十五 それぞれの夢
社内の不穏な雰囲気と、自分たちに課された任務への不安を受けて、坂橋の音頭で緊急同期会が開催された。「社内がこんな状況だが、どうするか」という議題は誰が提示しなくとも共有されていた。
遠山はもうすっかり肝を据えていて、落ち着き払って宣言した。
「俺は残るよ、やりたいことがあるからね」
友恵は、お茶ルームで話した時には若干残っていた迷いが消えていることを感じ、遠山の意志の強さを改めてうらやましいと思った。
「俺も残る。そもそも、一年も経たずに辞めたら次がない」
坂橋もすぐに続いた。「いるしかない」というだけの淡々とした答えだった。友恵も、自分の発言が重くならないようにそれに続いた。
「恥ずかしい話だけど、まだ社会人として何もない状態だから、移りようがないな……」
でも本当は、「いろんな不安でいっぱいだけど、少なくとも次の夏までは、プールの主任さんと約束したから」と思っていた。
紗莉も「私はここにいたい」とだけ言ったが、口調はやはり不安そうだった。
佐藤は、誰よりも先に現場の責任者としての自覚を育てていた。
「俺は、もう、運営の上の人に辞めないでくれって言われてる。これから現場を支える立場だからって、管理監督のノウハウなんかもどんどん教わってるし……。でも正直、現場の人を切っていくんじゃなくて、これはという人をちゃんと残して、今の園全体の運営スキルを失わせないようにしていきたいと思ってて、それをどうやって提案しようかなって考えてるところ。いい人が辞めるまでになんとか、時間がないから頑張らないと」
友恵はその佐藤の言葉の中に、おそらくは今の彼女であろうおみやげ屋の店長さんや、園内の「かつての地元のヤンキー」たちへの気持ちがこもっているのだろうと感じた。現場の人が、真面目な人も不真面目な人も「高卒だから」「現場の人はバイトでいい」と一様に切られるのは絶対におかしい。現場の優秀な人が残れるようにと、佐藤がそうしてくれることを祈り、そして自分もそこにどうにかして役立っていくべきなのだろうと漠然と思った。「誰かが何かをやってくれる」という考え方では、今の「こまどりの森」からは必要とされない気がした。
りえ子だけは結論が違った。
「私は辞めたい。私だけ、目的もなく部署を転々とさせられてて、会社じたいと合わないんだと思う」
最初に営業課に入ったりえ子は、その後総務、受付、運営(物販)と回って、今は企画課にいた。毎月のペースで異動させられるのは「君はここでは使えない」と言われているようでつらいと、何度も言っているのを友恵も聞いていた。
「それに私、今、企画の課長からいじめを受けてるから……」
「え?」
りえ子の発言には誰もが耳を疑った。確かに企画課の女性課長は厳しいところがあり、また専務の片腕だけあってシビアだが、陰湿な個人攻撃をするようには誰も思っていなかった。
「私さあ、会社にコンカツに来てるのか、とか言われたんだよね」
憤懣やるかたない口調で言ったりえ子とは逆に、友恵はつい内心で「課長さんが正しいな」と反応してしまった。しょっちゅう坂橋のそばにいるりえ子に対し、積み重なってしまった感情があった。
同期の仲間たちの間にも「それは自業自得なのでは……」と言うに言えない気配が蔓延して、りえ子はムキになった。
「あの課長、偉そうにしてるくせに、へんなウワサか何か聞いて邪推してきたんだよ。確証もないことで課長クラスの偉い人から中傷を受けるなんて、この会社は低レベルだよね」
対処に困って友恵がそっと周囲を見ると、遠山がさっさとその空間から気持ちだけ脱出したのがわかった。否定も肯定もせず、まるっきり相手にしない様子で、ごく普通に枝豆を食べてビールを飲みはじめた。
友恵はそのままそっと、誰にも気づかれないように坂橋をうかがった。だがちょうど目が合ってしまい、慌てて目を伏せた。坂橋は困惑の極致という顔をしていた。
