十六 河原の告白
帰り道、友恵はもう、背後からの坂橋の声をいっさい期待してはいなかった。むしろ顔を合わせたくない。愛が言ったことをあいまいに解釈して、何も考えずにいたい。
だが、ずっと待っていたときにはなかったのに、愛の話を聞いた数日後、久しぶりに坂橋が自転車を止めて声をかけてきた。友恵の中にはもう頑なな拒絶の気持ちしかなかった。
(垣内さんと、――ううん、どうかわからない。でも知りたくない。傷つきたくない)
「……また乗ってけよ」
そう言われても、友恵は坂橋に一瞥もせずに駅へと歩いた。
「大木」
何度か呼ばれ、友恵は唇を噛み締めて大きく息をしてから答えた。
「デートしたんじゃないの、垣内さんと。他の女の子に声かけてたら嫌われちゃうよ」
自転車が前に回ってきたが、友恵は顔も目も上げなかった。
「おまえ、俺のことバカにしてんの。俺は食われねえよ。どこで何聞いて誤解してんの」
「……え?」
勘違い、という言葉がすぐに浮かんだ。『誘っちゃいました』という声が耳に残っているが、それは「誘った」だけで、その先は何も表現していない。なのに、『あの人、すごく、よかったです』という言葉を、自分はいったいどういう意味にとったのだろう。
力が抜けた。まずは自分の想像を恥じた。そして、あとは、こんなことに囚われて気持ちがめいっぱいになってしまうほど、坂橋に惹かれている自分を自覚するしかなかった。
坂橋は怒った声でさらに言った。
「今からどこか行かないかって誘われたけど、断った。ただ、駅までは一緒に歩いたけど。断固そんだけ」
それから友恵は、この人はなぜそんなに懸命に言い返すのだろうと考えた。関係ないよと伝わればそれでいいはずなのに。
わずかな沈黙が気まずくて、友恵はうつむいて言い訳をした。
「垣内さん、坂橋くんのこと、すごくいい人みたいに言ってたから……」
「桑津も垣内も関係ないからもう、おまえは余計な誤解しないでくれよ。そんなどうでもいい話、してるヒマない。今日はとにかく乗れ」
坂橋のその声が真剣すぎて、友恵は戸惑った。
「乗れ。俺、このまま一人で自転車で帰ったら、事故る」
脅迫まがいのセリフで坂橋は友恵を強引に後ろに乗せた。走り出す前に、坂橋の手が後ろに回ってきて、サドルのばねを持つ友恵の手を探り当てた。驚いて手を引く間もなく、友恵の片手は無理やり坂橋の体に回された。
「次は俺につかまって乗れって言ったろ」
その手をぐっと押さえたまま自転車は発車した。
「危ないから離すな、落ちるぞ」
それでも友恵の手はためらっていたが、下り坂にペダルの力が加わって自転車はみるみる速度を上げた。サドルに手を戻したかったが、加速していく自転車の揺れの中で、片手とはいえ離すのは怖かった。それに、友恵がつかまらない限り、坂橋の片手はハンドルを離れたままだろう。いつまでも片手運転をさせるわけにはいかない。
友恵がためらいがちに腕に力をこめると、坂橋の手がハンドルに戻った。
「さらうぞ」
「え、――何?」
「おまえのこと、さらうから!」
自転車は駅を越えて川のほうへと下りていく。
(スピードが上がって怖いから――)
友恵は坂橋の背中にそっと頬を寄せた。それでも触れる寸前で止めた。こっそりと、回した片腕には力をこめた。
舗装されたエリアから、地面がむき出しの川べりに上がる坂道のところで自転車は止まった。友恵はぱっと腕を離し、慌てて自転車を降りた。それを背中で確認すると、坂橋も降りた。
「もう、……危ないよ」
友恵は力なくつぶやいた。
「危なくないよ、俺、落とさないから」
坂橋は友恵を連れて坂を上って川べりに出た。そして遊歩道の柵に自転車をくくって止め、友恵の隣に戻った。
「ちょっと歩こう」
もう薄暗い川べりを、友恵は坂橋について歩いていった。しばらくは二人とも何も話さず、ただ静かな風を感じていた。
「――俺、会社、移ることになった」
思いがけない言葉が耳に飛び込んできて、友恵は足を止めた。
「……転職するの?」
そう問われ、坂橋は遅れて足を止めた。
「まさか。まだ半年ちょっとで転職なんて、何様のつもり。今日、異動の内示が出た。異動っていうか、転籍。出向じゃなくて完全に本社に移籍する。これもウチの人減らしの一環なんだろ」
移籍先は、グループ会社の中核をなす年商一千億超の一部上場企業。「こまどりの森」とは比べようもない。友恵は淋しいと一瞬思ったが、すぐに祝う気持ちが湧き上がってきた。
「すごい、……坂橋くんがデキる人だから、栄転だね」
