八 プラスとマイナス
その翌日、社員食堂で定食を食べていると、
「大木ー、元気か」
という声がして正面に勝手に遠山が座った。
「あ、遠山くん。企画はどう、楽しい?」
友恵が満面の笑みで迎えると、遠山はえもいわれぬ笑顔を作った。
「うちはねえ……課長が最大の敵だわー」
友恵は、前日に企画課長を憧れのまなざしで眺めたばかりだったので、
「そうなの? なんで? 厳しいの?」
と思わず聞いていた。優秀という話だし、女性たちの中でも威張っていなくていい人だと思っていたのだが……。
遠山は箸を味噌汁につっこんでかき回した。
「課長ね……確かに優秀なんだろうなって思うんだけど、園内ではとにかく好かれてなくってさ~。企画っていう部署が、新しいことを始めようとしては各部署に煙たがられる仕事だってことは元々わかってるよ。だからそれなりにやりづらさはあるだろうと思ってたけど、それ以前にま~うちの課長がね。協力してくださいじゃなくて、『当然理解できるよね、すぐできるよね?』っていう話し方をするから……」
友恵は幾分驚きつつも、「あの人なら、そういう感じがちょっとあるかも」と思った。優秀な人だし下働きも厭わないが、「私ができるのだから人もできて当たり前」という気配は時々見て取れた。
「企画の下調べで現場にヒアリングに行くと、どこへ行っても『あ、あの女狐の手下が来た』って敵対心むき出しで対応されるんだよね~。仕方なく、『こっちも配属されちゃって大変』『手ぶらで帰ったらどういうことになるか、わかってよ』みたいなこと言って、帰ったら課長には『口八丁でリサーチしてきたんで多少の方便は勘弁して』みたいに軽~く説明してる。まあ戦争みたいなもんだよ、俺が生き残って自陣に、これ自分の部署のことね、勝利をもたらすための戦略を立てるの」
大変なんだよと言いつつ笑う遠山の表情はとても明るく、楽しそうだった。友恵は、優秀であろう女性課長も裏返せばそういう欠点があることに、改めて会社とは、社会人とは……と考えていた。多分、欠点のない人はいないし、長所と短所が裏返しの同じものだったりするのだろう。誰のどういう良さを何に活かすのか、それが大切で、自分も今その見極めをされている。でも自分自身では、自分の何が長所で、会社や社会に対して何の役に立てるのかがさっぱりわからなかった。
「――あ、坂橋だ」
遠山は少し伸び上がって食堂入口のほうを見た。友恵はわずかにドキッとして、振り返るようなそぶりを少ししただけで、実際には振り返らなかった。
「……今日も桑津と一緒か。アレは、もしかしてそういう展開なんじゃないの?」
遠山はそう言って、からかうような視線を友恵の背後の奥に向けていた。友恵は何気ないふりを装いつつ、失望を感じていた。
(そうだよね、かわいいなんて――社交辞令だよね)
明らかに美人のりえ子と、誰から見てもかわいい紗莉、その二人より「おまえのほうがカワイイ」と言ってくれたことに、どこかで期待していた。「ナシ」だと言われたはずなのに、一体何を考えていたんだろうと、友恵は暗い自虐へと落ち込んでいった。
「今日もってことは、けっこう一緒なの?」
「ここんとこ俺、三、四回ここで二人一緒なの見てるよ。それだけだったら部署一緒で同期だから……くらいにしか思わないけど、この前は仕事の後、坂橋が自転車押して桑津と並んで駅に向かうのも見たから、総合するとそういうことなのかなって。桑津は寮だから、駅に行く必要ないし」
帰りに自転車で声をかけてくれた坂橋を思い出し、友恵は、あれも自分にだけじゃなかったのだとガッカリした。りえ子は「誰かイイ男チェックしたほうが楽しくない?」と言っていた。その時は佐藤をいいと言っていたが、彼女を作ったから他の人にしたのだろうか。りえ子は大学時代の彼氏をどうしたのか……とも思ったが、友恵自身、彼氏と別れて状況が変わっている。「今の彼氏と別れて他の人と付き合うかもしれない」と、りえ子自身が言っていた。
「なんだかいろんなことが変わってくな、社会人って」