「それか……先月新しく入ってきたあの子が、私の変なうわさを流してるかもしれない」
りえ子は主張した。紗莉が「親しい自分が止めなければ」という風情で口をはさんだ。
「くわちゃん、人の言うことなんか気にしなければいいんだよ。課長さんについて言うのは、まあ、仕事の愚痴だから仕方ないかもしれないけど、後輩の女の子のことは、まだ十代の子なんだし、他の人によくないことを言うのはやめなよ」
友恵は、いつもふんわり優しい紗莉が、実際はとてもしっかりした女性だということに何度も気づかされていた。可愛らしくおとなしいけれど芯がしっかり通っている、こういう子が実のところ「男性にとっての理想の女性」なんだろうと思った。
りえ子はこわばった顔で紗莉に言い返した。
「紗莉はあの子に変な態度とか取られてないからそういう綺麗ごとが言えるんだよ。あの子、私になんか突っかかってくるんだよね、片っ端から男に手ぇ出してるくせに――」
友恵も「まずい」と思ったが、りえ子本人もそう思って言葉を切ってしまったのはなおよろしくなかった。誰が、誰の何を、どこまで知っているのかはお互いにわからなかったが、「片っ端から手を出して」いるその対象は必ずこの中にいるだろう。全員が、自分の知っている範囲内で「まずい」と思った。遠山は完全に無罪なので涼しい顔をしていたが、佐藤は明らかに引きつっていた。
「やめろ桑津、同期の仲間に、入ったばっかの新人の悪口を吹き込むな」
坂橋が厳しい口調で言った。りえ子は言い返した。
「若い女の子には優しいのねー。私には、あれをするな、これをするなって、いつもうるさくて……」
「桑津さん」
友恵は思わず言葉をさえぎっていた。坂橋とりえ子が口げんかを始めたら、二人が親しいという証拠を見てしまいそうで怖かった。
「……坂橋くんは、私にもいろいろ、至らないこと……注意してくれるよ。みんなに目を配ってくれてるだけで、桑津さんに厳しいとかじゃないと思う」
「そういえば、友恵はあの子と特別仲いいみたいだもんねー。同期の私より本社の社長令嬢のほうがいいよねー。なんか同期の中でも、なんか私だけ浮いてるよね。みんなはそうやって結束してて、私だけこの会社でうまくいってない。みんなはいいよね、居場所があって」
りえ子が黙ってしまったので全員が所在ない気分になったが、そういう時も、坂橋が場を収めてくれた。
「いじけるなよ。大木は単に、若い後輩の面倒見てやってんだろ。それに仕事も、佐藤が修業で現場を一か月ごとに転々としてるのと同じように、事務所の全部の部署を片っ端から修業するヤツを一人作ってるだけかもしれないし。おまえがそうやって不満を持ってやってたら、『ああ、この子はこの部署をやりたくないんだな』って思って、上は異動させようって考えるよ。自分だけ特別みたいに思うな、俺たちどんぐりの背比べなのに、何を一人で結論出してんの」
紗莉が大きくうなずいた。
「そうだよくわちゃん、この前受付にいて、お客さんが『この間いた美人の子はどうしたの』ってくわちゃんのこと聞いてきたよ。感じよかったのに、別の部署行っちゃって残念だって。同期でも、会社でも、別に浮いてないのに、なんか余裕がなくなりすぎだよ。オーちゃんなんか、近田くんに嫌なことされたって大人にしてたじゃない。嫌なことを気にしないっていうの、大事だよ。まだ、みんなでがんばろうよ」
りえ子はその後しばらく「でも」「だって」と言っていたが、坂橋に「じゃあ、会社辞めんの?」と聞かれて結局「辞めない」と答え、やっと騒動は終わりになった。
しばらく自分の世界で一人で飲んでいた遠山が口を開いた。
「なあ、この会社の閉塞感みたいなものに、俺たち若いのが飲まれたらダメだって。こういうときだから、俺たちは夢を語ろうぜ」
「おお、若者らしく、青臭く来たね、『夢を語る』か!」
坂橋は笑ったが、その言い方には遠山に一目置いている気配がにじみ出ていた。
遠山は真っ先に紗莉に向かって言った。
