深見先輩は病気だ
ずっと。
ずっと前から、先輩が病気だと思うと同時に、考えることがあった。
私に、そんな風に愛される価値は無いのだと。
自分の事を上手く理解できず、立ち振る舞いを間違え親に気持ち悪がられた幼少期。目を閉じれば瞼の裏にある、私に怯える親の顔。心はそれと乖離した、罵詈雑言。
それを見て、聞いてからなのか。どこか私の心は死んでいる。
それが、一瞬で死んだものなのか、じわじわ今もなお死んでいっているのか、それすら分からない。
けれど、確かなことは、私が普通じゃないことだ。普通に人と生きられるわけがないことだ。
完全に、死んでいれば、まだ普通を装って生きていられた。
なのに、中途半端に心が死に切らないせいで、相手に対して何かしらの感情を抱き、勝手に疲労を覚える。
「小さい頃から、生まれた時から、私は人の心の声が聞こえます。想いの強さで大きさは変わり、大体教室くらいの範囲の中なら、壁やカーテンに仕切られていても、誰が何を思っているか、全部分かるんです」
押し黙る深見先輩の目を見て話す。深見先輩の心にある私を破壊して、ぐちゃぐちゃに押し潰すように。そうして、見るのも嫌なものになり、最終的に捨て消えるように。
心が読めたまま、気にしなければいい。聞こえないふりをすればいいのに。ずっとそれが出来ないまま、今を生きていた。雑音が煩わしくて、死にたくなる。なのに、死ねない。何度も飛び降りようとしたけれど、死ねず、ただ今死なないというだけの状態で、ここにいる。
深見先輩は病気だと思う。でも、聞きたくもない呪いの言葉や罵倒の声を聞き、耳を塞ぎたくなる様な残酷で低俗なものを耳にして、生きているだけで消耗するような世界の中、深見先輩の病気みたいな大きな声は、確かに救いでもあった。
だから、その分、私は深見先輩の心の声に肯定される度、苦しかった。
深見先輩は、いつだって、ただ私の存在を肯定し、私を求めていた。その度に、生きていてもいいんじゃないかと思ってしまう自分がいて、どうしていいか分からず、どうにかなりそうだった。
深見先輩は実直で誠実で、心が優しい。私は、歪んでいて、ひねくれていて、人に対して、ちっとも優しくなれない。病気だけど、私と比べものにならないくらいまともだ。私みたいな人間を好きになって、人生を棒に振っていい人じゃない。
深見先輩が私を好きになったきっかけは、本当に、誰でもいいようなものだ。それなら、私じゃなくていい。私じゃないほうがいい。
目の前の先輩は、ただじっと黙って、私を見ている。先輩の瞳には、今私はどんな風に映っているのだろう。……きっと、それはそれは、醜く映っているに違いない。
「先輩が中二の頃に会ったあの時も、聞こえていましたよ、先輩の心の声が。万引き犯の声も。だからあの時先輩が万引き犯じゃないと言ったんです。先輩を信じたわけじゃありません。それにあの時、結局先輩の鞄から、商品なんて出るはずなかった。だって盗んでいないのだから。……だから、私があの時、先輩を放っておけば、こうはならなかった」
「それは」
「ごめんなさい、先輩。先輩の好意、こんな化け物が盗み聞きしていて」
こんな化け物に恋をしたことなんて、はやく忘れて、違うところを見て、私の存在なんて、消してくれ。
「今日は本当にありがとうございました」
「君のことが、好きだ」
礼をして、踵を返そうとした瞬間、また手首を掴まれる。
(好きだ)
(好きだ)
(ここで離しちゃいけない)
(いなくならないでくれ)
(鏡花)
(鏡花)
「やめて」
濁流のように、耳に流れ込んでくるのを止めるように頭を振り払う。町の歩道の真ん中で、車もバスも人も行き交っているのに、先輩の声しか聞こえない。
(自分を化け物だなんて言うな)
(そんなに追い詰められて、今までどんなに悲しい目に遭ったんだろう)
(傷つけられてきてしまったんだろう)
(苦しかったよな)
(悲しかったよな)
(辛かったよな)
(悲しい)
(鏡花が傷付いていて悲しい)
(辛い)
(俺は鏡花が大切だ)
(愛してる)
(守りたい)
(笑顔が見たい)
「離してください……」
お願いしているのに、先輩はじっと私を見たまま、涙を流している。つられたみたいに私からも涙が出て来て、止まらない。
「君のことが好きだ」
「黙れ……」
「君を守りたいと、ずっと思っていた」
「さわるなっ」
腕を引かれ強く抱き込まれる。心臓の音と共に、どんどん先輩の声が溢れてくる。
「君は確かに、あの時俺の声を聞いて、俺が盗んでいないと分かっていて助けてくれたのかもしれない。でも、あの時俺を助けようと選んだのは君だ」
(好きだ)
「今日、残ったのだって、俺の心をずっと聞いていたのに、君は俺を助けに来てくれた。それを、優しいと言うんじゃないのか」
(好きだ)
「君は、校門に立つ俺に、いつも、挨拶を返してくれた。心の声が聞こえていたなら、無視をしても良かったのに」
(君だけがいればいい)
「君が、俺の傍にいて、俺の心の声を聞くのが辛いなら、いくらでも離れる。でも、俺の為を想っての行動なら、俺の傍にいてくれ」
(愛してるんだ、鏡花、ずっと君だけを)
「……気持ち悪く、ないんですか」
「俺は、言葉が得意じゃない、どう話していいか分からなくなる。だから、君に分かってもらえるのは、恥ずかしいけれど、嬉しい」
(それに、両方で伝えられる、沢山愛を伝えられる)
(愛している、鏡花)
もう、どっちが先輩の発している声なのか、心の声なのか。分からない。先輩の心臓の音に重なる様に、自分の心臓の音が聞こえる錯覚すら、感じてしまう。
「本当に、病気ですよ、先輩は……」
「こ、恋の病、ってやつ、だな」
(少し、かっこつけすぎただろうか)
(でも、ほ、本当だ)
(あ、これも聞こえてるのか)
(嫌わないでくれ)
「本当に、病気です……」
私は、子供みたいに泣きながら、先輩の背中に腕を回した。