十 プールのヒーロー
六月最終週、こまどりの森は、プールオープンの準備に取り掛かった。土日のイベントがある時は現場の応援に入り、平日は通常業務とプールの応援がある大卒新人は週休一日での出勤を余儀なくされた。りえ子は不満を述べていたが、友恵は「忙しい時期だから仕方ない」と思ったし、男子一同は「新人はそういうもの」と思っていたし、紗莉はいつものようにふんわりと微笑んでいた。
プールエリアはあまり広くないが、二十五メートルプールが一つと、深さが二段階あるひょうたん池の形をした子供用プールがあり、その周囲にデッキチェアが十台あまり置かれている。夏は温泉の人気が落ちるため、その代わりにプールをアピールして集客を図る。
プールオープンのシーズンが近づくと、顔を見た覚えのないスタッフが十人あまりプールエリア近辺に現れた。大卒新人はまた研修室に集められ、プールの説明を受けたが、その際の話によると彼らは「プール課」という専門の部署のメンバーで、プールがクローズしている時期にはグループ企業に出向しているとのことだった。
プール研修の最後、プール課の主任が現場の説明をしに研修室にやってきた。地味ながら整った顔立ちに、程よく鍛えられた細マッチョな体形。それは友恵の好みではないものの、唯一、心にグッときたのは彼の声だった。やや低めでよく響く声は、なんとも言えない落ち着きとやわらかさがあり、友恵は説明を聞きながら心地よさを感じていた。そんな経験はそれまでなかったので、自分で自分に驚いた。
翌日からプール清掃が開始された。シーズンオフに完全に客の出入りを禁じてしまうプールエリアは荒れ放題だった。コンクリートの継ぎ目には雑草が無理やり根を下ろしてはびこり、塗料の保護のために水を張ってある(乾燥しすぎるとひび割れてはがれるとのこと)プールは藻で緑色になっていた。脱衣所はロッカーとすのこが取り払われて倉庫になり、デッキチェアやレンタルグッズのテントがほこりをかぶって入っていた。
初日、清掃は草むしりと藻の除去で終わった。翌日は制服の下に水着を着てくるように指示が出た。その上にプールの制服のポロシャツと短パンを着用するので誰に見せるわけでもないと思いつつ、女子三人は「水着を着ての仕事」ということには若干緊張や抵抗を感じた。
翌日、藻が除去されたプールを一度デッキブラシで清掃して綺麗にした後、
「プール清掃のリリースを出すから、写真撮らせて」
という話があり、カメラマンが入った。リリースの担当は宣伝課だが、友恵は事前にその話を聞いていなかった。
「大卒新人の女子、君らメインだよ。水着着てきてって伝えてたでしょ、できれば上下、嫌だったら上だけでいいから脱いで水着になってね」
宣伝課の主任の言葉に、友恵とりえ子、紗莉は凍りついた。友恵は必死になって拒否の意思表示をした。
「それは聞いてないです。私、宣伝課なのに、課でもその話は出てなかったし」
「プール課のヤンキー女で、リリースなんか作れないよ」
声を潜めて、主任は大卒女子三人に言った。プール課の女性は茶髪に日焼けサロンで焼いたような褐色に近い肌、しかも厚化粧なので、友恵たちは宣伝課の主任の言いたいこと自体は理解できた。とはいえ彼女たちは毎年のことなので慣れていて、当然のように制服のポロシャツを脱ぎはじめた。友恵たちは「だから、プール課の人たちでいいのでは?」という視線をそちらに向けて黙っていた。
「下は今の、その短パンでいいから、上は脱いでよ。見栄えがあるからさ」
たたみかける主任に、三人の新卒女子は言葉を返せずにいた。仕事だからやらなければならないのだろうか。でも、事前に説明なく水着姿で写真に写れというのは乱暴すぎる。
「――あの、いいですか?」
プール課の主任が、宣伝課の主任に声をかけてきた。
「話に横から入ってすみません、大卒の女の子たち……事前に聞いて了承とってなかったんだったら、無理強いはセクハラになると思いますよ。例年女の子中心にしてますけど、たまには男性職員中心でどうですか」
戸惑いを増す新卒女子の横で、宣伝課の主任はあからさまに嫌な顔をした。
「今年の子だけ免除とか、示しがつかないでしょ。来年以降のこともあるんだからやってもらわないと。マスコミにプールが開くよって情報出すの、これリリースっていうんですけどね、大事なニュースなんですよ。リリース受け取るの、大半男ですよ。マスコミなんて大半、男所帯なんだから。今年の新卒かわいい子多いし、有効活用しないと」