「受付と事務やって終わりと思うなよ。加川も、もっといろいろやろうぜ」
紗莉は、この会社で自分が何をできるとも思っていなかったので、ひどく驚いて遠山をじっと見つめた。遠山は不敵な笑いを浮かべて紗莉に言った。
「俺、おまえの言ってた、ガラス風呂と雲の上の風呂、やりたいんだよね。天空のガラス風呂、って。今の財政状況じゃ無理だから、いずれ上手く資金を稼いで」
そこで坂橋がぽんと手を叩いた。
「じゃあ俺がその資金を稼ぐよ、俺の提案した法人向けの社員旅行パック、実現されそうなんだ。土日が中心にはなるだろうけど、平日が休みの会社を誘致できれば、平日の来客数の底上げになるかもしれない」
友恵は同期の仲間たちのそんなやりとりがとても嬉しかった。自分も参加したいと思い、明るく手を挙げた。
「だったら、もう今から、私はその社員旅行パックの宣伝の案考えておくよ。レジャー系の雑誌だけじゃなくて、ビジネス雑誌みたいなのも読んで、いろいろ勉強する。いずれは天空のガラス風呂、実現したらそれもいい宣伝ができるように頑張る。何を勉強したらいいんだろう、楽しいよね、考えると」
脳裏にプール課の主任が英会話の勉強をしていた姿が思い浮かんだ。少しでも宣伝課の一員として力をつけて、次の夏までに成長した姿を見せたかった。
紗莉は、「私は何もできないから」と遠慮がちに身を縮めた。けれど遠山はすぐに「そんなことはない」と応じた。
「おまえの発想はちょっと不思議ちゃんだから、企画の参考になる。固定観念からは夢のある話は出てこない。凡人は金稼ぎしか考えない。夢のある金稼ぎを考えるのが企画の仕事。加川はもっと、ワケのわからない天然発言をするべし」
遠山の主張にみんな笑った。紗莉は恐縮しながらも、照れたように嬉しそうに笑った。
坂橋は苦笑した。
「凡人は商品の新しいパックくらいしか考えつかなくて悪かったな」
遠山はまた、不敵な笑いで返した。
「それはそれで大事、両輪だよ」
佐藤が慌てて割り込んだ。
「俺にも夢があるんだけど! 実は、運営のでかい倉庫に小型のメリーゴーランドがあって、それを復活させたいんだよね。こまどりの森って、なんとなく名前がついてるだけで、何がどうこまどりなのかわからないから、そのメリーゴーランドの乗車部分を小鳥にしたいんだよ。なんか俺、どうも子供の頃にココに泊まりに来たことあるらしいんだけど、写真を見ても全然こまどりの森だって覚えてなくて、何か泊まりに行ったよねとか、バーベキューしたよねとか、そんな思い出しかなくってさー。アルバムに母親が『こまどりの森にて』って書いてなければ、あの場所がここだなんて全然つながらない。多分、子供の頃に来たことがあるみんなが、ここのことを忘れてるんだと思うよ。でも、そこで小鳥のメリーゴーランドみたいな象徴的なものがあれば、これこまどりの森だったねって、思い出してもらえるし、きっとまた来てくれるよ」
りえ子はまた肩を落とした。
「みんなには夢があって、私にはない……」
その様子にすぐ反応して、坂橋は叱咤するように言った。
「自分で探すんだよ」
その声に優しさを感じ取り、傍で見ていた友恵は思わず下を向いた。そして自分の態度が不審でなかったかが不安になってグラスを手に取った。坂橋がりえ子にも強い口調で何か言うのが淋しかった。坂橋が目を配って言葉をかける相手が自分だけではないと思い知るのも空しかったし、りえ子に向ける坂橋の声の中に同期以上の感情があったらと思うと怖かった。
飲み会の後、佐藤と遠山、紗莉とりえ子は揃って寮へと帰っていった。近田がいなくなったので、寮に住んでいないのは友恵と坂橋だけだった。
「坂橋くんは、自転車でしょ?」
友恵が聞くと、坂橋は、
「飲んだから電車で帰る」
と答えた。
それからしばらく二人で歩き、駅前で坂橋は、
「少し休んでく?」
と友恵に聞いた。
「あ、うん、いいよ」
