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十一 黙って三年


 友恵はすっかりプール課の主任のファンになっていた。ファンというより、恋愛感情に片足を突っ込むような不思議な気持ちの高揚を感じた。プール場内の研修は七月第二週の金土日曜が設定されていて、それまでの毎日、友恵は社員食堂でプール課の主任の姿を探してばかりいた。二度ほど姿を見かけることはできたが、話しかけるどころか近づいて挨拶することもできなかった。それでも友恵は満足だった。

 とうとうプールの研修が始まった。新卒男子の研修の担当者はかの主任さんだったが、あいにく新卒女子の研修の担当はプール課女子最古参の副主任だった。友恵は「待ってるよ」と言ってくれた主任の声を思い出し、残念さを胸いっぱいに抱えていた。

 友恵の担当はレンタルコーナー。浮き輪やゴーグル、バスタオルなどいろいろな小物を貸し出している。バナナボートやイルカの大きな浮き輪などもあるが、プールがあまり広くないため、これらは平日にしか貸し出していない。大きいものは金曜日の夕方には倉庫に仕舞われた。土日のレンタルは小物のみ。デッキチェアの受付もレンタルコーナーが担当する。

 土曜の午後、友恵はやっと、プール課控え室での休憩時間に主任と顔を合わせた。

「水着になってくれた子だよね。大木さん」

 主任は笑顔で声をかけてきた。友恵は水着のことを言われ、気恥ずかしい思いもしたが、新卒の中でそんなふうに少し特別に覚えてもらえているのは嬉しかった。

 正面から顔をじっと見ることができなくて、やや視線をそらした友恵には、主任のたくましい腕がまっすぐ見えていた。よく聞く「男の手に色気を感じる」という感覚はずっとわからなかったが、Tシャツで隠れた二の腕の存在感や、肘から手首までのラインが、なんだかとても頼りがいのあるものに感じられた。

「大木さん、どこの生まれ?」

 主任が聞いてきた。友恵は恐縮しつつ答えた。

「あの、つまらなくてすみません……東京です」

「あっ、そうなの! 珍しいね」

 市部の郊外とはいえ東京に勤めていて、東京出身なのを「珍しい」と言われるとは思わなかった。それだけ、この「こまどりの森」は地方出身の人が多いのだろう。

「都会っ子なんだ、よくこんな郊外に勤めようと思ったね」

「都会っ子じゃないです、地元はけっこう畑が多いです」

「じゃあ、二十三区内じゃないのかな?」

「いえ、二十三区内ですが、けっこう畑があったりします」

 なんでもない世間話だったが、友恵は緊張したし、ドキドキした。穏やかな声、紳士的な態度。春先の自分だったらプールの担当者を「現場のブルーカラー」と一段下に見ていたのではないか。でも、プール清掃のリリース騒ぎの時、明らかに宣伝課の主任のほうが勝手で配慮がなく、プール課の主任のほうが大人で柔軟だった。宣伝課の主任は三十二歳、入社十年と聞いていた。友恵はふと、プール課の主任の年齢が気になった。

「あの、主任さんは、おいくつなんですか?」

「二十九。もうすぐ三十だよ。もうそろそろオッサンだね」

「オッサンなんて、全然、とんでもない。それだと、入社から……」

「十一年だね。去年の春、十年勤めたごほうびを自分にあげたから」

 やはり宣伝課の主任より若いが社歴は上だ。まだ二十代なのに、しっかりしているし落ち着いているな……と友恵はつくづく感心した。自分は七年後、こんなにちゃんとした大人に、責任者に、なれるだろうか。

 ちょうどそこに友恵たちの指導担当の副主任の女性が入ってきた。

「今日はあっつーい! さっき、お茶全部飲んじゃった、なんかないのー」

 副主任は控え室の隅にある冷蔵庫を開け、中をあれこれ見回した。

「あー、あんたのプロテイン三本あるじゃん。一本ちょうだい!」

 彼女は言うなり、返事も聞かずにプロテインドリンクを取り出してふたをひねった。

「えー! それ高いんだぞ、買って返せよー!」

 主任は慌てて言った。副主任は問答無用で飲みはじめた。友恵は、主任の口調が大人な責任者から急に若者らしくなったので少し驚いたが、「そのへんは、やっぱり二十代だな」と微笑ましく思った。

