十三 大卒食い
夏が終わり、九月、一人の新人が入社してくることになった。年齢は十九歳、高校卒業後に他社に勤めたものの、上手くいかずに一年半で退職したという女の子だった。なぜこんな時期に、職務経験も中途半端な人物が突然やってきたかというと――
「あの子、本社(グループ会社の中枢の大企業の通称)の社長の二女だって」
「うわっ、マジか! 面倒くせぇ」
「大学行けって言っても聞かないし、勤め先世話してやっても一年ちょいで挫折するし、問題児らしいよ。どうもまずいんじゃないの~、ウチで預かるの」
友恵はそれを事務所の休憩室で聞いた。さいわいその「問題の子」の配属は人事課になるらしく、自分は面倒なことにならないだろうと思って気にしなかった。
いざ、その彼女――垣内 愛がやってきてみると、前評判とは違い、ごく普通そうな子だった。グループ会社の社長からは「厳しく育ててもらったほうが助かる」とのお達しがあったらしいが、さすがにグループ末端の企業の者がグループの中枢をなす企業の社長令嬢に、誰一人厳しくできるはずなどなかった。
愛は友恵より少し背が高く、ふんわりパーマの髪を可愛くまとめて女の子らしく装っている。やや細身、態度はどこか異性に媚びるようなしぐさが見られた。周囲の人に積極的に話しかけ、明るさと可愛さを振りまいて、社交性は十分にありそうだった。仕事ぶりについては人事課の人しか見る機会はなかったから、仕事の上で「問題のある子」なのかどうかはまるでわからなかった。
友恵も、休憩室で何度か愛と話をした。好きなタレントや昨日見たテレビ、行きたい旅行先、話題のスイーツなど、ありきたりの話題に付き合って、無難に関わっていられた。
だから、ひと月が経った頃にそんなウワサを耳にして、友恵は驚くことしかできなかった。
「あの子、『大卒食い』だわ。もう何人か、食われたって」
愛は、大卒の独身男子にばかり目をつけて次々深い関係に誘っているという。だがそれは、友恵にはSFファンタジーくらい現実味のない話だった。そんな人がいるはずはない。男にだらしない人はいても、なぜ「大卒」というくくりで、しかも会社の男複数名と関係するのか。必要性もなければメリットもない。
だが、周囲の人たちの話を総合すると、「○○食い」というタイプの女の子はよくあるらしい。「オヤジ食い」とか「寮生食い」とか、そんなウワサがあった子は過去にもいて、ただしそういう子は仕事が2年と続いたためしがないとのことだった。それもまた「こまどりの森」の社内文化の一環と言えた。
友恵には、そういう「文化」はとんと理解できなかった。
(……そのウワサが本当でも本当じゃなくても、私の仕事には関係ない)
心の片隅で、どうしても坂橋のことは気にかかった。ただ、そのたびに「ヤラせてくれなそうだから、ナシ」という言葉がよぎった。自分には資格がないのだと何度も唱え、友恵は仕事のことだけ考えて会社での時間を過ごした。
「大木さんって、誰にでも平等に話してくれる、いい人ですね」
ある日の休憩時間、愛が突然そんなことを言ってきたので友恵は驚いた。
「私が本社の社長の娘だからか、皆さん、なんか冷たいです。表面上は親切なんだけど、だんだん距離を取っていくみたいな感じで……」
ああ、と友恵は思った。「大卒食い」のウワサは、すでに当事者かもしれない大卒の若手男子だけを慎重に飛び越えて、女性一同と中年以上の男性社員の間にすっかり広がっていた。態度がよそよそしくなったのはそのせいだ。
友恵はその「大卒食い」をなお理解できずにいた。愛の見た目からは「男にだらしのないダメ女」のような気配はまったく感じられない。友恵の中で、そんな評判を立てられる女の子はいわゆる「あばずれ」的なガラの悪いタイプのはずだった。可愛いと言えなくもないくらいの普通っぽい見た目に、「イマ風」くらいのノリの典型的な若者。この「こまどりの森」の高卒の女の子の中ではむしろ地味なほうだ。
