十二 社員慰労会
八月、思いがけないニュースが流れた。近田の退職だった。九月入学のできる大学院に行くため、八月末で退職するという。同期で送別会を……という話になり、友恵は「私が行かないほうが、近田くんとしてはいいのでは」と遠慮してみたが、幹事の坂橋に「気にせずに来い、離れて座れば気も遣わないだろ」と言われて参加することにした。
だが飲み会では、りえ子が終始坂橋の横にいて妙に世話を焼いているのを見ることになった。友恵は「そうか、そういうことになったんだな」と思って心の扉を閉ざした。友恵がいささか二人を気にしている様子を見て、紗莉が教えてくれた。
「くわちゃんは、彼氏、お金がない人だったんだって。親がお金で苦労した人だから、結婚相手はちゃんと稼いで貯金もできる人にしたいと思ったらしくて、彼氏とは別れたみたい。結婚相手としていい人を探し直すんじゃないかな」
そう、それで見つけたならよかったねと、友恵は作り笑顔で言った。飲み会では「プールの主任さんがめちゃめちゃカッコいい」という話をことさら大げさにすることで、坂橋と心の距離を取ることに努めた。
近田が去っても友恵の生活には何の影響もなかった。友恵は日々宣伝課で精進し、時々社員食堂でプール課の主任を見かけることを楽しみにしていた。何度か、食堂で坂橋とりえ子が一緒にいるのも見たが、気にしないように自然に視線をそらした。
夏休み期間が終わり、「こまどりの森」恒例の「社員慰労会」が開催された。社員食堂の調理スタッフと総務だけはてんてこまいだったが、終業後の夕暮れ時から、プールエリアにテーブルなどを設営してごちそうが並び、屋外での一大立食パーティーになった。
大卒新人はできるだけ多くの部署の人たちと交流するようにというお達しが出ていて、友恵は研修でお世話になった人たちを中心に挨拶に回った。特に、イベント警備の主任とプール課の主任のところに行くのを楽しみしていた。
「おう、大木、元気にやってるか!」
背後から大声で呼びかけられて友恵は振り向いた。イベント警備の主任がコックの帽子をかぶり、ビニールの長い前掛けをして立っていた。
「……主任、その格好は……?」
イベント警備の主任は笑った。
「おまえ、俺がイベントない時、何やってると思ってんの?」
言われてみれば、イベントは毎週末必ずあるわけではない。また、「園内イルミネーション」のようなイベントの場合はイベント用に警備を配置する必要がない。友恵はくるっと首をかしげた。
「俺、普段は、食品の仕入れ管理担当。コックはやんねえけど、園内の飲食店と社員食堂の食い物の仕入れ、やってんの俺だからな。これ大事、覚えとけよ!」
友恵はまるっきり知らなかった。イベント警備と通常の園内警備の部署が違うことは理解していたが、食品の仕入れ管理と兼務だったとは……。
食品の目配りに忙しそうなイベント警備の主任を見送り、友恵は次にプール課の主任を探した。ひときわにぎやかなプール課の輪の中に、制服の白いポロシャツを着て涼しげに主任は立っていた。友恵は少し離れた位置からしばらく様子をうかがい、主任が食べ物を取りに輪を離れたところについていって声をかけた。
「あのっ、主任さん、大木です、お疲れ様です」
ドキドキしたが、ちゃんと言えた。プール課の主任は友恵を振り返り、笑顔を見せた。
「あちこち回ってるんだ、挨拶? 偉いね」
「研修でお世話になった人には、ひと通り……。主任さんで最後です」
背の高さ、胸板の厚さ、腕のたくましさ、そして声、すべてがカッコいいと友恵は思った。これまで自分の周りにいなかったタイプ。
「大木さんと言えば……ひとつ、すっごい謝らなくっちゃと思ってたことがあったなあ」
「え、何ですか?」
「前に、俺が控え室で下品な冗談言ったの、大木さん、全然意味がわかってなかったんだって?」
恥ずかしい記憶が蘇り、友恵はぱっと赤くなった。
「ウチんとこの副主任の子が、つまり今の下ネタはこういうことだって説明しなきゃならなかったって、すっごい怒ってて。そういう純粋な女の子には、リアルな冗談はショック大きいからって、生々しいこと言ったの土下座して謝ってこいって言われたよ」
「いえ、そんな」
友恵は掌を胸の前に出して必死で横に振り、「もういいですよ」の意思表示をした。
