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九 再びイベント警備


 梅雨時は「こまどりの森」の客が少ない。アスレチックは雨になると閉じられてしまうし、温泉も、雨に当たるので客が露天風呂に出づらくなる。プールは七月からしか開かない。それを挽回しようと、土日にはフリーマーケットや親子自然教室など、さまざまなイベントが組まれていた。こうしたイベントがある日、事務所の大卒新人たちはいつも現場に借り出された。他にも何人か、事務所から現場に応援に出る。

 ある土曜、友恵の応援先はイベント警備だった。ここは相変わらずヤンキー風の主任が仕切っていて、友恵はこの主任を尊敬していたので、現場に入るのを楽しみにしていた。

 当日、始業五分前に警備詰め所に行ってみると、坂橋がいた。友恵は一瞬ドキッとしたが、すぐに気持ちを仕事に切り替えた。

「おう、大木と坂橋か。気合い入れていけよ。まあ、おまえらは研修で優秀だったほうだからな、ちゃんとやりゃ、大丈夫だろ」

 主任はややガンを飛ばしながら、ヤンキー口調で言った。態度はやはり不遜に見えたが、友恵は安心していた。しかも、「優秀」と言われたのがことのほか嬉しかった。それに、やっぱり、坂橋と一緒なのも嬉しかった。

「とりあえず、ステージ清掃から。無線持って、すぐ行け!」

 主任の声が終わらないうちに坂橋は無線置き場に走った。そして無線の一つを手にして電源をONにすると、ランプの点灯を見てすぐドアに向かった。友恵は「掃除の道具は……」と迷って主任に聞こうとした。

「大木! すぐ行け」

「あ、でも、掃除道具は……」

「バックヤードにあったものくらい覚えとけ、この詰め所に道具があるように見えるか!」

 友恵は焦って無線置き場へと体の向きを変えたが、途端、

「坂橋が持ったから、無線は二人に一つでいい、すぐ行け!」

 と大声で言われ、慌ててドアに向かった。友恵が向かってくるのを見て、坂橋はドアを開け、友恵に扉をリレーしてすぐに外に出た。

 怒声に近い厳しい声で指示を出され、友恵は焦ってドキドキしていた。あんな言い方をしなくても……とは思ったものの、主任に対して信頼する気持ちがあったので、「私がトロかったから」と反省して気持ちを落ち着かせた。

(でもこれ、私が前回近田くんとトラブルになって、主任さんのちゃんとしたところを知らずにいたら、「ヤンキーみたいな態度の悪い人に理不尽に怒鳴られた」としか思わないんだな……)

 人間万事塞翁が馬、という言葉がよぎった。人生、何がさいわいするかわからない。近田が友恵につっかかってくるせいで、周囲に「あの子は大人」と思われたり、同期に心配してもらったりして、おそらく得をしているだろう。そして、この主任への信頼感も、きっかけは近田だとも言える。

 この主任は、佐藤が会議で言っていた「頭が下がるほど真面目で高い意識を持っている」職員の一人のように感じる。だが態度や言葉遣いはやはり好ましくない。友恵は好感を持っているが、普通に出会ったら毛嫌いしていたかもしれない。遠山が言っていた、「現場と普段からもっと交流を持つべき」「事務所から応援で現場入りする機会を活用すべき」ということを思った。元々信頼していれば素直に協力できる。でも誤解があれ反発してしまうだろう。

 ステージの裏のドアの前で、坂橋はどこからともなく鍵を出してきた。

「あれっ、鍵……」

 友恵が驚くと、坂橋は逆に、その様子に驚いてみせた。

「無線の横に鍵置き場があるだろ、ステージバックって鍵も、普通に下がってたよ。おまえ、見てなかったの」

 言われてみれば、無線の横の、フックのたくさんついた箱のようなものに、鍵が下がっていたような気がする。友恵は冷や汗をかいた。とはいえ、説明された記憶はなかった。

「でも、よく、ステージバックなんて名前で、ここの鍵ってわかったね」

 友恵の返した言葉に坂橋は眉根を寄せた。

「他はプール奥詰め所とか、事務所裏倉庫とかだぞ、ここの鍵はどう見たってステージバックだろ?」

「黙って持ってきて、間違えたら余計面倒だから、一応聞いたほうが……」

「主任も俺があの置き場から取るの見て何も言わなかったから、空気感でそれなりの意思の疎通はしたよ」

 坂橋はステージ裏のカバン錠を開けると中から竹ぼうきを一つさっと出して友恵に渡した。そのとき無線が鳴り、坂橋はもう一本のほうきに伸ばした手を引っ込め、すぐに無線を取った。