こまどりの森で「本社」と言い習わしている超巨大開発会社についても、友恵は名前くらいしか知らない。「何やら一流大企業らしい」ところのお嬢さんがたまたま目の前にいる、それだけだ。
「ゴメン、多分私が鈍いんだと思う。なんか、本社のすごさがピンときてなくて……。まだ入社半年だし、世間知らずの未熟者だから……」
友恵は恐縮した。「大卒食い」って何だろう、と頭の中は空回りしていた。
そんな会話以来、愛は友恵を慕ってくるようになった。いささか不真面目で世間に対する認識が甘いところはあったが、愛が十九歳と考えれば、友恵にはそれは妥当なものに思えた。友恵自身、十九歳の時にはひどく甘くてすべてに無知だった。
愛は時々、自分の休憩時間に合わせて宣伝課の友恵を呼びに来た。友恵は周囲に気を遣ったが、「どうせどこかのタイミングでは休憩取るんだから、いいよ」と主任に言われて、それ以来愛が呼びに来たら極力都合をつけてあげた。事務所の人たちは、本社の社長令嬢を扱いかねていたので、友恵が親しくなってくれたのを総じて歓迎していた。
最初は共通の休憩室の「お茶ルーム」を使っていた愛だったが、自分がどこか浮いているのを感じるからか、次第に女子休憩室に友恵を連れていって籠もるようになった。友恵はみんなのいるお茶ルームのほうがよかったが、愛と一緒の時には閉鎖的な休憩を取るのもいいことにした。
そんな休憩が何度もあって、それなりに親しさを育てた頃、愛は無邪気に友恵に聞いた。
「大木さん、彼氏いるんですよねー。うちの会社ですか?」
なぜか、友恵の第六感が危険信号を発した。「彼氏はいない」という話をしてはいけないというシグナルが散った。
「あ、いや……大学の人」
友恵は答えた。あまり勘のいいほうではないのに、自分の中で弾けたものが不思議だった。
「そうなんですかー。じゃあ、おしゃべりしちゃっても大丈夫ですねー」
愛の「エヘッ」という笑顔に、友恵の血の気がすっと引いた。絶対に楽しい話ではないだろう。
「実は私、すっごい彼氏募集中でー。社内の人と、けっこう、デートとか行ってるんですよー。彼女いる人とかも誘っちゃったりしたから、その中に大木さんの彼がいたかなって、ちょっと不安になりました。社内の人じゃないんなら、よかった。でも、大木さんがライバルでも、私、多分気に入った人だったら闘ったけど。いい男ほど、彼女、いるし」
怖い、と友恵は思った。彼氏はいないと言ったら、じゃあ社内で誰がいいかと聞かれるような気がした。
(私が坂橋くんのこと、気になるって知ったら……あえてそういう人を狙う子だ、きっと)
友恵は時計を見た。休憩時間はまだ残り五分以上あった。愛が別の話を始めることを祈ったが、それは叶わなかった。
「あのですね、宣伝課で言うと、小田さんと……ちょっと、エヘ」
その声には特定の方向性の「含み」があった。「大卒食い」の話からして、そういう意味だろうか。勘弁してよ、と友恵は思った。小田は三つ上の、中途採用の大卒社員だ。友恵が仕事で毎日必ず会話する相手だから、余計なことは知りたくない。他人である男性の性的なことを匂わされるだけで不快だ。耳を塞ぎたかったが、逃げ場はなかった。
「ホテルまで行っといて、やっぱり付き合わないとか、ナシだろ~みたいに言われましたけど……」
愛は小田と関係を持ったらしい。だが友恵はそこを理解することを本能的に拒絶した。自分の中で安全装置が作動したような感覚があった。「ホテルに行った」という話が「どこかの建物に入った」以上の意味には受け取れなかった。
「結局なんか違うなーって感じがして、小田さんはやめて遠山さんにしようかなって思ったんです。遠山さんって、確か、大木さんの同期でしたよね」
どうやってこの話を止めればいいんだろうと、友恵は呆然としながらも必死に考えていた。遠山には結婚の約束をした彼女がいる。友恵は彼の夢に尊敬を抱いている。遠山が彼女を裏切って愛とデートに行き、その結果……なんて話は聞きたくない。一切、話してほしくない。安全装置はどこまでもってくれるだろう。
