深見先輩は不審者
二時間目の調理実習を終え、教室に戻る。
……本当に、疲れた。
今日の実習は、リンゴの皮むきをした。本来なら、豚汁と、おひたしを作るはずであったのに、家庭科の教師の、「昨日、俺はとてもいい本を読んだ!」という一声で変更になったのである。
その本は、幼少期料理修行の為に毎日林檎を剥いて練習し、最終的に一流ホテルの料理長を務めるようになった人間の話で、ようはそれに感化されたらしい。授業の予定を変えるほどに。教師はずっとその内容を思い浮かべながら授業をしていたから、読んでいなくても何十回と読みきかせられた。
……本当に、何であんな人が教師なんだろうか。
家庭科の教師は、いつだって他者への無理解に溢れ、自己満足に染まっている。今回も(あの話の主人公のように、林檎の皮を剥かせて努力する心を教えたい)と、教室いっぱいに心を響かせていた。
私たちに、一分以内に一個をノルマとして、この授業の中で、制限時間以内に剥けるようになれ、出来なければ居残りだと、大量に買ってきた林檎の箱を前にそう宣言し、剥けるまで何個でも練習しろと、ドヤ顔で笑っていた。
林檎は果物で、剥いて時間が経てばどんどん駄目になっていくというのに、沢山失敗し残った林檎について一切考えていない。馬鹿としか思えない。
(出来ないのは、やる気が無いからだ)
(何でも早く終わらせることが大事で、のろのろしているのは怠慢だ)
心が読めなくたって、他者の表情を見ることは出来る。声帯から紡がれる声を聞くことは出来る。なのに、家庭科の教師は、それを見ようとしない。聞こうともせず、いつだって自分を見ている。
そんな授業の空気は、私が読むまでも無く最悪で、その心のうちは教師への殺意や怨恨、罵詈雑言で溢れていた。
私は、元々野菜の皮を剥くことは苦手では無い。実際そういうバイトも何度かした。工場で、機械では出来ないような野菜や果物の皮を剥く。基本無心でやっている人間が多いし、心の声を叫び散らかしたりするのは休憩の時だけだから、かなり気に入ってしていた。その経験が役に立ち、私はノルマをクリアした。
他の皆は、適当に記録を改ざんして、一分以内に収まったことにしていた。家庭科の教師は、本当に自分のことだけで、周りは見えていない。ほぼ全員が改ざんした記録を眺め、自分の気持ちが伝わったのだと喜び、延々と努力についての持論を心の中で展開していた。
……最悪、次の調理実習の授業は休むのも手かな。奨学金関係ないし。
林檎を食べたことでより飢えを覚えた胃の虚無感と、疲れしか残らないような授業を終え、溜息を吐きながら教室に向かう。
(鏡花)
「……ん?」
あと少しで教室に着くところで、深見先輩の声が聞こえた。それも心の方の。
(机に置いてから二十分が経過している……まだか、鏡花まだ来ないのか……?)
(料理は出来ないから、惣菜を詰めた。腐敗は起きない、そして保冷材もばっちり。だが大丈夫だろうか)
どうやら、机に何かしたらしい。深見先輩の居場所は分からないが、近くでこちらを伺っていることは分かる。そして、料理は、とか言っているから、食料か何かを私の机に何か置いている。
深見先輩の居場所が確認できない以上、教室に入ることは危険だけれど、机の上にどんな状態でどんな食料を置かれているか分からない。次の授業もある。
意を決して教室に入ると、机の上に紙袋が置かれている。そっと中を覗くと重箱が入っていた。
手に取ると重い。重量も重いし、想いも重い。保冷材も詰まっているし、調理に先輩は関わっていないようだから安心はあるものの、普通に怖い。自分の不在時に机の上に紙袋が置かれていて、しかも中身は他人からの重箱とか恐怖しかない。
(机に置いてあるものを取った……? 衛生には十分注意し、盛り付けも業者に頼んだから万全だが、鏡花の危機管理能力は大丈夫なのか……?)
じゃあ何で置いた。何で重箱なんて置いた。法に触れている。これで心の声が聞こえてなかったら、勿体ないどころか罰当たり覚悟でゴミ箱に投げ捨ててしまうのが安全対策としては妥当だ。でも重箱の安全性を知っている以上、無下にも出来ない。食べ物は大事にしなくてはいけない。
っていうかこの重箱はどうすればいい?返しに行かなければいいけない? 深見先輩のところに?
