十四 経営危機
友恵はそのニュースを、両親と一緒に見ていたテレビで知った。グループ会社の一社が大幅な負債を抱えて危機に陥り、千人単位の大きな人員削減をするという。
「友恵、グループ会社だと、あんたのとこも何か影響があるんじゃないの?」
母の心配そうな声を耳に重く感じつつも友恵が普段どおりに出勤すると、事務所全員が集められ、緊急の朝礼が開かれた。
これまでグループ会社数社から「こまどりの森」が委託されていた飲食店事業が、この負債騒ぎに伴うリストラの煽りで半分以上切られるという。実質、赤字分の補てんのために相場より高い金額で委託を受けていた事業だったため、こまどりの森の収入源が大きく減少することとなった。
業績の見通しはかなり厳しくなり、冬のボーナスはお茶代程度になるのを覚悟してほしいとの通告がなされた。大卒の新人一同は、「勤めてまだ間もないので、お茶代程度だが」と夏のボーナスとして三万円をもらっただけだったので、初めて「まともな額」をもらえるはずだった冬のボーナスがまた「お茶代程度」というのに落胆した。
その後、友恵たち大卒の新人と、前年に新卒で採用された若手だけが、事務所の奥にある企画課に呼ばれた。専務と企画課長が、前年から大卒を定期採用し始めた理由を「今後は大卒採用のみとして、アルバイトを取り仕切って運営していく」というプロジェクトのためだと説明した。離職者も多く、大半が寮住まいで、人によっては何年勤めても接客態度が改善されない高卒社員の採用をなくし、現場の職員をアルバイトに切り替えて人件費のコストダウンを図るのだという。言葉は慎重に選ばれていたが、つまりは「今後、現場の高卒社員はどんどん切っていく」という意味だ。今回グループ会社が危機に瀕したことで、このプロジェクトを一気に前倒しで実現するのだという。
「どんなに態度が悪くても、社員だとなかなかクビにできないのよ。いつまで経っても頭の中が色恋沙汰と遊ぶことばっかりのガキが園内にいっぱいいるのは、あなたたちも見ていてわかったんじゃない? うちはもう、そういう子たちを遊ばせておく余裕はまるでないんです。現場はバイトで十分です」
企画課長は冷酷に言い放った。友恵は愕然とした。最初に専務が言っていたことを頭の中で何度も繰り返し、無駄にその言葉の矛盾を確かめていた。
『この会社は、たった十八歳で入ってくれた子たちが頑張り続けて維持してきた』『大卒だから優秀とか、高卒だから能力が低いとか、そういうことは決してない』……
だけど結局、「今、高卒の社員の担当している仕事は、バイトで十分」と言っている。「高卒だから、現場だから」という意識は上の人たちこそ根強く持っていたのかと友恵は悲しくなった。確かに園内には「そんな接客態度では……」という不真面目な職員が何人もいる。でも、若くして尊敬できる、立派な職員だっている。
(イベント警備の主任さんは、「態度の悪い高卒社員」に数えられちゃうんじゃないかな。あんなヤンキーなしゃべり方に、ガンを飛ばしてるみたいな態度じゃ……)
質問は、と最後に問われたが誰も口を開かなかった。疑問、質問、聞きたいこと、言いたいこと、たくさんあるのは友恵も他の大卒新人たちも一緒だ。だが、企画課長に説明された「グループ会社からの委託事業でなんとか経営が成立していたが、今後は年間一億円近い赤字経営になる恐れがある」という事実を前に、青臭い疑問や無知な疑問を呈することはできなかった。
「億」という数字。ニュースで見聞きはしても、これまで、自分たちには縁のない金額だった。けれど、もう自分の生活に直結する数字になった。「こまどりの森」の年間売り上げは、グループ会社からの委託事業と土地の賃貸収入を含めて五億円程度だという。それが今後、委託事業の減少で、四億円程度になるかもしれない。現在七十人ほどいる職員の給与に社会保障などの企業負担分を合わせると人件費だけで三億五千万円近くかかっているという。
