深見先輩は真面目不器用
深見先輩から弁当を差し入れされて一週間が経った。あれから深見先輩はこちらに接触をしようとしていない。
それは、私に対してへの想いが消滅したという理由ならば、最高だった。けれど、悲しいことに先輩は、私にストーカーや、付き纏いだと認識されることを警戒し、差し入れを毎日我慢している葛藤を、廊下の端から常に響かせているだけである。昼休みの間。ずっと。
そんな過ごし辛い昼休みを気合で乗り切り、五、六時間目の気怠い授業を終えた放課後。
鞄を取り、うんざりとしながら教室を出る。
六時間目、本日最後の英語の授業は、移動教室で、その部屋は調理室の上に位置していた。
それだけなら、まだいい。
けれど、なんの巡り合わせか、そこで深見先輩が授業を受けていた。深見先輩は何故か私の移動教室の授業や時間割を把握していて、六時間目の授業が開始された瞬間、叫びだした。
(この上に、鏡花がいる! 鏡花がいる! 鏡花がいる!)
(ああ、林檎が剥ける気がしない、鏡花はどうなんだろう、鏡花が剥けないのなら、俺は兎さんだって、絶対に……いてっ)
(風邪を引いたら、小説のシーンみたいに、鏡花に林檎をあーんするんだ。その為に、絶対剥けるようにならなくては)
(うっ、でも、上に鏡花がいると思うと、興奮する。ああ、透視能力があればいいのに! そうしたら、鏡花が見え……)
(駄目だ! そうしたら鏡花のスカートの中まで見えてしまうじゃないか! 駄目だ駄目だ駄目だ! 俺は何てことを……!)
(落ち着け、林檎を剥くんだ、立派な夫になるんだ、俺!)
並べられる、病気にならないと言えないような言葉たち。
控えめに言って、ずっと通報したかった。そして最後(俺だけ居残りか……)と思っていたから、居残りするらしい。先輩、料理が出来ないと言っていたし、あれだけ集中していなかったんだから、当然の結果だと思う。怪我とかも、多分しているし。
今日は一か月ぶりにバイトが無い。さっさと家に帰って勉強をしよう。二年から、授業も増える。今のうちに二年の分の授業の先取りをしておかなければ。
(頑張って林檎剥くぞ! 鏡花の為に!)
不意に大声で名前を呼ばれ、ため息を吐く。林檎と言っているから、先輩は調理室にいる。調理室があるのは、特別棟で、今私のいるこの本校舎とは渡り廊下が繋がっているだけ、階も違う。ここは三階。おそらく先輩は調理室の二階。先輩の声が届くなんてありえない。
もしかして先輩の声を聞きすぎて、よく聞こえるようになっているのだろうか。だとしたら、最悪としか言いようがない。朝、五十メートルほど先の距離から、先輩の声が聞こえてきたのは想いの強さだと考えていたけれど。思っていること自体は、いつも通りだったし、むしろ聞こえるようになっていると考えた方が、納得がいく。
怖い、帰ろう。すぐに。信じられない。最悪だ。これまで以上に、先輩とは距離を置かなければ。
駆け足で、廊下を進み、階段を降りる。先輩は二階にいる。同じ階に向かうのは恐ろしいが、三階から飛び降りる訳にもいかない。二階に下り、そのまま一階に向かおうと足を進める。
(終わる気配がない……鏡花)
(しかし、やらねば!)
(頑張って、鏡花に似合う、いい男になる為に!)
(たくさん練習するぞ! だが、そろそろ苦しい、食べきれない、この量……。しかし! 頑張らねば!)