友恵は、自覚はあったものの、耳にしたフレーズにそれなりにショックを受けた。「今年の新卒かわいい子多いし」は、つまり、「全員が可愛いわけじゃない」であって、りえ子は美人だし紗莉は明らかにかわいいのだから、「大木以外はかわいい子」と言われているんだなと思った。
「あの、リリースくらいわかりますんで」
そう言ったプール課の主任の声が不愉快そうなのを友恵は感じ取った。確かに宣伝課の主任の説明には「現場の人には広報の媒体の『リリース』なんてわかんないでしょ」という含みがあった。
プール課の主任は友恵たちのところへ数歩歩いて近づき、
「俺、プールの責任者として、交渉してあげるよ。嫌なら嫌で、正直に言っていいよ」
と温かい声をかけてきた。友恵はことさら柔和な響きで届いた低い声にドッキリした。
「絶対嫌です」
意外にも、一番に声をあげたのは紗莉だった。いつもおとなしくて穏やかな紗莉が強く言ったので、友恵もりえ子も驚いた。
「私は絶対に脱ぎません。水着になる仕事があるなら、この会社にも入っていません」
紗莉はもうひと言強く言い、りえ子はその尻馬に乗るような形で追従した。
「私も、そんな仕事は聞いていないし、セクハラだと思います」
友恵も嫌だと言いたかったが、これは自分の所属する宣伝課が使う媒体だ。マスコミに流すときの「見栄え」を想像すると、この三人に前に出てほしいという気持ちはわからなくもない。茶パツに厚化粧の女の子と、黒髪で真面目な見た目の女の子……世間の人は所詮見た目で人を判断するから、どっちが好ましく思われるかは容易に推測できた。
「私は、私も、嫌ではありますが……」
友恵が迷いつつ中途半端な言い方をすると、プール課の主任は穏やかに微笑んで、
「大丈夫、わかったよ、無理しなくていいよ」
と言い、宣伝課の主任に、
「ちょっと、そちらの上の方に相談させてください」
と強く言って、係員控え室に入っていった。やがて宣伝部の部長が飛んできた。
「女の子たちに説明してなかったの? ポロシャツ脱いで、水着になってもらうって」
部長はすぐに宣伝課の主任に厳しく言った。
「いや、言ったように思ったんですけどね……実際水着は着てきてるし……」
主任はモゴモゴ歯切れ悪く言った。部長はため息をついて、友恵たちに向き直った。
「君たち、不快な思いをさせて申し訳なかったね。事前に了承を得てやってもらうんじゃなきゃ、ただのセクハラだよ。今年は、こちらのプールの主任さんの提案を採用して、男子中心でいくよ」
部長はプール課の主任の肩をポンポンと叩いて、ねぎらうように言った。
「でも、大卒の男の子たちはみんな色白だから、プールのスタッフの人たちを中心にさせてもらっていいかな? 今はホラ、宅配便のスタッフの写真集が出たりする時代だから、君たちみたいなちょっと筋肉ついてる男の子がいいと思うよ」
プール課の主任は、まるで自分が嫌な仕事を免れたかのようにホッとした表情を浮かべ、
「ありがとうございます」
と部長に言った。
「――あの」
友恵は部長に向かって必死で声をかけた。それこそ全身全霊をかけて勇気が要った。
「私、後ろでよければ、上は脱いで掃除やります。リリースの見栄え的にはそのほうがいいんですよね」
えっ、と驚いた顔をして、部長が宣伝課の主任に顔を向けた。主任が代わって答えた。
「プール課のヤンキーより、去年大卒の子に前に出てもらったほうがリリースのリアクションがよかったんですよ」
憚らない言い方に、プール課の主任は不快そうに言い返した。
「ウチの女の子たちは皆、真面目で真剣な、いい子たちです。バカにしないでください。言いたいことはわかりますが、世間の偏見にこっちで合わせてあげるだけで、ウチの子たちは仕事上、恥ずかしいことなんか何もありません」
友恵は気持ちいい響きの声で語られる強い主張に心を奪われていた。
(……カッコいい。イベント警備の主任さんも、おみやげ屋の女性の主任さんもカッコよかったし、このプールの主任さんも、ものすごくカッコいい)
ぼうっとしている友恵に、プール課の主任は歩み寄り、声をかけてきた。
「君は大丈夫? 嫌なら断ってもいい仕事だよ。仕事だから脱いでなんて、無理強いしていいものじゃない。だけど、世間的には、君みたいな真面目そうな子が爽やかにプール掃除をやってくれる写真がいいっていうのは、俺もわかる。でも無理をすることはないよ」
友恵はプール課の主任を見上げた。自分は宣伝課の人間だし、それともう一つ……この主任さんに、頑張っていると思ってもらいたかった。