「そういう話、するの……やめときなよ」
友恵はなんとか必死の作り笑いをして、明るい口調を取り繕って言った。
「えー、私、話す相手は選びますよー。大木さんにだけです、しゃべってるの。だから心配しないでください。でも誰にも言わないでくださいよー」
(そうじゃなくて、私が聞きたくない……。どうしよう、逃げ出そうか……)
「そうそう、それでね、休日に、どこかいいところ案内してくださいって言ったんですー。二人で出かけましょうよって。そしたらね」
心も頭も何もかも追いつかない。次の言葉を聞きたくないのに動けない。何かよくわからない圧倒的な力の差を感じた。
「彼女に怒られちゃうからダメ、ってあっさり言われました。彼女にナイショで、いいでしょ、って可愛くお願いしてみたんですけど、絶対ダメだって!」
友恵の気持ちにぱっと明るい光が差した。さすが遠山だ。だが愛の感想は違っていた。
「先輩に対して失礼な言い方になっちゃいますけど、超~、つまんない男ですよね」
うすら寒いものを感じて、友恵は何も言葉が返せなかった。
(そうか、私は、この子と親しくなっちゃいけない立場だったんだ……。価値観が合わない、っていうより価値観が遠すぎてまともに交流できそうにない……)
しばらく愛の「あの部署では、あの人とデートに行きました」の話は続いた。やがて休憩時間は終わり、二人で職場に戻った。友恵は、その会話に坂橋の名が一切挙がらなかったので、とりあえずはホッとした。
友恵は仕事に戻ってもしばらく愛の話にかく乱されていたが、ふと気がついた。
(……そういえば垣内さん、小田さんとは何かあったみたいに言ってたけど、遠山くんには「二人で出掛けよう」って言っただけだ。周りの人が「大卒食い」って言ってたから、小田さんにも遠山くんにも変な誘いをかけたみたいに思ったけど……。垣内さんは、小田さんと恋愛する気だったんだよ、その時はきっと。遠山くんには「お出かけしよう」って言っただけ。私も毒されたっていうか、発想がちょっといかがわしくなっちゃったな。反省しなきゃ……)
だが、その安堵はつかのまだった。翌週、愛はまた友恵を女子休憩室に連れ込み、
「佐藤さん、誘っちゃいました」
と言った。友恵は「うんうん、デートに行っただけだよね」と、努力して温和な笑みを浮かべて寛容を装った。そしてすぐ、「え、でも、佐藤くんは園内の彼女が……」と思い、動揺した。他の女性とデートに行っただけだって当然裏切りだ。
「ちゃんと、デートはフルコースですよ!」
愛の笑顔に、友恵は「佐藤くん、いいカッコして、食事奮発したんだな。でも彼女のことは裏切ってるよね?」と思いつつ、「ふーん」という顔だけは作ってみせた。
「それで最後にホテルに行ったら……」
聞き流していた友恵の脳天に落雷があった。地面に通り抜けていくような衝撃と痺れが全身を貫いた。
(フルコースって、そういうフルコース? つまり全部、最後まで――)
愛は小田とホテルに行った。遠山は誘いを断った。佐藤はホテルを断らなかった。そんなの、知る必要はない。誰と誰がどうなろうと、関係ない。気持ち悪いし、怖い。見る目が変わってしまいそうで……
(お願いだから、坂橋くんの話はしないで。坂橋くんが誘いに応じるか応じないか、私にどうこう言う権利はない。でも話は聞きたくない。絶対に嫌だ)
心の中で必死に繰り返したが、それを愛に言ったら最後だ。悟られないように必死で平静を装った。
「あ、大木さん今、フルコースって何、って顔しませんでした? 私、デートはいつもちゃんと最後ホテルまでフルコースのつもりで気合い入れていきますよ。相手によっては途中で帰ったりもするけど、やっぱひと通りこなしてワンセットですから」
(ひと通り。こなす。ワンセット。フルコース。なんだろう、この感性。理解できない。プールの主任さんに聞いてみたい。こういうのは、主任さんたちだったら、それはそれで普通なの?)