「四億の売上のうち三億五千万が人件費で消えたら、会社が立ち行かないというのは想像できると思います。だから給与基準も下げていくしかないし、人も減らすしかありません。目標は人件費二億円未満にすること。この改革をするために、昨年から大卒を採用して、今こうして育てています。理想は、あなた方が三年後に主任になって、現場の大半の仕事をアルバイトに任せて監督していくこと。アルバイトなら繁忙期に多く採用して閑散期は減らせます。アルバイト一人の年間給与額は百万前後。バイト五十人と三十人の社員で運営できれば人件費は約二億円まで下がります。それだって社員七十人より多い八十人体制だから、やっていけるはずですね。数年は赤字になりますが、五年後から黒字運営にできるように経営計画を立てています。あなたたちには、それをやってもらいます。新入社員にこんな話は酷かもしれないけど、会社の経営ってそういうシビアなものよ。幹部候補として、早い段階から高い意識と経営的な視点を持って仕事に当たってください」
半年ちょっと前は、親のすねをかじって大学に行き、大した勉強もせずに単位だけ稼いで卒業することを考えて、楽しい暮らしができれば十分だった。けれど社会人になったら突然、勤め先の経営状態まで背負わされた。友恵は自分の置かれている立場の変化についていけずにいた。
(やっぱり、私、もっと大きい企業に行って、下っ端らしいことから順々に、ゆっくり責任を重くしていってもらいたかった……)
友恵がその日の午後、重苦しい気分で休憩に入ると、遠山が先に来て座っていた。
「遠山くん、……重いね」
思わず友恵はそう呼びかけた。遠山は友恵を見て、次の瞬間にはいくらか芝居がかったような笑顔を作ってみせた。
「新入社員のうちから、ああいう経営状況まで説明されて、会社全体を俯瞰する視点を持たされるのは貴重なことだよ。俺はそう思うことにした。友達で、新卒から派遣社員になった奴もいっぱいいるけど、半年経ってすごい差がついたのがわかる。あいつら、どこに移れば時給が何十円上がるとか、あとはパソコンのちっさい資格を取るとか取らないとか、そんなことしか話さない。自分のスキル形成、それも時給を上げるためのネタを集めることが自分の『仕事』になっちゃってる。――俺もね、最初は俺がこの会社にどう育ててもらえるか、どんなスキルが身につけられるかってことばっか考えてたけど、今回のこの事態で、会社の財務がどうで、人件費をどこまで圧縮しないといけないか、その中で顧客にどうやってより良いサービスを提供していくか、そんなことを考えさせられたのは恵まれてる。日本の経済の中でレジャー施設の置かれてる立場がどうで、レジャー産業の中ではここがどういう位置づけで、どういう役回りがあって、グループ産業の中ではどうなのかってことを理解できるように勉強していくよ。三年後に主任で何人見るとかじゃない、三年後にうちの課長の仕事がなくなるように、そのくらい上にいってやる」
友恵は、遠山のその言葉のいくらかは強がりなのだろうと感じた。けれど、そう思うことができたら、実際にそう育っていくのだろうとも思った。「どうしよう」とうろたえ、「会社は大丈夫なのか」と不安を抱えて日々を過ごしても、成長には結びつかない。
とはいえ、まだそんなふうに前向きになれるほどの力は自分にはなかった。そして友恵は、この「前向きに考える力」が社会人の能力の一つなんだろうと漠然と思った。
「大木は、やっぱ不安?」
「……うん」
お茶を汲んで友恵は座り、正直に答えた。遠山は励ましてくれた。
「幸いにして、この会社じたいは小さいけど、グループはでかいから、沈むとしても沈みきるまでに三年くらいはかかると思うよ。専務も言ってたじゃん、黙って三年やってからって。この会社に三年、それも幹部候補扱いでああやって経営上の情報を聞かされながら三年いたら、そんじょそこらの連中より相当意識も能力も高くなる。そこから転職したら全然違うはずだよ。俺は黙って三年やる。おまえも、がんばろうぜ」
友恵は力なくうなずいた。それから意識してもう一度強くうなずいた。
「ありがとう、私も頑張る」
実際は何の覚悟もできていなかった。園内の人たちと仲良く楽しく働いて、この会社をよくしていくイメージを持っていた。そのために頑張ろうとは思える。でも、それだと売上四億、人件費三億五千万――。これを会社の上の人たちがどうにかしてくれるわけではない。三年後には一人前になって人を使う立場にならなければいけない。園内を支えていた人たちがいなくなった分、失われるものはどう回復していけばいいのだろう。
遠山の強さがうらやましかった。目的を持って社会人になった遠山と、ただ「会社に入る」ということしか考えていなかった自分との差を、友恵は痛感した。