「ケチなこと言うな、たまには、いいでしょー」

「それなら、タダのほうの俺のプロテイン飲めよ!」

「ありえない! 下品! 大木さん、こいつセクハラ野郎だって偉い人にチクっといて!」

 友恵は急に話を向けられ、会話の展開がわからず戸惑った。主任は照れ笑いをして、

「ゴメン、大木さんの前で、下品だったね」

 と言った。

「あんた休憩時間すぎてんじゃないのー、さっさと行けばー」

 副主任に言われ、主任は、

「あと十秒あるよ、オーバーしてませーん」

 と舌を出して出ていった。

「もー、ホントあいつ、ガキなんだからー。ゴメンね、大木さん。ほんと下品で」

 副主任の言葉は友恵をいろいろ混乱させた。主任は大人だと思うし、何がどうセクハラで下品なのかわからない。友恵はためらったが、女性の副主任と二人だけなのをいいことに、率直に聞いてみることにした。

「あの……すみません、さっきのお話は、どのへんがセクハラなんでしょうか……」

「ええっ!!」

 副主任は驚愕した顔をして、しばらく友恵の顔をまじまじと見ていた。

「大木さん、処女?」

 問いかけられて友恵はびっくりした。副主任は「あちゃー」という顔をした。

「これ、私も大木さんにセクハラ質問したことになるのか。うちの部長にくれぐれもって言われたんだよね、大卒の子に変なこと言うと専務からお叱りがくるよって」

「あ、いえ、告げ口する気なんてないです。でも、だからその、さっきのセクハラの話がホントに全然わからなくて」

 友恵が思いっきり素のまま「わからない」という顔をしていたので、副主任は幾分安心したようだった。

「そんなに難しいかなー、アレだよ、男が出すプロテイン」

「……?」

「Hで男が出すヤツ。だってあれ、たんぱく質だっていうじゃん。だからプロテイン」

 なんとか友恵は話を理解した。だが冗談にしても下品すぎる。大人でカッコいい主任がそんな冗談を女性に向けて言うことに、友恵は最大の衝撃を受けた。その様子を見て、副主任も友恵が理解したことを察し、苦笑交じりに笑った。

「うわーホントに大卒の子ってマジメだわー、こういう冗談もわからないって、うちら普段どんだけ下品な下ネタ言ってんだよ。今のとか全然普段の会話だよ、これからもそういう話、してると思うけど……びっくりしないでね」

 持ち場のレンタルコーナー受付に戻っても、友恵は頭の中がぐるぐるしていた。しばらくすると、巡回で主任がやってきた。友恵は思わず身構えた。

 主任はやや気まずそうな照れ笑いで友恵に声をかけてきた。

「さっきはゴメン、びっくりさせちゃったよね。大木さん清純派だから、これから気をつけるよ」

 あれっ、と友恵は思った。爽やかな笑顔に嫌悪は感じない。あんな下品な冗談を言う人だとわかっても、やっぱりカッコいい。

(坂橋くんの「ヤラせてくれなそうだから」より下品で汚い冗談なのに、嫌な感じが全然しないな……)

 これまで友恵の周りにいた友人知人は、皆友恵と似たような感覚、似たような価値観で、性的な冗談を忌避する人ばかりだった。会社の休憩時間にどぎつい性的な冗談が交わされる環境なんて、友恵の人生の想定にはまるっきりなかった。でも、この職場では環境そのものが違う感じがする。坂橋も、性的なことを「人の生きるうえでの当然の営み」「ヤろうがヤるまいが勝手。メシ食うのと一緒」と言っていた。もしかして自分は意識しすぎていたのではないだろうか。もちろん、元カレの行動を許すことはできないが……。

 嫌な相手になりかねなかったプール課の主任の後ろ姿を、友恵は変わらない憧れのまなざしで見送った。そして、たとえばこういうセクハラまがいの冗談が、あまり好感を持っていない人の口から出たとしても、それはそれで聞き流していく能力が社会人には必要なんだろうなと思った。


 日曜、大卒新人のプール研修最終日、天気予報がずっと雨を告げていたせいで客足はまばらだった。友恵はプールの売店に入っていたが、「客が来ないから、休憩行っていいよ」と言われ、たまたま途中で一緒になったプール課の課長と一緒に控え室へと向かった。