愛は嬉しそうに笑って、邪気のない目でまっすぐ友恵を見上げた。
「でもこういう話って、彼氏いる人相手じゃないとなかなかしゃべれないですよね」
こんな話、やめよう――と、友恵は心底言いたいのに、なぜかどうしても言えなかった。愛がまた口を開いた。
「そう、それでね、佐藤さん、あれはすごかった、人生最大の驚きでしたー」
友恵はできるだけ心のシャッターを下ろそうと頑張った。表情だけは繕いつつ、愛の声が少し遠くに聞こえた。
「大木さん、あのね、佐藤さんねー、いよいよって時に、ゴメンねって謝って、服着ちゃったんです。人生初! あんな経験」
急に現実が友恵のそばに戻ってきた。
(そっか――佐藤くん、浮気、できなかったんだ……)
ホテルには行ったようだから、途中までは浮気するつもりだったのだろう。そこは厳重注意といきたい。でもやっぱり最後には浮気を実行できないなんて、なんてカッコいい誠実さだろう。
(うん、そうだよね……私がおかしいわけじゃない。みんな、真面目で誠実で、いい人たちばっかりだよね。この子の感性が特殊なだけ、私は皆を信じていいよね)
悦に入る友恵とは逆に、愛はひたすら苦情を申し立てていた。
「だったらホテルに行くな、ですよねー。私の立場とか、プライドとか、そういうのはどうなるんだよー。ほーんとちっせえ男、私、絶対佐藤さんはナシだと思いましたー」
(遠山くんと佐藤くんがいい男だってこと、あなたには絶対わからないんだろうね)
友恵はそう思って心の中でうなずいた。でも――
(坂橋くんは彼女がいないんだから、この子と何かあっても、それは自由なんだ)
その瞬間、愛がそれを聞きつけたかのように坂橋の名前を口にした。
「大木さんの同期って、あと、坂橋さんがいますよね」
友恵の呼吸が止まった。幸いその気配を感じ取ることなく、愛は口を尖らせて続けた。
「あの人、俺様っぽくてスキがないんですよねー……。自信家みたいだし、美人の彼女とかいそう。あ、――そういえば、桑津さんって、あれはもしかして? 美人ですよね。なんか社食で、二人でいるの見たかも」
友恵は「愛はまだ坂橋には手を出していない」という事実を聞き取った。だが時間の問題という気もする。りえ子をどういう立場だと愛に認識させたら坂橋が安全かと一瞬のうちに真剣に考えたが、それよりも、自分が坂橋にいくらか重きを置いていると知られてはならない。なんでもないふりを最優先にした。
「んー、あの二人は、時々一緒だったりもするけど、異性として仲がいいっていう話は特に聞かないな。どうなんだろうね、私は社内の男子にそんなに興味ないから」
友恵がめいっぱい平静を装って上滑りに答えると、愛はからかうようなまなざしになって友恵を指先でつついた。
「彼氏が一番ですかー。のろけかあー。いいなあー」
とりあえず危機は一旦回避した、と友恵は思った。決して安全ではないことを理解してはいたけれど、それでも「今」坂橋がとりあえず無事なだけでもいい。
「ねえ、垣内さん……もっと自分を大切にしたら……。だって、それじゃ、男子の側からしたら……つまみ食いさせてくれる女子、みたいな感じじゃない。大切にしたほうが……」
友恵はめいっぱいの忠告としてそれだけ言った。しかしどうやらそれは、愛には響かなかった。愛はまなざしだけ大人の女性の顔をして、意味深に抑揚をつけて言った。
「私、付き合ってからガッカリするの、嫌なんです。そういうのも全部、合う人じゃないと付き合えないから」
友恵はそれからしばらく、愛が誘いに来ても「ちょっと手が離せない」と断って、一緒に休憩するのを避けた。「あっ、ゴメン、今だけは」と慌てて言ってみせる芝居だけが上手くなった。
『そういうのも全部、合う人じゃないと付き合えない』
まただ、と友恵は思った。恋愛には、イコール「そういうの」――性的な関係が直結している。最初のデートから「フルコース」と称してホテルまでを前提に考えている女の子がいるなんて、友恵はまるで理解できないが、愛はそれを特別だとは思っていない。社員食堂で時々現場の子たちの性的にあけっぴろげな会話を耳にするが、その感性は愛とさほど隔たりがなさそうだ。
友恵は自分の感覚が世間一般の常識であり標準だと思っていた。でも、人それぞれだし、まるで人種が違うかのように、それぞれ「標準」が違う。
坂橋はどういう「標準」を持っているのだろう。でもきっと、フリーである以上、愛に誘われたら断らないのだろうと思うと友恵の気持ちは曇った。「据え膳食わぬは男の恥」という言葉があるのは知っている。
今日にも愛が坂橋に声をかけるのかもしれないと思いつつ過ごす日々は、決して心地よいものではなかった。毎日、帰り道では背後から声がかかるのを待っていた。けれど坂橋の気配を感じることはなかった。




