マリー「ヴィタリスに帰ったら魚屋を始めようかしら」
また一人でふらふらと飛び出して行くマリー、またマリーを止められない乗組員達。
計画が甘いのか? ほうれんそうが足りないのか?
ちょっと三人称での話が続くみたいです、戦闘シーンでもないのに……
ごめんなさい。
場外市場で四尺棒と駕籠を買い、さらに痩せた鰊に鯛、網にかかってしまった名前も知らないギョロ目の深海魚などを買い込んだマリーは、まるで郊外の村に魚を売りに行く小商いの魚屋のような姿で、ふらふらと夜明け前のウインダムの大路を歩いて行く。
マリーの後ろをついて行く猫はいつの間にか三匹になっていた。
最初から居た方のぶち猫は他の二匹の猫を時々威嚇するが、もう一匹のぶち猫と赤虎猫は気にする様子もなく、マリーが片担ぎにした四尺棒の先の駕籠に熱い視線を送りながら、とことことついて来る。
ウインダムはたくさんの水路と橋で出来た町で、袋小路のような場所は少ないのだが、あまり都会馴れしていないマリーに何度か道を間違わせるくらいには複雑だった。
高度に開発された町には道幅が2m無い路地もある。両側には二階建て以上の建物が立て混み、一日中陽が差しそうも無い道だ。だけどそんな道にも小さな商店や食堂が建っていて、朝から結構な客が入っていたりする。
「ちょっと坊や……ありゃ女の子の魚屋さんかい珍しいね、それを見せておくれ」
「ああ女将さん、私この辺りじゃモグリなんです、ご勘弁を」
「構うもんかい、こっちも忙しいんだ、さあ早く早く」
そんな食堂の女将に少し強引に呼び止められたマリーは、足を止め三段構えの駕籠を広げてみせる。
「へー、その大きいのは噂の極光鱒かい? どこの身だろうこれは」
「カマの部分ですよ、こうして切り取って、鶏肉みたいに炙るんです」
マリーは持っていた小さなナイフでそれを切り取って見せる。
「姐さん、そのパスタはもう茹で上がったんじゃないのか、俺ァもう腹ペコでよ」
「ああ今行くよ! ちょっと魚屋さん、それ丸ごとうちで買うから下拵えをしてくれないかい?」
女将は客に呼ばれて竈の方へ飛んで行く。
幅2mも無い路地に、間口は10mはあるが奥行きは2mしかない、客席も調理場も一緒くたのぎゅうぎゅうのその食堂は、朝からよく繁盛していた。
マリーは軽く相槌を打ち、大きな極光鱒のカマから、脂の乗った身を切り取って行く。
「魚屋よう、ずいぶんたくさん猫を連れて来たなァ。ハハハ」
別の客がマリーの周りで輪を作っている六匹の猫を見て笑う。猫は実際には全部で七匹居るのだが、額に小さな三日月傷のあるぶち猫だけは、他の猫から少し離れて遠巻きにマリーを見ていた。
「ウインダムは猫も目聡いっスね。さすがは世界一の商業都市ですよ……ああ女将さん、ここの炭火で炙っていいスか」
「悪いね、助かるよ! さあパスタのお客さんは何方だったかね、熱いうちにお食べ!」
「その極光鱒の炙りを乗せてくれよ」「こっちもくれ!」「俺は二切れ!」
マリーが串を打って炭火の上で炙り焼きにしている極光鱒のカマの身から、脂が滴っては炭火でバチバチと音を立てて弾ける。またその脂が滴る度に炭火からは微かな黒煙が立ち昇り、脂ぎった極光鱒の身を燻す。マリーは程よく摘まんだ塩を振り掛けながら、串を回して極光鱒の表面を丁寧に炙って行く。
女将はマリーが炙る極光鱒のアラの身に降り注ぐ男達の熱視線を見て、頭の中で今日のこの特別メニューの値段を上方修正する。
「若いのにやるじゃないか、あんた」
海千山千の食堂の女将は、そう言って肩を揺らしてほくそ笑む。
◇◇◇
思わぬ時間を食ったものの、食堂を離れたマリーはようやく本来の道を見つけ元気よく歩いて行く。先程の食堂で極光鱒のアラの残りを切って置いて来たので、付き従う猫は二匹に減っていた。