「――はい、どうぞ。……了解です。無線は大木に渡します。……ええ、はい、わかりました。ほうきはどっちのを? ……一緒なら、邪魔になるんで向こうの借ります。じゃあ回ります」

 てきぱきと答えると、坂橋は、

「桑津が今日、体調崩して休みらしい。あいつは朝イチの正門前掃除の応援で、一人分穴が空いたから、俺最初三十分だけそっちの応援に回る」

 と無線を友恵に渡してきた。

「あっ、え……」

「正門前の応援は正門の指示に従えって。だからイベント警備の無線はおまえに預ける。こっちの清掃より正門が優先だから、俺、行くわ」

 坂橋が走っていこうとするのを、友恵は呼び止めた。

「ごめん坂橋くん、私、無線の使い方がいまいち……」

 すぐに坂橋は戻ってきた。

「なんだよ、前、研修の時に教わったろ――」

 そこまで言うと言葉を切り、坂橋は優しい声になって友恵に言った。

「そうか、おまえ、前の時、近田に意地悪されて、口頭で教わっただけで実際に無線触らせてもらってないんだな」

 友恵がうなずく間もなく、坂橋は端的に使い方を説明して、友恵がわかったとうなずくなり正門へと走っていった。

「早……」

 思わず声が出ていた。どうやら坂橋の目配りは同期の連中や周囲の人だけに留まらないらしい。無線を持てと言われればその周辺を見て、置いてあるものの文字まで読んで頭に入れてある。研修の時は主任から直接無線を渡されただけだから、無線置き場の周辺までしっかり見ていたのは坂橋だけだろう。

 友恵が無線の使い方を把握していない理由も、坂橋は察してくれた。確かに皆揃って使い方は聞いたが、無線本体を手にする機会がなかったので、よくわからないままになってしまっていた。

(これ、……今日一緒なのが坂橋くんじゃなかったら、どうなってたかな)

 友恵はステージの周りの掃き掃除をして、倉庫の中からゴミ袋を見つけてゴミを入れた。それから、研修の時の掃除を思い出して、倉庫の中のステージ用のほうきでステージの上を掃き、その後でモップをかけ、客席を座席用の雑巾で乾拭きし、ガムべらで地面のガムをできるだけはがすと、次は座席以外のところに使う雑巾を使って立ち入り禁止の柵を作るポールを拭いた。