「あの、三人を代表して、一人だけですが……がんばります」
そう答えると、友恵はりえ子と紗莉のところに行き、
「なんか一人だけやって……とか思わないで。今年誰もやらなかったとか言われるより、代表で一人だけはやったっていうほうが、社内的にはいいかもしれないから」
と言い訳をした。そういえば、以前坂橋に「一人だけ頑張るな」と言われたのに、ここでついまた頑張ることにしてしまったなと反省したが、もう意思は固まっていた。
最初、大卒男子もポロシャツを脱いで写ったのだが、「ちょっと色が白くて浮いちゃうんで、そちらの四人は上を着てください」とカメラマンから言われてしまった。カメラに一番近い位置にはプール課の主任が上半身裸で入り、その背後に特に背の高いプール課男子数名、その後ろに上半身水着の友恵と水着だけのプール課女子。次が他のプール課男子とポロシャツを着た大卒男子。その後ろがポロシャツを着たりえ子と紗莉。
その配置は「男子社員なら背の高い人がいいし、日焼けしているほうがいい。女子はヤンキーより真面目系で、肌は日焼けより色白のほうがいいし、肌の露出は多いほうがいい」という、世間の目の“現実”をあからさまに示していた。友恵は、それまでの人生で顔立ちの綺麗な子と自分に対する男性の態度の違いを感じてきたので、その「現実」を冷静に受け止めた。仕事でお金を稼ぐには、そういう残酷な現実とも折り合いをつけなければならないのだろう。
撮影が終わり、カメラマンと宣伝の部長・主任が撤退した後、空っぽのプールから次々に掃除のメンバーが上がってきた。友恵が上がるとプール課の主任が待っていた。
「頑張ってくれてありがとう」
優しい低音に友恵の胸がきゅんとした。
「あの、でも私、宣伝課なんで、私はやらなくちゃと思っただけです」
上半身水着のままの自分が急に恥ずかしくなって、友恵は主任の顔から視線をそらした。すると目の前には裸の胸元があった。友恵は動転して体ごと少し斜めを向いてうつむいた。途端、頭に主任の掌がのった。
「大木さんだっけ、覚えておくね。プールの研修、待ってるよ。がんばろうね」
うかつに体を斜めに向けたため、主任の声は友恵の耳をダイレクトに直撃した。
(か、カッコいい。ほんとにカッコいい。私、女性の頭を勝手に撫でたりポンポンやったりする男大嫌いなのに、ドキドキしちゃった。なんか世の中的に女子は壁ドンとか頭ポンポンとか好きみたいな話になってるけど、私は絶対やだと思ってたのに、今の頭ポンはすごくよかった……)
主任はすぐにプール課の人たちに号令をかけるために離れていき、友恵は慌ててポロシャツのところへ飛んでいってそれを着込んだ。
着終えたのを見計らったように坂橋が声をかけてきた。
「大木、平気か? おまえ、男の前で水着になるのなんて、苦手なんじゃないの?」
友恵は振り返って坂橋を見上げた。確かにそうだが、仕事の価値基準で考えると話は別だ。「こまどりの森」のPRをするのに、客観的には自分が水着になったほうがいいように感じた。それに、プールの底をデッキブラシでこすりながら、水着になった友恵にはことさらプール課の女性たちが仲間のような気安さで話しかけてくれたのも楽しかった。やってよかったと信じられた。
ニコッと友恵は笑顔になり、坂橋に、
「気合いは要ったけど、楽しかった」
と答えた。それから表情を苦笑に変えて、
「男子一同は、桑津さんと加川さんを見たかっただろうけどね」
とつい当てこすりを言った。本音では、「坂橋くんは桑津さんが見たかったんじゃないの」と言いたかった。
(やっぱり私、別に、坂橋くんなんていいや。素敵な人はたくさんいる。たまたま、春から、周囲にいるのが同期の男子しかいなかっただけ。身近な人からつい、一番頼りになる人を気にしちゃっただけ。恋はしてないし、しない)
プール課の主任が、課員に指示を出したあと、「大卒はちょっと集合して」と声をかけているのが聞こえた。友恵がそっちに向かいかけた時、坂橋が友恵に聞こえるかどうかという抑えた声で言った。
「そういうの嫌がるだろうけど、……俺はラッキーって思っちゃった、おまえの見て」
友恵は聞こえなかったふりをしてそのまま集合した。正直、ドキドキしていた。言う人によってはこんなことを言われたらゾッとするけれど、なぜか坂橋は、友恵の苦手なエリアに踏み込むようなことを言ってきても、生々しさや不快さを感じなかった。
プール場内の清掃や設営は全三日の日程を終えて、いよいよプールに水が張られた。こまどりの森に、七月がやってきた。