「でも、俺、逆に聞きたいんだけど……」
主任は少し小声になり、わずかにかがみこんだ。友恵は、主任の顔がやや近づいてドッキリした。
「真面目な人たちって、友達同士で、彼氏の話はしないの? Hのこと、なんかズバリ言うのも憚られるから、アレとかソレとか言うでしょ。結局それだとわけがわからなくて、アレはこういう言おうとか、変な例え言葉が定着していかない? で、つまりそれってそういうことだなって、ピンとくるようになると思うんだけど……」
友恵は目をしばたたかせた。そして言葉を選び、答えた。
「彼氏がどうとかの話はします。でも、どこまで進んだとかは……」
今度は主任がまばたきを繰り返した。
「どこまで進んだって、どういうこと?」
友恵は何を聞かれたかわからなかった。それでも一生懸命答えた。
「どういうことって、だから、恋愛関係で、どの段階まで進んだかです。手をつないだとか、肩を抱いたとか、その先とか……」
「え、どこにどうやって触ったか、ってところから話すの? 細かいところまで?」
主任の心底不思議そうな表情に、友恵は「そもそも」の位置取りが違うことを察した。彼らは「最初から触る恋愛」をする。友恵の認識は「次第に触れていく恋愛」が当然だ。だから友恵は「どこまで進んだ、進まない」のカウントをするが、彼らにはそのカウントがない。きっとこのまま話を続けても互いに噛み合わないだろう。
そもそも恋愛や性的なことに対する文化が違いすぎるのを感じて、だったら……と、友恵は価値観の違う主任に相談してみたくなった。
「あの、主任さん、話のついで……じゃないですけど、ちょっと聞いてもらってもいいですか? あの……友人Aの話なんですけど……」
主任は黙って乗り出して、「聞くよ」という意思表示をしてくれた。
「友人Aは、十一月に男と付き合いはじめて、クリスマスにキスまで進んだんです」
「えっ」と叫ぶかのように、主任の体が少しのけぞった。
「やっぱ、大卒の子は真面目なんだ、キスするのにひと月かかるの! 俺は無理だなあ」
「あ、あの、大卒全員っていうわけじゃなくて、あくまで友人Aの例です」
「……あっそう、でもまあ、とにかく、その友人さんは、すごくすごく真面目な子なんだね。相手の男に同情するな。俺は付き合えないね、Aさんとは」
友恵は表情に出さないように装いつつ、恋愛的な感覚に衝撃を受けてわずかの間、言葉が出なかった。キスまでひと月が「無理」で、そんな相手なら「付き合えない」という感性に、坂橋の「ヤラせてくれなそうだから、ナシ」の言葉が重なる。なんだか「元カレが正しい」と、「君が間違っている」と、言われそうで友恵は気が塞いだ。
「それで、二月、バレンタインを前に、彼氏の部屋に行ったら……」
その先を口にするのは勇気が要った。でも、主任に不自然に思われないことに全力を尽くした。
「なんか、無理やりされちゃって、もめて、別れちゃったらしくて……」
「……無理やり? 乗り気じゃなかったの? 体調悪かったとか」
主任の声の調子に友恵はハッとした。話が伝わっていない。「それまでにも関係を持っていたのに、二月のその時だけ拒否した」としか思われていない。
「そうじゃ、ない、です。あの、それが、初体験だったのに、合意じゃなくて」
友恵は自分の中ですうっと血の気が引いていくのを感じて言葉を切り、そのまま話を終えた。
「へー、大木さんの友達だったらもう二十代だよね。十一月に付き合って二月が初体験って、その二人の付き合いだけで言っても遅いし、一般的にも二十代で初体験って遅くない? いや、もちろんそういう子がいてもいいけど、男の方、もっと早く手ぇ出せよ! 何ヶ月も手出さないとか、かえって失礼だよなー」
主任は、驚いたことを最大限に表現しようとしたのか、プライベートで話しているような顔になって、口調も最大限ラフになった。友恵は、二十代で初体験するのが遅いはずはないと思った。友人知人は大学に入るまで彼氏のいなかった子ばかりだ。そして何より、「何ヶ月も手を出さない」ことが「失礼」という感性がわからない。「手を出さない」というのは、「大切にする」ということのはずだ。交際三か月で深い関係になるのはあまりに早いし、大切にしてくれていないとしか思えない。