 課長がドアを開けると、中には主任が一人でいて、さっと何かを隠すのが見えた。

「あっ、おまえ、今何隠した?」

「なんでもないです!」

 友恵がドキドキしつつドアのところで所在なく立っていると、課長が抱きついて主任が背後に隠していたものを取り上げた。

「あっ、おまえ、なんだこれ!」

 休憩机の上に出されたものは英会話の教材だった。友恵は目を見張った。

「いや……その……常連の外国人の家族連れいるじゃないですか……。うち、英語ができる人がいなくて、いつも上手くご案内できないから……」

 主任はひどく恐縮して、恥ずかしそうに言った。課長は主任の背中をバンバン叩いた。

「いや~偉いじゃん、英語の勉強なんてよくやるよ、立派立派!」

 友恵は羨望と憧れのまなざしを主任に向けた。見た目も声もカッコいいし、下品な冗談を言っても爽やかだし、休憩時間に英会話の勉強をしているなんて……。

「課長、他のみんなには言わないでくださいよ! 大木さんも、黙ってて。この時間、休憩入るの俺だけだと思ってた……」

 主任は職務規定違反をおかしたかのように縮こまって教材を仕舞った。教材の隅が傷んで丸まっていた。始めたばかりではなく、もう何度も使われているのが見て取れた。

「なんだよ、周りの奴らにも堂々と言えばいいじゃねーか、おまえはエラい!」

「笑われるし、邪魔されるし、からかわれるし、絶対イヤです。いいや、もう会社の休憩時間にやるのはやめます、こっそり寮でやる」

 友恵は、ここで仕事のために勉強することが「笑う対象」「からかう対象」になるのかと驚いた。おそらく事務所であれば、ほめられつつも警戒の対象になるか、「一人だけ格好をつけて」と煙たがられるのではないか。笑うとか、邪魔するとか、からかうとか、そんなことは絶対にない。向上心を見せている職員の努力を邪魔するなんて、会社に仇なす行為であり、あってはならないことだ。しかしここでは、あの初日の電話研修のように「真面目にやってる!」と皆が笑うのだろうか。もはや「文化」そのものが違う。そんな環境の中でも、仕事として上を目指して努力できる主任を、友恵はすごいと思った。

 それでも下品な冗談は言う。そういうものなのだろう。下品な冗談は「下品で下衆な人」が言うと思っていた。でも、プール課は他の部署より少しあけっぴろげな印象で、その文化の中に「下ネタ」が当然の話題として含まれている。女性の副主任も、ラフでざっくばらんな印象はあっても「下品」や「下衆」という感じはない。下ネタを笑う姿がかっこよくすら見えた。

 人の影響、環境の影響で人は変わる。友恵は、自分自身も今この職場の影響を受けて、「広い世界」を知るべく成長しているのだと感じた。


 プールの研修のあと、今度は専務と運営部の部長とプール課の課長を前に、大卒新人一同が発表をする機会があった。友恵は「現場の休憩時間に英会話の勉強をしている職員がいて、意識の高さに驚いた」と話した。現場の上司に対する発表というより、自分が感動した気持ちを同期と共有したかった。

 プールの仕事は特殊なので、発表は「改善点を提案」という話でなく、「こんなことを経験した」「こんなことがあった」という出来事の報告会にしかならなかった。

 最後に順番が回ってきたりえ子は、緊張気味に、でもいささか鼻息荒く主張した。

「これはプールがというより、現場がというか、運営部全般のことになるんですけど。あの、私たち、ここひと月以上、通常業務もあるのに現場の応援とか現場の研修とかもあって、週休一日でした。仕方ないと思ってあきらめてたんですけど……あの、その間、現場の人は週休二日しっかり取ってたってどういうことですか。祝日の分は代休も出てたって……。休憩時間に、『その日は大卒の新人が入るから、休めるよ』とか、現場の人が話してるの聞いて、シフト表見たら皆さん週休二日とか、人によってはそれ以上取ってました。納得いきません。現場の人が毎週週休二日で月に八日とか十日とか休みとってて、私たちは四、五日だったら、両方六日ずつとか、平等じゃないとおかしくないですか」

 大卒一同は「えっ」という顔をしてりえ子を見た。自分たちが週休一日になっているのは現場も忙しいからで、当然現場も週休一日しかとれていないものと思っていた。

(確かに、現場のちゃんとした担当者が休んだ分を、なんでただの手伝いの私たちがフォローするの?)