友恵は憧れと羨望と、少しだけ切なさの交じったまなざしを坂橋に向けた。薄暗い中、表情はぼんやりとしか見えなかったが、坂橋は落ち着いた声で答えた。
「返事は今週いっぱい待ってくれるってことだったけど、即決した。遠山の企画のために金稼ぐって約束は反古にしちゃうけど、いい話だと思ったから」
友恵はうなずいた。坂橋がいなくなるのは残念だが、止める理由はない。
「うん。寂しくなるけど……いい話なんじゃないかな」
友恵が笑顔を向けると、坂橋の声が急に重くなった。
「大木、――彼氏と別れろよ」
動揺して、友恵はごまかすために笑った。
「突然何の話……」
「いいから、別れろ。やっと言えた。何回言おうとして言えなかったかわかんねえ。絶対俺の方がいいから、――彼氏と、カタつけて、俺のとこに来いよ」
友恵は呆然とする以外に何もできなかった。でも、だって、でも、そんな……という言葉が無駄に頭の中をめぐった。でも次に、「ヤラせてくれなそうだから、ナシ」の声が降ってきた。そのセリフは友恵を幾分冷静にした。
「――坂橋くん、私はナシだって、言ったじゃない」
それだけ言い返せた。坂橋の慌てたような声が返った。
「あ! あれ、覚えてたの? あんとき、俺、言ったじゃん。おまえのこと好きって。まずい、告白しちゃったよって思って、必死でフォローしたんだよ。まだずっと仕事で一緒なのに、気まずくなっちゃうだろ。だから」
「え、好きなんて言われてないよ、確か――」
そう言ってくるっと首をかしげて、友恵は思い出した。
「そう、このクセがわりと好きとか、そんなこと言ってただけで」
「それでめいっぱい白状してんだよ」
「わかんないよ、そんなの。だって……ヤラせてくれないからナシ、って言ってたじゃない。だから私――」
言い合い先行になってしまったが、やっと、友恵は自分が坂橋に何を言われたかを理解した。「俺、言ったじゃん。おまえのこと好きって」――
でも……。
「私、本当に、……好きな人に、そういうこと、させてあげられないから……」
呆然とする中にこみ上げてくる熱くて哀しい感情。ずっと自分の外に出なかった苦しいもの。
「だからずっと、坂橋くんのことは、あきらめてた……」
震える声はちゃんと形を成して坂橋のもとに届いただろうか。それだけを気にしながら、友恵はそのまま震え続けた。
「でも、今、せっかく、好きって、言ってくれたのに、私、付き合っても、ヤラせてあげられないから……」
(私、ストレートで下世話な言葉、使ってるなあ)
頭の中では妙に冷静な自分がいて、そんな揚げ足をとっていた。こんなに熱くて震えているのに、やっぱり泣けないんだなと友恵は思った。
「何、それ。どういうこと。おまえ、彼氏と……でもいつも、変なこと言ってたよな。事情があるのか? 俺に話せる?」
言ってしまいたかった。でもやっぱり友恵の唇は動かなかった。何かが凍ってしまったみたいで、震えだけが止まらなかった。
坂橋がすぐそばに歩いてくるのを感じ、友恵は身を硬くした。
「大丈夫、おまえみたいなカタブツに、少女マンガのヒーローぶって抱き寄せたりとかできねえよ。でも、これだけ……」
坂橋はやや背中寄りの位置で友恵の肩に掌を置いた。
「安心して話せ。聞いてやるから。忘れたほうがいい内容なら、すぐ忘れてやるから」
肩に触れる掌から励ますような優しさが伝わる。何かに怯える友恵の気持ちに気づいてくれるのが坂橋らしい。
「あの、ね」
心地よい決壊が友恵を襲った。頬を涙が一気に伝った。
「私が、悪いのかも、しれないけど。部屋になんか行ったから。でも、そんなつもりなかった。いいなんて言ってない。好きならいいだろって、そういう話じゃない。初めてなのに、無理やりなんて、すごくすごく怖かった。もう、私、あんなの、絶対、やだ……」
体中がガタガタ震えた。半年間、ずっと絶望の中でこの重いものを抱えていた。
「もういい、しゃべんな。それとこれは男としてじゃなくて、同期の友人として慰めてやる、落ち着け」
友恵は、あくまで「支える」という手つきで坂橋の胸元に引き寄せられた。掌は背中でなく友恵の肩に添えられ、優しく、軽く、慰めるように指先が肩を叩いてくれた。友恵は、始めこそ身構えていたが、優しさに甘えてゆっくり広い胸に体を預けた。そのまま友恵は、半年分、泣いた。やっと泣けた。
「その後すぐ別れた。だから、会社、入る頃には、もう別れてた。でも……別れた理由を誰かに聞かれるのが怖くて、言えなくて……」
「うん」