すぐに、現場職員を対象にした大規模な希望退職者募集のお達しが出て、園内が不穏な雰囲気に包まれた。公式に発表はされなかったが「内々に」の形で各部署の長から給与が下がるらしいとも告げられていて、社員食堂でも、誰が辞める、自分も辞めたいなどの話ばかりが飛び交っていた。
九月の連休でプールシーズンが終わるので、プール課の人たちはその後片付けをしながら公休と有休を少しまとめて消化したあと、十一月から順次出向がはじまる。彼らは、早い人でゴールデンウィークに間に合うように出向先から戻るが、プール課が次に揃うのは六月半ばになる。
友恵はちょっと勇気を出して、休み時間を使ってプール課の主任に会いに行った。そして「お昼休みか、仕事の後に、少し話をする時間をもらえないか」と問いかけた。恋愛的な意味に取られないよう、一生懸命「事務所以外の、誰か現場の人と話したくて」と言ったものの、友恵は自分で「だったら女性の副主任さんにすればいいのに」とそっと思った。
「光栄だな」と言って、主任は快諾してくれた。そして「社食じゃ話しづらいこともあるだろうし」と、仕事の後に駅前の喫茶店に行ってくれることになった。
終業後に正門前で待ち合わせて、友恵は主任と駅前まで歩いた。坂橋の自転車が通りかかったらどう思うだろうと少し気になったが、遭遇しなかった。
喫茶店で主任と向かい合って座ると、友恵はたちまち気恥ずかしくなった。でも心の中に、「出向に行ったあと、もうこの主任さんは戻ってこないのではないか」という思いがあり、なぜか話をしたかった。「友人A」の話だとは言ったものの、自分の現在の深い悩みを打ち明けた相手でもあり、歯に衣着せずにいろいろなことに答えてくれた人でもあり、友恵は信頼と強い憧れに突き動かされていた。
「あの、退職者募集が出てますけど……主任さんは、辞めるとか、考えたりしますか」
友恵は問いかけてから、その質問に恋愛的な意味がないことをちゃんと伝える必要性を感じて慌ててフォローした。
「すみません、個人的なことを聞いて。私たち、事務所にいるから、現場の皆さんって今どんなこと考えてるのかなと思って、主任さんならいろいろわかってそうだから……」
主任はクスッと笑い、すぐに友恵の心境を看破してみせた。
「大木さん、大丈夫だよ、変な意味で呼び出されたとか思ってないから。ちょっと頼りにしてくれてるのかなって思ってはいるけど、君が俺狙いなんじゃないかとか、そんなことは考えてないよ。今年の大卒の女の子三人とも彼氏もちっていうのはみんな知ってるから、誰も誤解しないし、安心して」
友恵は自分が独り者だと知られていないほうが便利なことを自覚した。確かに主任に好意を持っているし、だから勇気が出せた側面はあるが、恋愛のつもりは毛頭ない。それがわかってもらえるのは安心だった。
主任は答えるより先に、逆取材をしてきた。
「逆に、事務所ってどうなの、事務所も退職者は募集されてるの。……現場だけかな?」
主任の声の響きに友恵は伏せていた目を思わず上げた。事務所に退職者の募集は出ていない。友恵たちには「高卒の職員(主に現場の社員)」を減らしたいとはっきり話があった。主任はだいたいそのことを察しているらしかった。
「あ、いえ……私たちはまだ、新人だから、あんまり詳しいことはわからなくて……」
友恵は嘘をついた。新人なのに自分たちは大事なことを教わっているなんて、告げる必要はなかった。
「大木さんは辞めたいと思ってるの?」
その問いには即答できた。
「いえ、まだ半年しか勤めていませんから」
この段階で辞めたら世間的には「短期間で仕事を辞める、問題のある人」としか思われないだろう。「黙って三年」までできるかわからないが、今は辞められない。
「そうなんだ。じゃあ、今日、俺に何を聞きたかったの? もちろん、なんとなく俺と話してみたかったっていうのでも嬉しいけど」
落ち着いた低音の、優しい声の響き。友恵はその振動を心底心地よいと思った。価値観がこんなに遠くなければ好きになってみたい。決して相容れないだろうから、やっぱり恋をする気にはなれないけれど、男性としてとても魅力的だと感じた。