東の空がどんどん明るくなって行く。太陽の姿はまだ見えないが、町を行く人の姿も増えて来た。
そして午前8時、街の教会が方々で鐘を鳴らすと、商人や職人、人足や給仕、様々な職業の人々が一斉に動き出す。
冬至を少し過ぎたウインダムでは日の長さが8時間も無いのだ。この町の人々は日の出を待ちきれずに起き出し、日の入りを惜しんで働く。
やがてマリーの行く手にウインダムのお屋敷町が現れる。
昨日は立派な服を着て馬車で通ったので何も意識しないで済んだが、徒歩で通るとなるとどうか。
勿論貴族の街だから貴族しか歩いてないなどという事はなく、むしろ歩いているのは女中や庭師、馬子が殆どで、ジュストコールを着てステッキを突いて歩いているような者は見られない。
とは言えここは外国人水夫がふらふら歩いていていい場所ではない。大きな辻には衛兵が居て、不逞の輩が歩いてはいないか、きちんと目を光らせている。
しかしその衛兵は、猫を四匹も引き連れた魚売りの小娘に気を留める事は無かった。
マリーがノルデン男爵の屋敷の前に着いても、太陽はまだ昇っていなかった。
ぎゅうぎゅう詰めの職人街などと違い、この辺りの屋敷は広い敷地を塀や建物で囲ったゆったりとした構えになっている。
マリーは目を細めて素早く辺りを見回し、自分に人目が向けられてない事を確認すると、何気ない素振りで屋敷と屋敷の間の小路の方へ曲がる。
ちょうどそこへ、小路の向こうから大兜を被った衛兵がやって来る。マリーは一瞬戸惑ったが、慌てて引き返すのもまずいと思ったのか、素知らぬ顔でそのまま歩いて行く。
「獲れたてのー魚でござーい。魚でござーい」
それが彼女が考える魚屋風の声なのか、マリーは濁声で左右の屋敷の塀に向かいそう声を掛けて、そのまま小路を歩いて行く。
向こうから来る衛兵は、特に気に掛ける事もなく、マリーとすれ違うかのように見えたが。
「ちょっと待て、そこの小僧。この辺りじゃ見ない顔だな? いや……どこかで見た顔のような気もするんだが」
マリーはぴくりと震えながら立ち止まる。
「見たり見なかったりするような顔っスか? どっちなんです、もう」
「見た事があるんだが思い出せない顔だ……お前本当に魚屋なんだろうな」
マリーは担いでいた四尺棒をサッと降ろし、三段重ねの駕籠を解く。
「ハーリングは如何っスか? 今朝早く塩を振ったばかりの浅漬かりですけどそろそろ行けるかと、冬の鰊も脂が乗っていいもんですよ、極光鱒のスモークの切り身もあります、こいつはエールにもはちみつ酒にもぴったりなんです」
「待て待て、確かにお前は魚屋だ、呼び止めて悪かった」
魚を買わされそうになった衛兵は慌てて手を振り、その場を立ち去る。マリーは残念そうな顔をして見せるが、次の瞬間には横を向き、してやったとほくそ笑む。
小路の途中にはノルデン男爵邸の通用口があった。こちらは正門と違い門番の姿もなく、扉も簡素な引き戸になっていて施錠されている様子も無い。
立ち去る衛兵の後ろ姿を見ながら、マリーは駕籠の周りに集まった五匹の猫を牽制しつつ四尺棒を担ぎ直して、ノルデン男爵邸の通用口の方へと歩いて行く。
その時である。ノルデン男爵邸の通用口の反対側、向かいの屋敷の通用口の扉が開き、その屋敷の女中らしい中年女性が顔を出した。
「魚屋さん! いい所に来たね、ちょっと見せておくれ!」
あと少しでノルデン男爵邸に忍び込む所まで来ていたマリーは、しどろもどろに答える。
「えっ、あ、あの、私配達の途中なもんで、あまりお時間をその、差し上げられないんですが」
「今そこで商売してたじゃないか、いいからおいで!」
先程の衛兵は立ち止まって振り返り、六匹の猫を引き連れた魚屋が女中に腕を掴まれて勝手口から屋敷に引きずり込まれるのを見送っていた。