(ちょっと気持ち悪くなってきた)
(しかし食べ物を無駄にする訳にはいかない)
「……、はあ」
立ち止まり、振り返って階段を上る。
本当に、最悪だ。
やや重たい足を動かしながら調理室に向かうと、案の定深見先輩は、窓際の机で林檎を剥いていた。その周りには、斑に皮が残った林檎が八つほど盛られている。
こんなに失敗しているのか。
先輩を観察していると、そもそも速く剥く以前の問題で、先輩の手の動きは危なっかしい。包丁を握った経験がどうこう以前に、苦手なのだろうと思う。
周囲には、あの家庭科教師はいない。深見先輩、一人だけ。
「……先輩、居残りですか」
深見先輩が九つ目の林檎をさらに置き、包丁を机に置くのを確認すると意を決して、声をかけた。先輩は私を見て、目を見開く。
「な、な、な、何でここに!?」
「……姿が見えたので」
短く答えて、先輩のいる机から少し離れた席にバッグを下ろし、先輩の机に近付く。
先輩の傍にある皿盛られた林檎は、不格好に切られ、そばにはフォークがあった。剥いた林檎を、食べているようだ。当然だけど、先輩は膨大な量を失敗している、これでは食べきれないだろう。
「食べてもいいですか? それ」
「……えっ」
「林檎、好きなんで」
「あ、あ、わ、そ、そうか、い、今フォーク、出す」
先輩は目を泳がせながら、大急ぎでばたばたと身体を棚や机にぶつけ、新しいフォークと皿を差し出して来た。
「か、形は悪いが、ふ、普通の林檎だから」
「はい、ありがとうございます」
先輩からそれらを受け取り、取り皿だけをおいて、大量の不格好な林檎が盛られている皿をとる。そして、私のバッグが置いてある机に戻り、皿をおいた。
「え」
「林檎、好きなので」
「そうか……」
(鏡花、そんなに林檎が好きか……? それとも、俺を助けに? 優しいな……。階段のお礼か、重箱のお礼のつもりなんだろうな……)
本当は、好きでも嫌いでも無い。けれど、残すのは勿体ないし、先輩は苦しんでる。重箱の弁当のお礼の代わりにする算段だ。残るようなものを先輩に贈れば、何か怖いし。そもそも私、お金ないし。
だからこれは優しさではない
一口、林檎をかじる。普通の林檎だ。何にも変わらない味。
「……先生は、どうしたんですか?」
「ああ、きょ、今日は、職員会議で六時までこっちには来ないらしい、それまでに出来るようにと、言っていた」
今は、四時だ。もしも今、林檎の皮剥きが出来るようになったら、二時間ただここでじっと待てということなのだろうか。
……考えなしとしか思えない。どうしてそこまで盲目でいられるのだろう。
「そうですか」
「ああ……」
会話が終わり。先輩が新しい林檎を手に取り、皮剥きを再開した。
(……よし)
さっきから、先輩は、煩くない。わりと静かだ。
黙って、林檎を食べ進める。先輩は、失敗を続ける。
……やり方を、教えるか。それとも、私が代わってしまった方が早いか。でも、これ以上は関わりたくない。けれど、このまま放っておいたら、永遠に出来ない気がする。
「……肩の」
「ん?」
ぽつりと呟くように話すと、先輩がこちらを見る。私は先輩に目を合わせることなく、話を続ける。
「肩の力を抜いて、右手で抑えている皮を、引くようにするんですよ」
「……! 分かった、ありがとう」
「いえ」
(鏡花が俺にアドバイスを!)
(嬉しい)
(ありがとう!)
(愛してる!)
(頑張る!)
私は、熱心に林檎の皮を剥く先輩を横目で見ながら、無言で林檎を食べ続けた。
(目が、霞んで来た)
林檎を食べ続け、四十分が経過した。私は盛られていた林檎を食べ終え、先輩が林檎を剥き終えるのをただじっと待つ人になっている。
先輩が一つの林檎を剥き終えるのは、約十五分。そもそも綺麗に剥けていないし、皮は斑。手首はぎこちないし、上達の気配は一切無い。
でも、先輩の目の疲れが尋常では無い段階になってきている。何度かぼやけているようだし、危うい場面が増えて来た。
「……、もうやめませんか」
「それはどういう意味だ?」
(もしかして、呆れられてしまったのだろうか? ああ、死にたい……)
「……先輩、目が、ぼやけて来てますよね? さっきから手つきが危ないですし」
「しかし……」
(終わっていないのに、投げ出しているところを見られて、幻滅されたくない)
(やればできるところを見せたい)
(好きになって欲しい)
今までの発言を振り返って欲しい。それに林檎の皮剥き程度で心なんて動かされない程、先輩と私の心は離れている。
「もう、帰った方がいいんじゃないですか、暗くなりますから」
「……そう、か……。」
(……ん? もしかして、鏡花、体調が悪いのか!? 気を遣わせて林檎を食べ、消化不良を起こした!?)
怜悧な瞳がじっと私を見る。先輩の思考さえ知らなければ、静かに怒っている様にも見える。一触即発の空気だ。けれど先輩が抱いているのは心配。でも、まあ、私が体調不良ってことで、先輩が終わるならまあいいか。
「今すぐ終わらせる、送ってく」
「は?」
先輩は、機械的にそう発し、剥いていた林檎を自分の重箱に詰め、てきぱきと片づけを始める。
(鏡花は、体調が悪い、一大事だ。病院に連れていくか……? ここからだと獅子井総合病院が近い。そこで診てもらうか……、内科と消化器科、どちらがいいんだ?内科に行ってからか? 早くしないと診療時間が終わってしまう。夜間診療は確か二十時から、その間は救急診療でしか診てもらえない、鏡花は現在自力で歩けているし……)
近親者ですらそこまで心配しないだろう、心配の数々。そして相手は知人以下の知り合いレベルの後輩だ。とりあえず、校舎に出るまではその体で通して、校門で別れよう。
私はそう決意して、先輩の片付けの手伝いを開始した。