バイエンス「算術の時間ですぞ! 坊ちゃまはどこです!」ソフィ「あ、あの……その……」
町の治安を守る近世の衛兵さん。王様からのお手当てだけでは飯が食えません。大きな街は物価も高いんです。
そこでどうするかというと、街の商人や職人から私用の仕事を引き受けたり何かのお目こぼしをしたりする代わりに、袖の下をいただくそうです。賄賂は悪いという感覚が無い訳ではないのですが、それが普通だったとか……
それはまあ町役人などの話で、軍艦の艦長さんなどにはそんな人は滅多に居ないとは思うんですが。
マリーはノルデン男爵邸の通用口を出て扉を閉める。それでいいのか、とでも問いたげに、ぶち猫はマリーの顔を見上げる。
「これで十分ですよ私は、さあ昼前には帰らないと……ああ危ない、鼻血が出るとこだった」
マリーは左手で四尺棒を担ぎながら右手で鼻を押さえ、顔を上に向けて横目でぶち猫を見ながらそう呟く。そこへ。
「あっ、あいつだよ衛兵さん、あれが怪しい奴だ!」
小路の入り口の辺りでさっきのとは別の衛兵の、袖を掴んで引っ張って来た小柄な男が、マリーを指差して叫ぶ。男は駕籠を吊るした天秤棒を担いでいる……どうやらこの辺りを縄張りにしている本物の魚屋らしい。
「あんな奴はこの辺じゃ見た事ないぞ、きっと魚屋のふりをした空き巣だ!」
「待てー、そこの小僧ー」
普段ささやかな袖の下を受け取っている衛兵にとっては、これは面倒でもやらなくてはならない仕事だった。胴鎧をつけ大兜をかぶった衛兵は、あまりやる気の無さそうな声を上げ、すばしっこそうな小僧に向かって走り出す。
マリーもすぐ、小路の反対側を向いて黙って走り出す。昔から風紀兵団に追われて逃げ回っていたマリーには、衛兵から走って逃げるという事に対する罪悪感がほとんど無かった。
◇◇◇
衛兵の姿が見えなくなるまでそこらじゅうを走り回り、暫く路地裏に身を潜めた後で人通りの多い商店街に戻って来たマリーは、道端のベンチに腰掛けて一息つく。
猫はまだ二匹ついて来ている……フォルコン号のぶち猫と、早くからついて来ていた赤茶虎の猫……一体この赤虎の方は何の用があってついて来ているのか? 魚を切って見せても食べようともしないのに。
ぶち猫は先程の屋敷でも鰯を追い掛け飛んだり跳ねたりした上にこの追跡劇という事で、少し疲れたのか。マリーが座ったベンチの前でゴロリと横になる。
するとどうだ。赤虎はぶち猫の後ろからスッとすり寄ってぴったりとくっつき、ぶち猫の耳の後ろからペロリペロリと、毛繕いをし出す。
「ありゃりゃ、そういう事ですか。よく見たら可愛い女の子猫じゃない」
驚いたぶち猫はマリーに向かい何か言い訳するかのように目を見開き半身を起こそうとするが、他でもないマリーの手で再びコロンと寝転がせられる。
「私ちょっとそこで水を飲んで来ますから、この駕籠でも見張ってて下さいよ。ごゆっくり」
マリーはそう言って四尺棒と謎の深海魚一尾と少々の痩せ鰯しか入ってない駕籠を置いたまま、その場を離れる。
「ニャゴォ、アァオ」
「ゴロロロロ……ニャアン」
ぶち猫はマリーの背中に呼び掛けるが。マリーは振り返りもせず、ぶち猫と喉を鳴らして甘えるなかなかに器量良しの赤虎の雌猫を置き去りにして、すたすたと歩き去る。
周囲は裕福な貴族と市民の為の商店街という様相だった。旧来の支配層である貴族と、香料などの貿易によって発生した新富裕層が交わる場所。マリーの目には、この辺りはそういう場所に見えた。
その場所にその建物はあった。周囲の四階建ての住宅と並ぶ高度な高層建築、しかしその中は巨大な吹き抜けになっているらしい……そう、表の案内図には書いてある。
劇場の正面入り口の小脇では屋台の果物屋が水で割った果実酢を商っている。だいぶ喉の渇いていたマリーはそこへ吸い寄せられて行く。
「お姉さんそれ二杯おくれ」
「はいよ……あんた、猫に魚の番をさせていいのかね? あれ」
「今日はいい商売が出来ましてね、残りはもう猫も食べない痩せ鰯だけっスよ。かー! うまい!」