「大木、どこまでやった、全部説明してみろ」

 倉庫の中でポールを拭く友恵に背後から声がかかった。主任が来ていた。友恵が順次やったことを報告すると、

「よし、上出来だ。雑巾使い分けるの、よく覚えてたな」

 と主任は笑顔で言った。ちょうど最後のポールが拭き終わり、友恵は外の流しで雑巾を洗ってステージ裏の倉庫に戻ってきた。

「この時期は落ち葉もあんまりねえし、ステージは昼からだから、とりあえず掃除はそれでいい。ちょっと、イベントで使う細工があるから、それ作るの手伝え。鍵かけて戻れ」

 主任はそう言って倉庫を出た。友恵は雑巾を所定の場所に干し、主任を追って外に出て、はたと気がついた。

「あ、……鍵……」

 ステージバックと書かれた小さなプレートがついた鍵は、坂橋から渡されなかった。友恵が戸惑っていると、

「大木、鈍くせえぞ! 鍵か? 中のドア横にあったろ!」

 友恵は慌てて中に入ってみたが、鍵は見当たらない。「どうしよう、坂橋くんが……」と思っておろおろしていると、主任がすぐに入ってきた。

「おまえは何をやってるんだ、ここ、目の前!」

 金のカバン錠がドアの横のラックにかかっていた。友恵は、その錠前を開く「鍵」のほうを探してしまっていた。今必要な「鍵」は、鍵でなく錠前のほうだ。

「時間の無駄だ、すぐ戻っぞ」

 主任はさっとカバン錠をかけて早足で詰め所に戻りはじめ、友恵は慌てて後を追った。

 詰め所で、友恵はいわゆるチアガールの使う「ポンポン」を作る作業を命じられた。指示を出すと主任は外に出ていき、友恵は黙々と作業を続けた。

 主任不在の詰め所に、正門清掃の作業を終えた坂橋が戻ってきた。

「ステージ裏にいなかったから、戻ったんだと思って」

 そう言うと、坂橋は無線のところに行き、数を数えた。

「主任、無線持ってないのか。連絡つかないな、じゃあそれ手伝うよ」

 坂橋は作業を始めるなり、テーブルの上から櫛を見つけて取り上げた。ブラシではない、薄い一枚の板に切れ目の入っているタイプの櫛だ。

「……ん? これ……こういうこと?」

 坂橋はそれを使って、ポンポンの薄いビニールのテープを裂いてみせた。

「あ、これ使うと早い。これ用に、先がちょっと削ってあるんだよ」

 櫛の先はテープに刺さりやすいように少し鋭利に加工されていた。それを使うと、テープは細かく、早く裂けた。

「残念ながら一つしかない。おまえはこの元の束を作ってよ。俺は裂いてくから」

 分担したら、あっという間にポンポンの山ができた。そこへ主任が帰ってきた。

「――早ぇな、おまえら! そう、その櫛、使うの教えるの忘れたと思ったんだよ。よくわかったな、それ使うの」

 主任が感嘆すると、坂橋は控えめにニコッと会釈だけした。

「おまえらは優秀だな、大木はちょっと鈍臭いけどな」

 友恵は慌てて「全部坂橋くんが」と言いかけたが、坂橋が顔をわずかに友恵に向かって振って「いらん」という顔をしてみせた。

 それから、別の大きな倉庫に行ってたくさんの道具を用意してステージ裏倉庫に運び、ポンポンも運び、坂橋はイベントで舞台に上がる子供たちの案内のため、主任と一緒に駐車場へ向かった。友恵は食堂で社外イベントスタッフ用の弁当を受け取ってきて、詰め所横にある外部スタッフの控え室へと運んだ。

 友恵がそれだけ終えて詰め所に待機していると、主任が帰ってきた。友恵はぱっと立ち上がって「何をしたらいいですか」と聞いた。

「とりあえず待機、休憩してていいよ」

 そう言われて友恵は休憩ソファに移り、そこにあった木組みのパズルなどをして時間をつぶしていた。

 しばらくするとドアにノックがあり、紺の薄手のスタッフジャンパーを着た見知らぬ男性が入ってきた。見慣れない服装だったが、友恵は部署の人だと思って「おつかれさまです」と会釈した。途端、主任の怒声が響いた。

「大木! おまえはいつからそんなに偉くなったんだ!」

 友恵が反射的に立ち上がると、主任は入ってきた男性に最敬礼のお辞儀をして、

「しつけがなっていなくて、申し訳ありません! 大変失礼いたしました」

 と全力で詫びた。友恵も慌てて頭をめいっぱい下げた。

「まあまあ、あれでしょ、新人さんでしょ? 若いもん。あんまり厳しくしないであげてよ。休憩中だったんでしょ、いいよ」

 男性は機嫌よく主任に言った。主任は顔を上げるともう一度頭を下げ、

「お言葉に甘えて、次の任務がありますので、彼女には休憩してもらいます」

 と言ってから、友恵に向かって、

「社長のご了承を得たから、おまえは休憩に戻っていい」

 と指示を出した。友恵は肝を冷やした。

(社長? ……でも、うちの社長じゃないよね。よその社長? だとしたら、うちの社長に失礼するより、まずいことしちゃったんじゃ……)