戸惑いを顔に出さないよう努めつつ、友恵はパニックを起こしていた。
容赦なく主任の言葉は続いた。
「キスしたらやっちゃいたくならない? 十二月から二月まで、どうしてたの? 生物として無理じゃない? あと、無理やりされちゃった、っていう意味がわかんない。初カレで、初体験だったとしても、キスしたら次はヤルしかないでしょ。そもそも、つきあうって、ヤルってことじゃない? 君たちって違うの? 部屋には行ったんでしょ。『部屋に行く』って、もうそれがOKって意味じゃん。俺、そのAさん、わかんねえわー。大木さんはどう思ったの? やっぱ大木さんも、最初は何ヶ月もヤラせなかったり、部屋行ってもヤッちゃダメって言う人なの?」
「……あ、いえ、あの……」
友恵は動揺でまともな返答ができなかった。主任はそれには気づかず、頭をかいて、友恵に詫びた。
「ゴメン、つい、ヤルとかヤラないとか、君はどうなのとか言っちゃった。これ、会社の中で言ったらセクハラなのか。大木さん清純派だから、気をつけないといけないんだったね。でも、すっごい勉強になったわー、真面目な子って、付き合っても何ヶ月もヤラないんだ、そういう恋愛関係がこの世に存在するとすら思わなかった。俺、一ヶ月でも無理。付き合う、イコール、ヤルって感じだな」
友恵は恐縮したふりをして話をそらし、不自然でない程度に世間話をしてからその場を離れた。そして、人の輪からは離れているが、会場からは出ていない程度に社員たちから距離を置き、植え込みの横のベンチに一人で座った。
プール課の主任と文化が違うのはわかっていた。だから自分とかけ離れた答えが返ってくるのもそれなりに予想していた。ただ、「そもそも、つきあうって、ヤルってこと」というのが、決して自分に関係のない世界のことではなく、恋愛の真理のような気がしてショックだった。坂橋に言われた「ヤラせてくれなそうだから、ナシ」もそう。バンガロー清掃の時に当然のように捨てられていたコンドームも。そして、自分はまったく知らなかったが、「部屋に来て」「いいよ」のやりとりは「OK」の解釈をしていいらしい。もちろん、そう思っていない相手に無理強いしたことは責められるべきだが、透が手を出そうとしたところまでなら決して間違いではなかったことになる。
大学時代の記憶――。人生で初めて彼氏ができて、ものすごく嬉しかった。天にも昇るような気持ち。やっと「人並み」に「彼氏もち」になれたという短絡的な安心と、他の、交際相手のいない人への優越感。そして二人で過ごして、たくさん、たくさん楽しいことがあった。幸せだった。あんなことにならなければずっと幸せだったのに。
主任は、十二月のキスから二月まで先に進まないことを「生物として無理」と表現した。「俺、一ヶ月でも無理。付き合う、イコール、ヤル」――その感覚に比べたら、キスまで一か月、その先まで二か月、待ってくれた透はそれなりに友恵に合わせてくれたことになる。ただ、友恵は、透をもっと真面目で慎重な人だと思っていたけれど。
ぼうっとしていたら、パーティーの司会者席から歓声が上がった。
「これからスペシャル抽選会を開催します!」
おどけた帽子をかぶった現場の職員数名がマイクを手にして会場に高らかに宣言した。そういえば手作りのくじをもらったなと、友恵はポケットから紙片を出した。
「なんと、一等商品は、ホテル宿泊券! ……グループ会社のですけど!」
二等、三等と、グループ会社の商品券が続いた。四等はとうとう「こまどりの森宿泊券」だった。友恵は考え事をしながらぼうっと聞いていた。
「最後、七等は、生活必需品! みんなの強い味方、スキンです!」
耳に入ってきた言葉は、しばらく友恵の中で意味を成さなかった。ヒューヒューとからかうような指笛と、「やだー」「セクハラだろー」の声とゲラゲラ笑う声でだんだんフィーリングが伝わってきた。
「これ、十人当たりますから! 相手いない人に当たったら、すぐに使う相手を探してくださ~い!」
急激に状況が理解されて、友恵はギョッとした。社員全員のパーティーで、くじの景品が避妊具なんて、とんでもない話だ。重大なセクハラだし、品性下劣としか思えない。自分が当選してしまったらと思うと震え上がった。