坂橋がいくらか酔って気分でも悪いのかと心配して、友恵は駅の時計を見た。まだ二十一時過ぎ、どこか喫茶店でも開いていただろうか。
「勉強不足、それどういう意味かわかってる?」
呆れたような声が聞こえて、友恵が前に向き直ると、坂橋が足元の小石を所在なげに蹴った。
「意味、……って?」
友恵がくるっと首をかしげると、坂橋は深いため息をついた。
「俺がマジで口説いてたらどうすんの? 簡単に『いいよ』とか言って、夜に二人っきりで『休んでく?』って言われたら、行き先はラブホだぞ」
友恵は凍りついた。坂橋はふっと微妙な笑いを浮かべた。
「安心しろ、こんな辺鄙な駅前にラブホなんかねえよ。おまえにそういう口説き文句が通用するとも思ってない。冗談だ」
友恵は勉強不足を痛感した。そして、今のやりとりが「部屋に遊びに来る?」「わあ、行っていいの?」という、透と自分のかつての会話と重なって見えた。
(――そうか、今ので、坂橋くんが私のことを『オトした』と思っちゃっても、しょうがないんだ。一緒に休めるところに行こうっていうのは、そういう意味で……そうか、『ご休憩』って言うんだもんね、ラブホテルって……確か)
自分にいわゆる「落ち度」は決してなかったが、認識が甘かったことを反省するべきということは理解した。もちろんNOの意思表示は尊重されなければならないが、危機回避のための予備知識が足りなかった。年頃の女性として、もっとそういう「危険性」について勉強しておくべきだった。
「いつまでもぼうっとしてるな、こっちが恥ずかしくなるだろ」
坂橋はぶっきらぼうに言って先に改札を抜けた。
「あ、ごめん」
友恵はわざと明るく答え、後を追って改札を抜けた。坂橋の背中が近いような、けれど遠いような、不思議な感覚があった。その広い空間に思いをぶつけられたらいいのにと思い、目を伏せた。
駅のホームで、十五分に一本しか来ない電車を待った。次の電車まではあと十分あった。
「……なあ」
坂橋が何か言いたそうな声をかけてきて、友恵は「休んでく?」の声の響きを思い出してドキッとした。数秒の沈黙の後、言葉が継がれた。
「桑津の、企画の課長がどうのこうのって話。あれ……俺が原因」
「え?」
「メンタルケアの相談窓口みたいなの、あるだろ。職場の悩みがあれば、心を病む前に、相談をお気軽にどうぞってポスター貼ってあるやつ。……大げさかなと思ったんだけど、正直、桑津の相手するのがそろそろしんどくて、人事の保健師んとこに『こういうのって相談していいものなんですか』ってことを聞きに行ってみた。あいつ、俺が昼メシ行くのとか、どこからともなく見つけてついてくるし……帰りに待ち伏せされたりもしたし……仕事場でそういうの、俺、ほんとヤなんだよね。保健師さんは、そういう相談でもいいって言って少し話聞いてくれて、その場ではホッとしたんだけどさ、……対処として、その時桑津が所属してた部署の上司に話が行っちゃって。保健師さん、俺が相談したことがわからないように、上手く注意するよう言ってくれたらしいんだけど、企画課長ってああいう人じゃない。けっこう単刀直入に、職場に恋愛を持ち込むなって、婚活なら他所でやれって、言っちゃったらしい。俺が相談したことがバレる言い方では確かにないけど……」
坂橋は長いため息をついた。友恵は自分の足先をじっと見ていた。
「難しいな、人間関係。桑津を嫌いってことはないんだけど、限度はあるんだよ。でも、職場で顔合わせるのに冷たくできないし、うまく距離を取ったりするのが難しくて」
なぜ私に言うの、と友恵は思った。あなたに好意を抱いている私にも、あなたは距離を取りたいのかと、もし拗ねて背中を向けたならどうするだろう――
「おまえは誤解するなよ、俺は桑津とはなんでもないから」
友恵は戸惑った。「おまえは」誤解するなよと言われたのか、単に「誤解するなよ」と言われたのか。自分で答えは探せない。けれど坂橋に問いかけることもできない。
(なら、私は……)