遠山の言葉に、友恵は自分の心を読まれたような気がして動揺した。だが、単に同じことを考えていただけだった。
「桑津、彼氏いるって言ってたのに、どうなったんだろうな。でも学生と立場が変われば、価値観も変わって、近くのもっと合う人とやり直すこともあるのかもね」
「うん……そうだね」
友恵は「私も彼氏とは別れた」と言いたかった。とにかく同期の誰にでもいい、きっかけがあれば言いたかった。だが真昼の社員食堂で、しかもそれまでの流れと関係なく、「大学時代に彼氏とはもう別れていた」という唐突な話はできなかった。
友恵が事務所に戻る時間が先に来た。「お互い頑張ろうね」と笑顔を交わし、友恵と遠山は手を振り合った。
事務所へ戻る友恵の足取りは重かった。坂橋とりえ子が一緒にいる場面を見る機会がないようにと、祈るような気持ちでいる自分が不思議だった。
仮配属から一か月が経ち、専務と各部署の部長・課長を前にした「報告会」が開かれた。大卒新人が自分の部署でひと月勤めて気づいたこと、改善点などを発表する。友恵は事前に宣伝部長に言っていいかを確認して、「日帰りパック」の名称が混乱することを発表した。その他に、過去の宣伝資料の保管方法についていくつか意見を述べた。近田は、すでに異動が内示されているのか終始不満そうで、発表したのは「適切な指導がなされなかった」など個人的な不満の域を出ないことばかりだった。
企画部の遠山は「現場とのコミュニケーション不足」を挙げた。企画の実現には現場の協力が欠かせないので、普段からもっと交流を持つべき、イベントの際に事務所から応援で現場入りする機会をこのように活用すべき、など改善の具体案が付け加えられていた。友恵は、食堂で言っていたちょっとした愚痴が「個人攻撃でないきちんとした会社の言葉」に整えられていることに心の中で失笑した。これが社会人なんだな、と思った。
営業部のりえ子は「外回りの際に昼食時間が遅くなりすぎることがあるので、健康のために改善してほしい」「他の部署は制服があるのに、営業部の人だけ外回りのスーツを自腹で買っているのはおかしい」と発表した。さらに「それと、これは営業部にとって不利益になっちゃいますけど……」と断ったうえで、「外回りはお昼ごはん代が八百円も出るが、これは社内の人が全額自腹なのと比べて不公平ではないか」と疑問を呈した。友恵は、「桑津さんらしいけど、お金のことに細かいな」と思ってしまった。
坂橋は「法人の団体利用を誘致しては?」という提案に熱弁をふるった。「かつて敬遠されがちだった社員旅行が最近復権してきているようなので、都心から少ししか離れていないのに緑豊かで旅行に来た雰囲気もあるこの施設は、プチ社員旅行に最適のはず。団体の平日の誘致ができればなお良い」。さらに、比較的近くに貸しグラウンドがあることも挙げ、「社員レクリエーションと宿泊のセットプランもどうか」と提案した。
紗莉は「あの、いろいろ勉強になっています。提案は、まだ、思い浮かびません」と恐縮しつつ言った。ただ、紗莉に関してはどこか「かわいく、無難に勤めていればいいよ」というような雰囲気があり、「引き続きがんばってね」と専務が激励して終わった。
最後は唯一現場に入った佐藤だった。
「現場の人たちの意識の高低差がありすぎます。これは、個人の資質に頼りすぎて、教育で意識を統一しようとしていないせいではないでしょうか。頭が下がるほど真面目で高い意識を持っていて、大変勉強になる職員が何人もいる一方で、仕事中にも物陰でケータイをいじっていたり内線で他の持ち場の人と雑談をしていたり、お客様にふてくされた応対をしたりしている職員も大勢います。でも、意識をちゃんと持てれば、皆、もっとやれます。大卒が比較的真面目っていうのは事実かもしれませんが、今の現場の人たちだって、もっとできます。正直、現場はけっこうひどいという印象ですが、会社が従業員をもっと信じて、可能性を育てるべきだと思いました」
そう語った後、佐藤は頭を下げて、
「新入社員が失礼を言ってしまってすみませんでした。でも、現場の人が軽んじられてると思って、黙っていられませんでした」
