猫「やれやれ。いつまでも惰眠を貪っている訳にも行かぬようだ」
実の母との再会はマリーの思惑通りには行かなかった。
最初も二度目もマリーは何故か母にみすぼらしい姿を見せてしまった。
その結果? 母は娘が物乞いに来たのだと思ったのか?
この話、まだまだ予断を許しません。
マリーとニックを乗せた二輪馬車は、フォルコン号が停泊しているハズレ桟橋近くの波止場に辿り着いた。
「ありがとうございました。縁があればまた御願いします」
マリーは馭者に約束の料金の残りを支払い、馭者は礼を言って馬車を駆り帰って行く。
二人は長い浮き桟橋を歩いてフォルコン号が停泊している錨地へ向かう。時刻は既に午後八時頃という事もあり、桟橋にほとんど人気は無かった。
しかしフォルコン号では乗組員全員が二人の帰りを待っていた。ニックはフォルコン号の波除板から顔を出した仲間達の顔を見て息を飲み、冷や汗を堪える。
オレンジ色の仕立ての良いジュストコールとキュロットに身をつつみ髪の毛をきちんとセットして、お供の不精ひげに大金を持たせて意気揚揚と出掛けて行ったマリー・パスファインダー船長は、ぼろぼろのサイズの合わない男物のチュニックを着て靴も履かずぼさぼさ髪で、フォルコン号に帰って来た。
「これ? ちょっと水路に落ちましてね、相変わらずのドジで参っちゃいますよ。何でそんな遠くに居るんですか不精ひげ、こっちに来て下さい」
艦首舷門と浮き桟橋をつなぐ渡し板を渡ったマリーは、集まった皆にそう言って力なく笑う。
ニックはマリーから5mくらい離れた後ろに居たが、マリーの手招きに応じ荷物を持って恐る恐る近づいて来る。
「みんなにお土産ですよ! ロイ爺と太っちょとアイリさんには生地です、後でどんな服にするか相談しましょう、ウラドはミンクのキャップ! 絶対似合うから寒い時に被って下さい、ほら耳当てもついてるやつ!」
マリーはニックに持たせた袋から生地を取り出して見せ、ウラドにはその高価なもふもふの毛皮のキャップを渡す。
「カイヴァーンには格好いい短銃があったから是非と思って買ったんだけど、それを水路に落として無くしちゃったのよ……ごめんねカイヴァーン、この様に免じて勘弁して、また今度何か買って来るから、アハハ」
マリーは歪な笑みを浮かべて皆を見回し、自ら何度か頷いて、それから溜息をつく。
「船酔い知らずの魔法抜きで真冬の水路に落ちるのはキツいよ……夕食には外で極光鱒のシチューをいただきました。疲れたので今日はこれでお休みさせていただきます。ごめんロイ爺、後は御願い」
マリーはそう言って艦長室に消えて行った。甲板には猫を除くフォルコン号の全員が集まっていた。
アイリは目を伏せると、腰に当てていた右の掌を上に向け、ほんの少し意識を集中する。するとその長く滑らかな人差し指の先に、燐火のような青白い小さな炎が魔法のように現れる。
ニックは飛び退こうとしたが、彼の左右はアレクとカイヴァーンに、背後はウラドに囲まれていた。
「ちょっと……会食室にでも行きましょうか」
アイリはその青白い炎で無表情な自分の顔を下から照らしながら呟く。
「いや話すから! 何でも話すから!」
ニックは冷や汗を垂らし小声で応える。
◇◇◇
ニック、ロイ、アレク、ウラドのリトルマリー号からの水夫に、マリーが来てから仲間になったアイリとカイヴァーン。会食室には再びマリーを除く全員が集まった。今度は最近ずっと会食室で寝起きしているぶち猫も居る。
そしてテーブルに置かれていたのは暖かいお茶のポットだった。
ワインもエールも無しで、ニックは自分が見て来た事をつぶさに皆に伝える。マリーは今日一日、この町で自分の名前を売ろうと躍起になっていた。救貧活動に多額の資金を提供し商店街では景気のいい所を見せつけ、夕方には地元の旦那衆のクラブにまで潜り込んで大いに顔を売ったと。
「マリーはどこへ行ってもすぐその町の懐に飛び込んでしまうんだよね……ディアマンテで一級品のワインを大量に買い付けて来た時も驚いたけど、どうしたらあんな真似が出来るんだろう」
ニックの話を聞いたアレクは、肩を落として呟く。
リトルマリー号は今年の初めに船長のフォルコンを失い、その後暫くはフォルコンを探す為右往左往の航海を続けていた。その間も自分達の生計を立てる為商売を続けていたのだが、あまり上手くは行かなかった。