(でも、くじ引きの司会の子たちは、これが楽しい「ネタ」なんだ……。文化が違いすぎる……。でもこれ、他の会社さんと一緒に何かやるときに、このノリをちょっとでも見せたら、ウチが恥をかくよ)
友恵は脱力したまま、ぼうっと、ただ時間を過ごしていた。当選してもしらばっくれていればいい。こういう「ネタ」に付き合う気はなかった。
視界の遠い先にプール課の主任が見える。カッコいいし、声の響きは心地よいし、社会人として素敵な人。でもプライベートでは多分「景品が避妊具」というのをおかしいとは思わない価値観だろう。それをどうこう思うつもりはない。でも、ならば……
(透くんは、性的なことについて、どのくらいの立ち位置にいたんだろう)
彼氏がその方面にどういう価値観を持っているか、考えもしなかったし、知ろうともしなかった。お互いに知らない中で、その線引きの度合いが違っていたとしても、それが恋愛の全部ではない。いいこと、楽しいこともあった。友恵はわずかだがそう思えた。
「大木」
声がして、外灯の明かりが翳った。見上げると、外灯を背にして坂橋が立っていた。ほんの数秒のためらいの後、坂橋は友恵の隣に座った。
(……桑津さんは放っておいていいの? 一緒にいればいいじゃない)
友恵は心の中で淋しく問いかけた。でも実際には何も言わなかった。
しばらく黙っていた坂橋は、つぶやくように友恵に言った。
「桑津から、逃げてきた」
友恵は、反応してはいけないような気がして、そのままじっと黙っていた。
「おまえの姿が見えないから、探してくるって言った。だからここにいさせて」
そのまま、二人並んで、見るともなしに抽選会の様子を見ていた。
友恵は混乱していた。プール課の主任さんと話をして、いくらか透のことを理解できたかもしれないし、許せないところは許せないままだ。でも少し気持ちが整理できたような気がする。そこに坂橋が来て、りえ子から逃げてきたと言う。なぜ逃げなければならないのか。りえ子は美人だし、何度も二人で一緒にいたのに。
(……私には関係ない。透くんの二の舞はもう絶対に嫌だ。だから私には、もう、坂橋くんは関係ない……)
それでも、坂橋のつぶやきがずっと気になっていた。
(桑津さんとは、なんでもないの? 逃げたいような存在なの? だったら……)
なんでこんなところに来るの。なぜずっといるの。
「皆さん、お待ちかねの、七等の抽選です!」
会場が沸くのが聞こえた。「普通、一等賞が最後に出るんじゃないのかよ」など、囃す声もする。友恵と坂橋はふと顔を上げた。友恵はすぐに、「あの七等」の抽選に入ったことを察して目をそらした。見ていてもしょうがない。当たっても、受け取りに行くことはない。
「――あ、俺、当たりだって。六十四番」
坂橋が言った。友恵は目を丸くした。一体どうするんだろう。
「俺、何当たったの?」
そう聞かれて、友恵は、
「下品なものだから、行かなくていいんじゃない」
と答えた。
司会者が「六十四、六十四番の人、どこ? どこですか?」と連呼している。友恵が場の雰囲気を若干心配すると、坂橋も同じように感じたらしく、すっと立ち上がった。
「とりあえず、もらってくる」
あーあ、と友恵は思った。それでも、止めるわけにはいかなかった。
ほどなく坂橋は、くだんの品物を受け取って苦笑しつつ戻ってきた。
「……俺、使い道、ねえのに」
そう言ってまた隣に座った坂橋に、友恵は少しだけ甘えたくて、つぶやいた。
「私も、使わない……」
「え、だっておまえ……」
坂橋が飲み込んだ言葉がわかった。友恵はそのまま抽選が続いていくのを見ていた。幸い友恵は当選せず、七等まですべての配布が終わった。
だっておまえ、彼氏いるんじゃねえの。――つまり、「彼氏と使うんじゃねえの」。
「使わない。もしかしたら、一生」
坂橋に聞こえたかどうかはわからない。友恵は自分に向けてそうつぶやいた。友恵の視界がわずかに湿ってゆらめいた。でも、すぐに乾いた。坂橋はじっとしている。聞こえたのか、聞こえなかったのか。
坂橋に言いたい。「私、もう、恋愛なんてしたくない」と――そして「でも、あなたには、なぜか甘えたい」と。
それでもただ静かに、友恵はそこに座っていた。パーティーの終わり間際、坂橋に、同期の中へと連れ帰られるまで、ずっと。