「あの……自分でも、何を具体的に聞きたかったのかはわかりません。でも、現場の人が減ってしまうのは、不安です。研修であちこち入らせてもらって、頼りになる、素敵な先輩がたくさんいました。……みんな、いなくなっちゃうのかなって。なんかその、主任さんも、この後出向に行って、帰ってくる前にいなくなっちゃうのかなって。もしもいなくなるならもっとお話をしたいと思ったし、なんか前に変な話をしちゃったことあるから、お礼も言いたいなとか……なんか、いろいろ」
要領を得ないことを友恵は懸命に言い募った。主任は穏やかな大人の微笑みで友恵を受け止めてくれた。
「社会人半年で、いろんなことがわかってきた頃に会社が不安定になって動揺してるのかな。俺たちも、何人も辞めちゃうのは不安だし、でも多分そうなると思うし……ただ、毎年何人かは辞めてたから少し慣れてる。君たちはまだ、身近に退職者が出るっていうのも慣れてないもんね。今年の大卒は一人、辞めたっけ? でも大卒の人ってけっこう辞めないもんね」
友恵は主任の様子を、まるで子供の相談に乗る大人みたいだと感じた。休憩時間に同僚とくだけた話をしていた時とは違う。会社で十年以上を過ごした人と、半年でまだ右往左往する自分自身を比較した。
「主任さんは、転職とか……考えたりすることって、あるんですか」
問われて主任は穏やかに答えた。
「俺は地元でプールの監視員のバイトやってて、プールの仕事したいなって思ってたから、とりあえず東京に行けるってだけでここに来ちゃったんだよね。寮もあるし。けど、勤めてたらいろんなことがわかってきて、けっこう前からもっと大きなレジャー施設か、プール運営会社やプールの安全衛生認定の法人に行きたいと思ってたんだ。三十前に移りたいと思ってたのに、ここが好きで、もう三十になっちゃったなあ……。いいきっかけかもね、俺もここを卒業することを考えようかな。結局今だって半年以上はプール以外の仕事してるし、本当は、プール以外の仕事でもいいのかもしれないね」
「……辞めちゃうんですか?」
「あまり難しいことは考えたくなかったんだけど、十年後にも夏はプールの現場、冬はスキー場とか、やってられないだろうなって思って。会社が人を減らしたいなら、プールなんて客の少ない夏にしか開けないんだから、真っ先にリストラ対象でしょ。夏だけのバイトを雇えばいいんだし」
友恵はギクッとした。年の半分しか「こまどりの森」にいなくて、ずっとプールの現場仕事をしてきた主任だって、社内全体を見渡して「プールは夏だけのバイトを雇えばいい」と感じている。課長や専務の考えていることは、確かに非情かもしれないが、客観的事実なのだろう。
(新卒を採用して現場を急に任せるんじゃなくて、こういう、現場のきちんとした人を引っ張り上げて中心に据えていくっていうのはできないのかな)
そう思ったものの、もしそうであれば自分はこの会社に採用されていなかっただろう。そうした形で採用されたからには、出ていく人の分まで責任が生じる。適応していくしかない。
それからしばらく、プールのことや出向先のことなど、主任が楽しい話をしてくれた。友恵は心ときめく幸福な時間を過ごすことができた。最初はお茶だけのつもりだったが、結局長く過ごしてしまったので、そのままその店で一緒に食事をした。
会計は主任がもってくれた。友恵は「自分が声をかけたのだから」と遠慮したが、「後輩の女の子相手に、ワリカンはできないよ」と強く言われてご馳走になった。
駅のすぐそばの喫茶店だったので、主任は駅まで友恵を送ってくれた。
「いろいろすみませんでした。なんか漠然とした話のためにお呼び立てしてしまって……」
友恵は深々とお辞儀をした。主任は優しい微笑みを絶やさなかった。
「いや、大卒の子って現場のことなんか気にもしないんだろうなと思ってたから、そうじゃないってわかっただけでもよかったよ。声かけてくれて嬉しかった。俺は来週はほとんど休みだし、再来週くらいからはもういなくなるけど、次の夏には帰ってくる。あと一回だけ、ここの夏を勤め上げたら、それを最後にしようかな。だから大木さんも、大変だろうけど頑張ってね。来年の夏、必ずまた、こまどりで会おうね」
なんて素敵な人だろう。友恵は感激して、何度も振り返ってお辞儀をしながら改札を抜けた。自分がとても情けないけれど、この主任に再会するために、次の夏までは頑張れる気がした。そして、それまでにはきっと、この会社を支えていく自覚と覚悟を育てようと思った。