 それでも、めいっぱいのフォローのつもりで、友恵はまた大きく頭を下げると、

「申し訳ありませんでした! 休憩に戻らせていただきます、失礼いたします」

 とはっきりした声で真剣に言った。

「ゴメンね、お休みんとこ。どうぞ、どうぞ」

 社長と呼ばれた男性は、掌で「座って、座って」とジェスチャーした。友恵はもう一度礼をしてから座った。

「社長、こちらの応接へ……」

「ああ、いい、いい、ここで、立ち話で。すぐ出ていくから」

 主任はしばらく「社長」と打ち合わせをしていた。その会話の内容から、どうやら、この後のステージを取り仕切るイベント業者らしかった。

 社長が出ていく気配を見せたので、友恵はさっと立ち上がった。そして、主任と同時に社長に全力でお辞儀をして送り出した。

 社長がドアの向こうに消えると、主任は友恵に向き直った。友恵が「叱られるんだろうな」と覚悟した途端、

「大木、悪かったな」

 と言われ、拍子抜けした。

「あれが社外の人だとか、イベント会社の社長だとか、おまえにわかるはずないのに怒鳴って悪かった。社長に申し訳が立たないから、きつく言わせてもらった。ああやって言うことでうちの会社のメンツが立つから、勘弁してやってくれ」

 主任の声はいつになく優しくて、午前中から何度となく怒鳴られていた友恵にはとても温かく感じられた。

(……ほんと、この人、カッコいい。そして、ほんとに、仕事をちゃんとしてる。ポンポン作りの櫛とかも、多分この人が工夫して用意したんだよね。仕事ができるって、こういうことを言うんだろうな)

 それに比べて、自分は……と思った。坂橋も、この主任も、とにかく機転が利いて、目配りができて、行動が早い。

 その日の最後、友恵は主任に、一つだけ注意を受けた。

「大木、おまえは、考えてから動くところがある。事務所の仕事はそれでいいかもしれないけど、ステージはリアルタイムで動く。考えて動いたら間に合わないことがある。いざというとき、すぐに動けるように、常に周囲に気を配っておけ。たとえば舞台でトラブルが起こったら、考えてる暇なんかない。とにかく瞬時に判断して対処するしかない。そういう仕事もあるって、覚えておけ」

 友恵が目を輝かせて「はい!」と答えると、主任はふっと皮肉な笑みを浮かべて、ひと言付け加えた。

「――まあ、おまえも事務所であっという間に偉くなって、そんなこと気にもしなくなるのかもしれないけどな」

 友恵も、そして一緒にそれを聞いていた坂橋もハッとした。この会社は、事務所と現場が乖離している。それを感じる機会は何度もあったが、現場の人の生の表情と声でそれを伝えられたのは初めてだった。

(佐藤くんと、遠山くんは、多分これをもう何度も感じてるんだろうな……)

 友恵は自分が「幹部候補」と言われたことを重く感じた。この乖離をいつか解消して、大卒だ、高卒だとか、事務所だ、現場だとか、そんなことでギスギスすることのない職場を作りたいと思った。この会社に入って間もない頃、「高卒は……」と思っていた自分が別人のように思えた。

 現場応援は、イベントが終わって片付けと清掃が終わった十六時に任務完了となった。坂橋と一緒に事務所に戻りながら、友恵は坂橋に礼を言った。

「坂橋くん、いろいろ、私の鈍臭いの、フォローしてくれてありがとう。いろいろ、気配りとか、目配りとか、できてなくてゴメン。これからもっと頑張る」

 坂橋はニコッと友恵に笑いかけ、答えた。

「ああいう現場は、向いてる人間と向いてない人間がいるんだよ。おまえは別の方向に適性があるんじゃない。考えないで動ける奴と、慎重な奴がいて、世の中ちょうどいいよ」

(……でも、坂橋くんは、ものすごくデキる人なんだと思う……)

 友恵はそう思って、途端に強烈な寂しさに襲われた。坂橋が眩しくて、とても手の届かない人に思えた。ふさわしい、ふさわしくない、そんな言葉がめぐった。

 もしも恋愛関係になったとしても、きっと足手まといにしかなれない。「ヤラせて」もあげられない。明らかに自分はふさわしくなくて、友恵は揺れる心を閉ざして自ら暗い闇の中に思いを沈めていった。

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