 友恵も釈然としないものを感じた。

 運営部長とプール課長は目配せして渋い顔をした。そこに、専務の声がした。

「――それは、黙って三年やってから言いなさい」

 大卒一同、その言葉には納得しなかった。近田がさっと手を挙げて、発言を促された。

「黙って三年やると、今回取れなかった休日が戻ってくるんですか。現場の応援とか研修とかは人事課が管轄してて、配属先での仕事はそれぞれの部署が管轄してて、そのダブった管理のせいで両方から休日が削られてるんじゃないですか。今の話では納得できません」

 部長と課長はまた目配せし、次に専務を見た。専務は腕組みをしてしばらく目を閉じて考えた後、淡々と言った。

「納得いかないなら、それは仕方ない。がんばれる人だけがんばってくれればいい。もちろん、会社としては相応の評価をさせてもらうが」

 友恵はその言い方にとても冷たいものを感じた。最初の専務の教示にいろいろ教わった分、その突き放すような言葉にはさらに納得できなかった。

 大卒一同が釈然としない空気のままなのを読み取ったのか、運営部長は専務を振り返り、「私が説明してもいいですか」と声をかけた。専務は腕組みをしたままうなずいた。

「君たち、現場の子たちの給料って知ってますか?」

 部長が思いがけないことを言ったので、大卒新人一同は戸惑った。

「大卒の君たちは初任給から高いです。今、会社が儲かっていないので、昇給はここ何年も満足にできていません。もちろん人によりけりではありますが、多分、現場を十年やってくれてる二十代の人たちより、君たちの初任給の方が高いです」

 意外な事実に全員が沈黙した。全員が園内の「これは」という職員の顔を思い浮かべていた。友恵も、イベント警備の主任、プール課の主任、おみやげ屋の女性店長の顔を思い浮かべた。男性の主任二人は二十代終盤で主任の肩書きもついているから新卒より給料は高いのかもしれない。だが、まだ二十三歳のおみやげ屋の店長の給料は、今の話からすると間違いなく低いのだろう。園内の店を一軒任されている勤続五年の一人前の女性が、右も左もわからない新卒より給料が低い……。

 はっきりとその場の空気が変わったのを確認するように、部長は結論を告げた。

「君たちは、まだ何もできない状態でも、幹部候補としてエリート待遇を受けていることを自覚したほうがいい。君たちのほうが給料が高いなんて現場の人が知ったら、誰も働かなくなるよ。給料が高いというのは、一種の責任を背負うということです。君たちは高い給料をもらうだけの責任がある。現場の人と、君たちと、どっちがより多く会社の運営の責任を背負うべきなのか、わかるね」

 誰も何も言い返せなかった。

「なお、うちの繁忙期はお盆と年末年始、あとは学校休み期間です。比較的混むのが温泉の気持ちいい時期、十月下旬から三月くらいです。通常、その時期を外して、休めない時期の分の休みを少し多めに取ってもらっています。新人はまず使えるようになってもらわないと交代要員にもできないから、先にいろいろ詰め込みましたが、九月十月に多めに休日を付与します。それで納得してもらえますか」

 静まり返った会議室に、今度は専務の声が響いた。

「君たちにはまだまだ見えてないことがたくさんある。今回の話もそうだが、表面上は『なんで』と思うようなことでも、物事には必ず理由がある。その理由が必ず正しいとは限らないが、理由もないのにおかしなことになっていたら、とっくに立ち行かなくなっているはずだ。理由があるからそうする、それしかないからそうする、そういうことがたくさんある。それが会社だし、社会というものだ。もちろん企業の一方的な視点に凝り固まって企業自身が成長を止めてしまうことがあるから、疑問はある程度呈してもらってもいい。だが、三年やって、当初見えないものまで一通りが見えるようになって、なおも疑問だったら言えというところはある。今回は、言ってもらうための会議だから、もちろん発言をどうこう言う気はない。ただ、君たちはまだ何も見ていない。それだけは言っておく」

 会議で厳しい言葉を投げかけられ、自分たちの部署に戻る大卒新人七人の足取りは総じて重かった。現場の多くの人たちより、自分たちの給料のほうが多い。それは「ラッキー」と喜べることではまったくなかった。「大人になる」ということ、「責任を負う」ということが、とても重く感じられた。

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