(それにしても、鏡花、疲れているみたいだ)
(どうか、鏡花がそれを食べて、元気になって、一日楽しく過ごせますように)
(鏡花がどうか、笑って幸せでいてくれますように)
(ただ、元気で、何も起きませんように)
……いや、今起きてる、今まさに不審者から重箱置かれるって事件が起きてる。それに、元気が無いって分かっているなら、近づかないでほしい。私が暗くしているのはいつものことだし。
とりあえず、紙袋を机の横にかけ着席すると、始業を知らせる鐘が鳴った。
「はあ」
二年生の教室がある廊下を、空になった重箱の入った紙袋を持って歩く。
結局深見先輩のお弁当は、安全性も衛生面もしっかりしていたから、全て食べてしまった。
御惣菜というのは本当で、確かに出来合いの総菜だったけれど、普通の惣菜では無く、あまりの高級感に出来合いだと分かるもので、その金額を考えると、震える。思えば重箱も、高級そうで、机の上に放置して、取りに来るのを待つのはよくないと思うほどに高そうな重箱だった。
置いているところを見たことにして、返そうと、食べ終わったものを洗い、深見先輩の教室へ向かう。
(鏡花……)
聞こえてくる声にうんざりしながら、深見先輩の教室を覗く。
すると声の主である深見先輩は、窓際の席で今持っている重箱と同じデザインの弁当箱、そして同じ惣菜の弁当を黙々と食べていた。怖い。食べておいて何だが本当にもうここまで来ると通報したくなる。
(鏡花と同じものを食べている……興奮する)
(いや、興奮してどうする、結婚したら毎日だろう)
(ふふふ、ご飯にする、お風呂にする、それとも、私、なんて聞かれたら! 俺は! はははははははは)
(ぜんぶ! って答えてしまう。家に帰ったら鏡花が待ってるなら、俺は毎日薔薇の花束を買って帰るだろう。近隣の花屋の薔薇を買い占めるだろうな)
(はぁ、妄想の世界が幸せ過ぎて、悲しくなってきた……現実が辛い)
(今頃、鏡花はどこにいるのだろうか あの弁当、食べてくれているだろうか栄養はばっちりとれたものだから、出来れば残さず食べてほしい)
ここにいますよ先輩。全部食べましたよ。そして今、貴方の心を知って、とても後悔している所です。
(でも……、机の上に置いてあるものを食べるなんてよくないよな、危機管理が出来ていない、それもそれで不安だ。置いているものを食べるほど、鏡花の食糧事情は切迫しているということだ。家庭環境にも、何かがあるようだし……)
お前が言うないい加減にしろ、と言いたくなる気持ちを抑え、深見先輩を呼んでもらうよう近くの女子の先輩にお願いするとクラスメイトに呼ばれた深見先輩がこちらを向いた。
(ん、降森……、俺に用が……? 図書委員が何故……? き、鏡花!? どうしてここに? 結婚式の打ち合わせか!?)
もうサイコパスなんじゃないかと疑う。
もう怖いとかのレベルじゃない。もうむしろ芸術の域に達している。美術館とかに飾られてほしい。そして一生そこから出てこないでほしい。
「あ、何だ、風紀委員会について、か?」
「いえ……。これ、置いているところ、見ました。差し入れありがとうございました。美味しかったです」
紙袋に入った重箱を先輩に返すと、先輩は呆然としている。あれだ、思考停止だ。
「えっと、一応水洗いだけはしてあります、では」
心の声が聞こえない間に立ち去ろうとすると、微かな声で、声が聞こえる。
(これ、結婚では)
いや、違う、違うよ先輩。絶対違う。
(籍入れてないだけで、事実婚では!?)
(いや、落ち着け、俺が置いたものを、鏡花が食べた、それだけだ)
(この箱は、鏡花が洗ったと言っていた……、もしや、鏡花が残したものが、残っていたり……?)
(食べたい……食べたい……どんな微かなものでも、食べたい……)
(はっ! そうしたら!?)
鏡花に嫌われる! なんて思って、すぐにその邪としかいえない思考を止めてほしい。
僅かにそう期待した、瞬間だった。先輩が、本当に純真な、子供のように無垢な声で、心の声を発する。
(俺、子供が出来るんじゃないか……?)
(俺が、鏡花の子供を、授かる……!?)
先輩は、やっぱり病気だ。一刻も早く病院に行った方がいい。