商売が回り出したのはマリーが来てからだ。オレンジの急送で大金を当てたのを皮切りに、海賊退治の報奨金を貰ったり、商売敵との共闘を成し遂げたり、寂れていた航路を復興したりして、船と商会の金庫は以前と比べると大変に潤っている。
「でも急にそんな事始めたって事はさ、パスファインダー商会の商会長をもう暫く続ける気になったって事かな?」
カイヴァーンは皆を見回し、同意を求めるように問い掛けるが、これにはウラドが軽く頷いただけだった。
今日も議長格のロイは首を傾げながら応える。
「そういう事ならいいんじゃが……それでニック、船長があんな恰好になったのは何故じゃ」
「水路に落ちたのは本当だよ、落ちたんじゃなく降りたというのが正しいけど」
ニックはさらに、店からの帰り際に教会の前を通った時の出来事を説明する。水路に落ちた子供を助ける為、マリーがすぐに水路に入った事を。
「それじゃあ、また人助けをしてたのねマリーちゃんは」
そこまでずっと腕組みをしてニックを凝視していたアイリは、深い溜息をついて天井を見上げる。
ウラドも今度は深く頷く。
「それであのような服を、教会で借りて着ていたのか」
「涙目に見えたのは寒かったからかしらね……そりゃ寒いわあ。マリーちゃん、今は何か暖かい物を持って行ってあげなくていいのかしら?」
「俺も船長も、教会で炊き出しの極光鱒のアラのシチューをかなりいただいたんで、腹は一杯だと思うよ、本当に」
皆の間に安堵の溜息が広がる。
「それでどうしよう。明日は予定通り出港する事になるのかなあ」
「何かが解決した訳ではないようじゃな……しかしこれ以上時間稼ぎの手も無い」
「あーあ……姉ちゃん、本当にこの船を降りるのかな……」
「それはその……船長が降りたいと希望しているのなら、そのようにさせてやるべきでは……」
「青鬼ちゃん! 貴方寂しくないの、マリーちゃんが居なくなったら!」
緊張を緩めた他の五人を見て、ニックももう大丈夫かと見て取り、会食室の壁に掛けてある水夫の私物を入れた袋の中からエールの瓶を取り出し、木の栓を引き抜きながら呟く。
「ああ……それから何とか男爵って人の屋敷へ行ったっけ」
アレクはタンカードを、カイヴァーンは水差しを調理室の方から持って来て、その中身の赤ワインを四人分注ぐ。
アイリはそれとは別に一人分の温めた赤ワインのカップを持って来て、ロイの前に置きながら、ニックに問い掛ける。
「何とか男爵? また貴族?」
「うん……旦那衆のクラブでその名前を聞いてマリー……船長が気にしてたんだ。あれは何でだっけ、ああ、あとどこかで聞いた事のあるような名前が出て」
ニックは天井を見上げながら、古びたエールの瓶に直接口をつけ一口飲む。
「思い出した、リーヤ・ラフランスだったかな……違う、ラグランジュだ。どっかで聞いた名前なんだけど、思い出せなくて」
「……リーヤって、昔マリーちゃんが私の為に考えた偽名じゃない。結局使わなかったけど」
「ああ、あれか! ははは、どうりで思い出せない訳だ」
「それでそのリーヤがどうしたのよ、不精ひげ」
「そのリーヤさんって人が何とか……ノルデンだ! ノルデン男爵って人の家に逗留していると聞いて、船長が会いに行くと言い出して」
ウラドとアイリも一口ずつそれぞれの赤ワインを飲んだ。続いて席に戻ったアレクとカイヴァーンも。
ロイはまずは、アイリが温めてくれたワインの香りだけを楽しんでいたが。
「はて……しかしそのリーヤさんというのは誰なんじゃろう」
「ああ、船長はウインダムに居るかもしれない遠い親戚だと言ってたな」
「親戚? フォルコンに親戚が居ったのか……しかもウインダムに……?」
ロイは静かにカップを傾け、温かい赤ワインを一口含む。
ニックはエールの二口目を飲むと、思い出したように言った。
「ああすまん、リーヤさんじゃなくてニーナさんだ」
「ごふッ!?」
その名を聞いた瞬間、ロイは激しくむせる。アイリはすぐにロイに駆け寄り、その背中を撫でる。
「大丈夫!? お爺ちゃんしっかりして!」
「とし、ゴフッ、年寄り扱いせんでくれ……ゴフッ……不精ひげ! お主何故それを最初に言わん、フォルコンと別れて家を出て行ったマリーちゃんのお母さんの名前がニーナじゃ! リトルマリー号から持って来た望遠鏡にも刻印があるじゃろうが!」