と真剣に詫びた。しばらく静まり返っていた会議室の空気を、宣伝部長が打破した。
「佐藤くん、いいんだよ。いいことを言ってくれたと思うよ。あのね、上司と部下っていうのは、偉い人だから遠慮しないといけないとか、そういうものじゃないのね。下の立場の人だって、会社を思う気持ちは対等であるべきなの。上司と部下っていうのは、偉いとか、そういうことじゃなくて、責任の重さが違うっていうだけです。長くいる者は経験があるし、上にいる者は責任がある。でも、それによって、会社をよくしようっていう気持ちが言えない関係になるべきじゃない。とてもいいお話でした、僕はそう思いました」
佐藤の顔がぱっと輝いたのを、横並びに座っていた友恵は視界の隅で感じることができた。自分自身も気持ちが高揚するのを感じた。
『長くいる者は経験があるし、上にいる者は責任がある』
『上司と部下は、偉いとかじゃなくて、責任の重さが違うだけ』
そういうものなのだ、と友恵は部長の言葉を噛み締めた。上司は「長」なのだから従わなければならないと漠然と思っていたが、経験があってさまざまな解決策を知っていて、部下の分も責任を背負うのが長なのだと思うと、なぜ上司が指示して部下が従うのかを、筋が通って理解できる気がした。
会議が終わり、友恵は宣伝部の部長と近田とともに部署に戻った。宣伝部宣伝課は部長が課長を兼ねているので課長が不在、その下は主任、その下に課員が二人いて、そこにさらに友恵と近田が仮配属されている。
「部長、すごくいいお話でした。すごく勉強になります」
友恵は心からの敬意を表して部長に賛辞を述べた。部長になる人はすごいと素直に思った。宣伝部長一人からだけでも、学んだことがたくさんある。
部長は嬉しそうに答えた。
「ありがとう、新人の時に、上の者の言葉を、いいことを聞いたと素直に思えるのは素晴らしいことだよ。こんなはずじゃなかったとか、会社は不条理だとか、自分はもっと優秀だとか、そういうふうに思う人はたくさんいるからね。ぜひ、その素直な気持ちを持ち続けてください」
友恵は不覚にも目頭が熱くなってしまった。社会人ってすごい、学生なんて子供だし、視野が狭い……と心から思った。そして、自分の就職活動が失敗したのは当然だったと、また改めて思った。
休憩室の前で、部長は、
「二人は、少し休憩してから戻りなさい。十分間、会議休憩をどうぞ」
と言って自分だけ部署に戻った。友恵は「ありがとうございます」とすぐに休憩室へと入った。近田は戸惑った様子を見せたが、仕方なくといった風情で休憩室に入り、友恵が座ろうと椅子を引いていた対角線上、一番遠い位置に座った。友恵は放っておいた。
「上司に取り入ってんじゃねーよ」
突然、声を投げかけられて友恵は驚いた。近田が友恵をにらんでいた。
(何を突っかかってきてるんだろう。取り入ってるとか、発想が貧困。ああ、自分だけ異動になるから、負け犬の遠吠えか。それとも、いたちの最後っ屁ってやつかな)
友恵は思ったが、ここで文句を言い返して同じ土俵に立つ気はさらさらない。
「あら、珍しく話しかけてくれるんだ、ありがとう」
ニッコリ、温和な笑みを浮かべて友恵は近田に答えた。近田はムッとして、やや大声で友恵に言い返した。
「おまえはいつも人のことをバカにしすぎなんだよ。だいたい、同じ大学とか言って、女が優遇されすぎだろ。俺が緑川学園って言うと、あれーあの大学って男子いるんだ、とかバカにされて、おまえとか女が緑川学園って言うと『お嬢さんだね』とか『いい大学出てるね』とか、バカじゃねえの。同じ試験受けて入ってるのに。今回も、俺は異動でおまえは残されるとか、ネームバリューで待遇変えやがって……」
友恵はあえて表情を変えずに「だから何?」という態度で近田の言葉を聞いていた。
(ああ、緑川が女子のステイタスばっか高いのが気に食わなかったんだ。でも、自分の力が及ばないことを、大学のネームバリューのせいで……って思ってたら、いつまでたっても成長しないよね? 自分が異動になるのは、大学のステイタスの男女差のせいじゃないってこともわからないんだ。レベル低~)
