷に居るのは自分とユーリの他、二人の老人だけのようだ。一人は近くに、もう一人は割合離れた所に居て、芝居の練習を見下ろしている。
その、近くに居た方の老人が、マリーの視線に気づいたかのように振り向き、溜息をつく。
「ここの天井桟敷に若い人とは珍しいね。ここは寂れてしまったよ。無理も無い、下町の方じゃもっと派手で解りやすいやつを演ってるからな。近頃じゃ貴族達も馬車で向こうへ行くんだ」
マリーがそれに答えようとする前に、マリーの向こうに居たユーリが二人の間に割り込んで来る。
「そんな事ないよ! 幽霊船だの竜退治だの、あんなおもちゃみたいな話みんなすぐ飽きるに決まってらあ!」
「や、そちらはユーリ坊ちゃんだったか、これは御無礼仕った」
「いちいち坊ちゃんとか言うなよ、まったく」
元の場所に戻って行くユーリを見送ってから、老人は声を落としマリーに囁く。
「たいしたもんだよなあ? 男爵家の跡取りにしておくのは勿体ない、ホッホ」
老人は静かに、そっとユーリを指差す。マリーは横目でユーリを見る……良く見ればユーリは舞台を凝視しながら小さく唇を動かしている。マリーが耳を澄ますと、それはどうも芝居の台詞のようだ。
マリーは再び桟敷の手摺りから顔を出して舞台を眺める。
自分を産んだ時、母ニーナは20歳ぐらいだったはずである。そして今は35歳くらいのはずだ。
母は自分が5歳の頃にヴィタリスを出て行き、少し後には内陸に200km以上離れたミレヨンという大きな町に移り、やがてそこで再婚したと聞く。
ミレヨンに移り、生活が変わり、その後縁があって結婚してという順序で考えれば、ソフィの父はその時ミレヨンで連れ添った男性だと考えるのが自然だろう。
では何故今、母はミレヨンから遠く800kmの彼方にあるウインダムで役者などしているのか? 娘のソフィも連れて……風の噂で聞いた範囲では、母の再婚相手は高齢の金持ちであったと聞くが。
マリーは手摺りに顎を乗せ、考え込む。
その脳裏に、あの夜見た母の姿と声が蘇る。
『私も決して楽じゃないのよ、これが本当に、今の私が自由に使える分の全てなの。だから御願い、これを持って立ち去って』
もう一つ母について、マリーが割合最近耳にした新しい情報がある。マリーは舞台から目を離し天井を見上げて考える。あれはマリーが父フォルコンの訃報を受け取り遺品を引き取るつもりでレッドポーチを訪れた時の事だ。
『はっ、母が居ますから! 離婚してるけど今でも母ですから! 今もこの町に』
マリーの母ニーナはレッドポーチ出身だったので、マリーはそれでしつこいトライダーを誤魔化そうと思いそう言った。しかし。
『君の母上なら今は王都に居られる! 安心しなさい! 君の行く先も王都なんだ! 母上に会える日もきっと来る!』
トライダーはそう答え、マリーの追跡を続けた。
その時は他の事で忙しく、マリーは深く考えないようにしていたのだが、最近の情報と今起きている事を考えるとどうもそれは正しかったらしい。あの時、ミレヨンで再婚していたはずのニーナは何故か王都に居て、トライダーはその事を知っていたのだ。
つまり、どういう事か。
それはニーナのミレヨンでの婚姻が何らかの理由で破綻した事を示しているのではないだろうか。
「貴方の愛を失う事を、私がどんなに恐れているのか貴方には理解出来ませんわ! 例え偽りの愛でもいい、貴方が微笑んでくれるのなら、私はそれを守る為なら鬼にだってなれる、そう信じて参りました……」
マリーの意識がニーナの演技に戻る。マリーは思う。この芝居はどんな話なんだろう。あまり母ニーナの好みの話とは思えないが……そしてユーリ少年は本当にこんな話が好きなんだろうか?
マリーがそんな事を考えた、その時だった。
「やあ、おはようございます皆々様! ああ結構、私と私の客人にはお構いなく、稽古を続けて頂きたい。あー、ダーウィッツ君ちょっといいかね」
一階の閉ざされていた正面玄関が開き、プールポワン姿の男性が数人の伴を連れて現れる。