ずっと言いたかったこと。「実はもう、とっくに彼とは別れている」――言ったら坂橋はどう反応するだろう。何の反応もないならあきらめがつく。でも、もしも……「おまえは誤解するな」「私は彼氏と別れた」が、会話として噛み合ったとしたら。
長いためらいの後、静かな駅のホームで友恵が強く息を吸った瞬間、列車到着のチャイムが鳴った。追ってアナウンスが流れる。
(……私、バカなことしようとしたよね。神様、邪魔してくれてありがとう)
もう別れたから彼氏はいない。結果的に坂橋に一歩踏み出すことになるその言葉は重くて、ささやかなきっかけで勇気は消えた。
アナウンスが途切れた時、友恵は少し大人びた声で坂橋に答えた。
「大丈夫だよ、私、坂橋くんが職場に恋愛を持ち込む人だなんて思ってないから。会社で誰かと一緒にいても、別に……」
その先は上手く言えなかった。消えてしまった語尾をつなぐように坂橋が続けた。
「そういうことじゃない。……でも、今は、……いいか、それでも」
電車がホームに入ってきた。坂橋は少し長い一駅だけを電車に揺られ、隣の駅で降りていった。友恵は自宅の最寄り駅まで、そのままじっと座席に身を任せて目を閉じていた。
同期の飲み会の後もしばらく、友恵は愛との休憩を避けていた。どうしても、愛がいつか坂橋とのことを語るのではないかと思うと怖くて近づけなかった。
「さすがに一緒の休憩を断りすぎかな」と気にしていたら、お茶ルームで愛が一人で休憩していたタイミングに行き合った日があった。他の人も来る休憩室でなら無難に一緒の休憩がとれると安心して、友恵が笑顔で「お疲れ様」と隣に座ると、愛は照れ笑いをして即座に口を開いた。
「私この前、坂橋さんを会社の帰りに誘っちゃいました~」
不意打ちだった。友恵の全身は凍りつき、何かを悟られたかと不安に思いながらもなんとか「ふーん」と口先だけで言って、手元を見るふりをして視線をそらした。
「桑津さんとお付き合いしてるんですか? って聞いたら、怒らせちゃいました。誤解するな、誰が言ってた、って」
(……「誤解するな」は……私だけに言ってくれた言葉じゃなかったね、やっぱり……)
友恵は体の力が抜けていくのを感じた。「おまえは」誤解するなと、決して誤解してほしくないと、言ってもらえたと思いたかった。
(よかった、あの夜、駅のホームでバカなことを言わなくて。ほんとに……)
しかも、愛が会社の帰りに誘ったのなら、そこからのデートは深夜に及んだのかもしれない。坂橋と愛は独り身同士、何の障壁もない。だから何一つ聞きたくないし、考えたくない。話の途中で休憩室を出ていったら不自然だろうけれど、できればそうしたい。友恵はタイミングを必死で見計らった。だが決断より早く、愛は思わせぶりなまなざしで友恵を見て、小声で言った。
「……あの人、すごく、よかったです。彼女いないなんて思えないですねー」
ちゃんと、デートはフルコースですよ、という愛の笑顔が友恵の記憶を貫いていった。脳は完全にシャッターを下ろしてくれたが、それは同時に、自分が知りたくないことを知ってしまったサインだと感じ取った。
友恵は返事をしてみせる気力すらなく、ただ漠然と、また駅のホームで過ごした時間を思い出していた。ほんのわずか、「彼氏とは別れた」と言えたら何かが変わっただろうか。でも、踏み出した先にあるのは結局同じ悩みだ。
(すごくよかったのは、何だろう。人柄かな、会話かな、それか雰囲気とか……)
何も考えないように友恵はゆっくりゆっくりそんな言葉を脳裏に並べていた。愛が次に言う言葉に対応できそうにない。
ちょうどそこに総務の女性二人が連れ立って入ってきた。
「おつかれさまでーす」
声がかかって、友恵は反射的に我に返って笑顔を作った。
「おつかれさまです」
「おつかれさまですー」
愛も笑顔で挨拶を返し、そこからは急に話題を変えた。友恵は必死で心にシャッターを下ろし続けながら、世間話に相槌を打った。