心の中では文句を言い返していたが、言っても意味がないことはわかっていた。「この話をどうやって終わりにしたらいいんだろう」とだけ思って黙っていた。
そこに、りえ子が入ってきた。近田は慌てて口をつぐみ、友恵は「助かった」と思った。部署が同じ坂橋も追って入ってくるのではないかと廊下の様子を探ったが、休憩はりえ子だけのようだった。
「あ、友恵。珍しい、近田くんと一緒だ。会議疲れたねー、休憩休憩!」
共用の食器棚から自分のマグカップを出すと、りえ子は落としてからだいぶ経ったコーヒーをカップに半分だけ注ぎ、冷蔵庫から共用の牛乳を出して注いだ。
「近田くんは異動だって?」
りえ子は遠慮なしに近田に言った。近田は不機嫌そうに目を伏せた。友恵は「容赦ないなー」と思ったが、りえ子は続けて、
「実は私も。次は、総務」
と言って大げさに苦笑してみせた。
(じゃあ、桑津さんは、坂橋くんと部署が別になるんだ)
友恵は真っ先にそう思った自分が気まずくて、とっさにりえ子にかける言葉を探し、取り急ぎリアクションを向けた。
「桑津さんは、元々希望の部署を決めてなかったんだから、いいんじゃない? 自分探しってことで、いろんなところを経験させてもらえば……」
そして、言ってから「しまった」と思った。結果的に、元々宣伝を希望していた近田の立場を貶める形になってしまった。
「ほんとにおまえって、俺のことどんだけバカにしてんだろうな。元々希望の部署があって異動になってすみませんねー。勝ち誇ってんじゃねえ、そのうちおまえもボロが出るからな」
近田は捨て台詞を残してぷいっと休憩室を出ていった。
「あはっ、近田くん、たまに友恵としゃべってると思ったら、あんな調子かー」
りえ子は笑い、友恵は渋い顔をした。
「うん……今のはちょっと、失敗した……。失礼だったよね、悪気はなかったんだけど」
りえ子はもっと笑った。
「友恵は大人だねー、私だったら、異動ざま見ろバーカ、って思っちゃうなあ。近田くん、友恵の何が気に入らないんだろうね、理由聞いてみても何も言わないんだもんなー」
友恵は苦笑を見せて返答を避けた。
「でも、私、落第かーと思ってけっこう落ち込んでる」
りえ子はため息交じりにつぶやいた。友恵は適切な慰め言葉が浮かばなかった。
「同期七人の中で、二人、脱落だよね。近田くんと私」
友恵は必死で頭を働かせて、やっと慰めを言った。
「あのさ、単に、宣伝に二人、営業に二人、かぶってたから……二人は要らないってことで一人ずつ移しただけじゃないのかなあ。元々、一つの部署にそんなに人がたくさんいる会社じゃないから」
りえ子は力なく笑い、
「せめて、近田くんが優秀だったらそういうふうにも思えるけど、明らかな問題児と私だけが異動って、ちょっと、気持ち的には厳しい」
と言って牛乳たっぷりのコーヒーを飲んだ。友恵は何も言ってあげられないまま、休憩を許可された十分が過ぎたので宣伝課に戻った。
その会議を区切りに、その日のうちに近田の企画課への異動とりえ子の総務課への異動が正式に発表された。もう翌日すぐに移るということで、近田は夕方から席の引越し作業を始めた。友恵はそのそばで任された仕事をしていることに居心地の悪さを感じはしたが、翌日からの気楽さを喜びつつ、見て見ぬふりをした。
近田の姿が消え、定時の鐘が鳴って、友恵はすっきりした気分で事務所を出た。
軽やかな足取りで駅に向かっていると、後ろから自転車のベルを鳴らされた。ドキッとして、そのまま友恵は振り返れなかった。ちゃんと道の脇を通っているのにベルを鳴らされたのだから、背後にいるのはおそらく坂橋だろう。
「大木、シカトすんなー」
やっぱり坂橋の声がした。自転車は友恵の横を過ぎ、少し前で止まった。坂橋が振り返ったのが視界の中に見えたが、友恵は目を上げなかった。
(坂橋くんは、桑津さんと、……いや、でも、私には関係ないから)