マリーは一杯目の果実酢を一気に飲み干し、空になったタンブラーを店主に突き出す。店主は柄杓で二杯目を注いでやる。
二杯目はゆっくり飲む事にしたマリーは辺りを見回す。
「さすが世界一の商都、立派な劇場っスね」
「うーん。町じゃ一番古いんだけど、最近じゃ新興劇場に客を取られっぱなしだよ。あたしゃ中に入った事無いから知らないけどね」
「ええっ、目の前で商売してるのに入らないんスか、ここのお客さんだって芝居の客が多いんじゃ」
「ふふ、そうさ、あたしが売ってる果物や果実酢はお客さんが持って劇場に入るけど、売ってるあたしは入った事が無いんだよ」
30絡みの屋台の店主の女性は、ごく庶民的に見えるマリーに気を許し耳元で囁く。
「お高いんだよここは、一番安い席でも銀貨3枚取るし、それで見せる芝居は辛気臭い道徳劇に受難劇だもの……ま、貴族や大店の旦那衆はそれでいいらしいけどね、あたしはお金出すならもっと面白いのを観るよ」
「あはは」
マリーは二杯目の果実酢をいただきながら頷いていたが。ふと目を上げた時に、目線に入った何かに気を留める。今、近くの小間物屋の店先で誰かが取り出した巾着。あれは自分が作った物に似てないか?
二目と見返したマリーはその巾着の持ち主に気付いた。ノルデン男爵の屋敷にソフィと一緒に居た、ユーリという男の子である。
マリーは反射的に、何気ないふりをしながらタンブラーを手に果物の屋台の物陰に隠れる。店主の女性も特に気にはしなかった。
ユーリは小間物屋で何か買い物をしていた。あの小間物屋もこの劇場の関連施設なのか、売り棚には芝居見物用品やお土産のような物が多い。
ユーリが購入した物は羽根のアイマスクのようだ。そしてその代金は、当たり前のようにマリーが渡したあの青い巾着から支払われた。マリーは眉間を抑える。
小間物屋で支払いをしたユーリは手に入れたアイマスクをすぐに付けた。そして今度はこの果物屋の方にやって来る。
「コホン。そのイチゴを篭ひとつ貰おうかな。あの。金ならあるからな。銀貨2枚だよな? ほら。あるだろ?」
その少年、ユーリは堂々と青い巾着から銀貨を2枚取り出して果物屋の店主に渡す。店主は銀貨を受け取り、篭一杯分のイチゴをユーリが広げた別の生成り色の巾着の中に入れてやる。
「デザート用のイチゴです、それはもう最高の味わいを保証しますよ、坊ちゃま」
「坊ちゃまはよしてよ、俺は一人前の男だぞ」
「ずいぶんたくさんお小遣いを貰いましたね? ノルデン男爵様からですか?」
「あ? ああー。親父ね、親父もそろそろ俺の実力を認めてくれたんじゃないかな……そのリンゴジュースもちょうだい」
ユーリはリンゴ酢の水割りの五倍の値段の、ストレートのリンゴ果汁にはちみつを加えた高価なジュースを注文し、タンブラーから一気飲みする。
「これっぽっちで銀貨1枚かよ。もう一杯おかわり! 足りないよこんなんじゃ」
マリーはそこで物陰から立ち上がる。
「ソフィーちゃんのお母さんに渡してくれって、私そう御願いしましたね? そしたら貴方何て答えました?」
「ヒエッ!? さ、魚屋、何でこんな所に!?」
マリーは少年が後ろを向くより先に、その奥襟を掴んでいた。マリーの故郷ヴィタリスの農園主ジャコブが、彼の息子サロモンを捕まえる時に使う技である。
「私が預けたお金でリンゴジュースを飲みましたね貴方! 貴方のお父さんはそういうのを何と言うんでしょうね!」
「ま、待って! ジュースを飲んだのはその、喉が渇いて仕方なかったからで……だけどソフィのママはこの中に居るんだぞ、そ、そうだ、僕がここに来たのはお前の為なんだぞ!」
「ええっ!?」
マリーは慌ててユーリの襟から手を離す。気を取り直したユーリは服の裾を引っ張り直すと、胸を張って言う。
「それを何だい泥棒扱いして、喉が渇いたのだってここまで走って来たからなんだから。失礼しちゃうよ」
マリーが預けた財布から出したお金で買ったアイマスクをつけたまま、ユーリ少年は腕組みをしてそう言った。