「何度も、坂橋くんには、言いたいって思った。でも、こんな話は、できなくて」
「うん」
「桑津さんとか、垣内さんとか、……私より、そういう子たちのほうが、あなたには、ふさわしいんだろうなって。私、男の子のしたいこと、もう、怖くて、させてあげられない。だから、私じゃ無理なんだなって……」
「桑津は金目当て、垣内は体目当て。俺はそんな女と、よっぽどヤレねえよ。――あと、驚きの事実を一つ、聞いてくれ」
友恵は黙って続きを待った。坂橋の腕が緩み、二人の間隔に余裕ができる。
えも言われぬ間のあとに、坂橋は小さな声で絞り出した。
「……俺、こんなキャラだけど、……女の子と、まだ、シタことない……」
「えっ!」
友恵の涙は一気に止まってしまった。
「……やっぱ、ソレってショックなのね」
落胆した坂橋の声に、友恵は必死で言い返した。
「そうじゃないよ! だって、なんでもできるし、頼りになるし、リーダーだし、仕事早いし、……」
「だよなー」
「垣内さんも、坂橋くんには美人の彼女がいそうだって言ってた。ぬかりなく彼女作って、それなりにモテたりしてそう」
「だよなー」
「ちょっと俺様だし。上から目線だし。デキる男ぶって、実際デキちゃってるし」
「……なんだけど、女の子とだけ、デキてない。最初の彼女、ダメだって言うからその都度中断してたら、そのくらい察してくれってキレられて捨てられた。次の彼女、だから強気で押したら本気で泣いて離れてった。もう怖くて女に迫れない、俺」
話が途切れ、二人は見つめ合った。それからわずかに笑った。
「俺たちお互い、相手の事情、動物的な勘で察してたんじゃないの? 俺もデキない、おまえもデキない、二人でそれを乗り越えようって」
友恵は何を「乗り越える」のかを正しく理解して赤面した。そして不安になった。
「乗り越えるって……私、多分、もう無理だよ」
坂橋は友恵に触れる掌にぐっと力を入れて、真剣に言った。
「でも、世間一般の人にできて、俺ができないとか、おまえができないとか、そんなはずないと思わない? 世の大半の人ができることは、俺たち、きっとできるよ。仕事みたいなものだよ」
「仕事って……」
「デキるよ、俺たち」
毒気を抜かれる、というのだろうか。苦手な話のはずなのに普通に聞ける。友恵は思わず笑いそうになり、笑ったら恥ずかしいと思ってふくれてみせた。
「……それで簡単に私のことどうにかできると思わないで」
「それは、チャレンジしてみろってことでいい?」
友恵は甘い気分ですっかり呆れてしまった。この根性で、どうして誰もオトせなかったのか……。
「じゃあこの後、俺の部屋に行こう」
「……バカ。今の話の展開で、『ハイ』ってついていく女の子、いるわけないでしょ」
「しょうがない、じゃあ――いつか、そういう日が来るような関係にちゃんとなろう。始めの一歩で、……俺と、付き合えよ」
恥ずかしくて、友恵はうつむいた。
「……なんか、いつかHしようぜって言われてるみたいにしか聞こえないよ……」
「おまえな! それは、いずれ、するけど。まだ当分は、いいよ。ただ一緒にいたい。俺は職場からいなくなるけど……おまえのそばには、いさせて」
坂橋の温かい声に決意を固めて、友恵はうなずいた。
「私も……一緒にいたい。多分、めんどくさいオンナだと思うけど……」
「俺も相当めんどくせーぞ、自己中でマイペースだから。どっちかというと、おまえがついてこい」
友恵は安心して、でもまた涙が流れてきて声にならなくて、何度もうなずいた。「どっちかというと」が可笑しかった。坂橋は合わせてくれるだろう。
二人で並んで駅まで歩き、坂橋に見送られて友恵は改札を抜けた。恋が実った弾けるような喜びと、大学時代には感じなかった充実感が体中をめぐっていた。
社会人になって、違う価値観に接して少し柔軟になれた。机上の恋しか知らず、ただ忌避するばかりだった性的なことについても、まったく別の価値観を知った。「人の生きるうえでの当然の営み」「メシ食うのと一緒」「付き合う、イコール、ヤルって感じだな」――聞いたときには衝撃だったさまざまな言葉を友恵は思い出していた。自分自身は今、そう思うことはできないけれど、彼らは間違っていないのではないかとも思う。
いつか、そういう日が来るように……。
ついさっき肩に添えられた温かい手を思い出す。きっと追いつくのを待ってくれると思える。
新しい恋の幸福に身を委ね、家路を急ぐ友恵の足取りは羽が生えたように軽かった。