どうせ私なんか、と言って走って逃げてしまいたい。でも、それは甘えにすぎない。「どうせ」と言って、「そんなことはない」と言われたい自分に気がついていた。なぜそんな態度を取りたいのか、友恵は自分でも理解できずにいた。
「元気ないな」
坂橋の声に友恵は思わず顔を上げていた。そんなことはない。ついさっきまで、明日からは仕事が気楽になると、明るい気持ちでいた。元気がなくなったのは坂橋の声を聞いてからだ。坂橋と目が合い、友恵はまた目を伏せた。
「私は、いつだって元気だよ。心配ご無用」
友恵は強気な声で言って、坂橋の自転車の横を通り過ぎた。自転車はまた友恵の前に回ってきた。
「乗ってけよ。ほんのちょっとだけど」
友恵は足を止めた。坂橋はそのまま友恵の返事を待って、じっと自転車を止めていた。
体をひねって友恵を振り返る坂橋の背中が視界を広くさえぎっていた。友恵は、甘えたくて、でも自分が甘えた感情をぶつける立場にないことを思って、迷った。
「いいから乗れよ」
坂橋の声は少し怒っていた。友恵はその声に理不尽なものを感じた。乗らないことを怒られる筋合いはない。でも、自分が理不尽に甘えたい気持ちと、坂橋が理不尽に怒っているのが、同じもののように感じられた。
「ちょっとだけ……」
友恵は答え、ためらって、戸惑って、意を決して坂橋の自転車の後ろに横座りで恐る恐る乗った。そして広い背中を感じながら、それでも決して触れないように、サドルの付け根のバネを握った。
「つかまれ」
「つかまってる」
「……つかまってないじゃん」
「つかまってる」
「どこに」
「サドルの付け根」
「危ねえから、俺につかまれ」
「無理、彼氏じゃない人に抱きつくのは、私はダメ」
問答の後、坂橋は呆れた声で、
「しょうがないな、乗っただけ成長したな」
と言ってゆるゆると自転車をスタートさせた。わずかに下り坂なので、自転車はスムーズに走った。それでも友恵に気を遣ってか、スピードは遅めだった。
「近田と一緒で、大変だったな」
坂橋は言った。友恵は首を振ろうとしたが、坂橋から見えないことに気がついて、
「全然、私、気にならなかったから」
と答えた。
「何、声が後ろに流れて、聞こえづらい」
「大丈夫、全然気にならなかったから!」
友恵は少し大きな声で返事をし直した。坂橋の答えがないうちに自転車は駅に着いた。強いブレーキがかかって、友恵の肩が坂橋の背中にぶつかった。
「あ、ごめん」
「だから、俺につかまれって言ったのに。おまえの体重移動がわかんないから、運転も気を遣うんだぞ」
友恵はさっと自転車を降り、坂橋に体だけ向けて目を伏せたまま、
「だったら、乗せてくれなくてもいいのに」
と意地を張った。そして、心の中で「何、甘ったれてるの?」と自分をなじった。
「元気そうでよかった、近田と一緒で参ってるんじゃないかって心配してた。明日から、よかったな」
坂橋は友恵の態度をまるで気にすることなく、そう言って笑顔を見せた。友恵はちらっと坂橋を見上げて、すぐにまた目を伏せて、
「ありがとう、同期のリーダー」
と口元だけ笑ってみせた。心配してくれたことは嬉しかったが、その一方で、周囲に一様に目配りをしている様子にはわずかに腹立たしさを感じた。
「また明日、頑張ろうな。次に俺が声かけたら、今度は俺につかまって自転車に乗れよ」
坂橋はそう言って駅の横を通り過ぎ、大通りへと抜けていった。
友恵は胸の中で強く首を振った。坂橋に惹かれる自分に気づかないふりはもうできなかったが、かつて言われた「やらせてくれなそうだから、ナシ」という言葉をわざと繰り返して想いを封印した。坂橋は優しいが、リーダー気質が周囲に目を配らせているだけだ。自分を特別視してくれているわけではない。事実、りえ子とも駅まで一緒だった様子が目撃されている。
(……そうか、部署が別々になっても、桑津さんとお昼に一緒に行くかどうかで、二人の関係はわかるよね……)
それでもやっぱり坂橋を気にしている自分がいた。友恵はその事実を認めたくなくて、無理に頭の中で好きな歌を歌いながら駅の改札を抜け、電車に乗った。