夏休み一日目のできごと
天柳啓介の五作目になります。
最初は少し暗めですが、徐々にそうではなくなりますので、ダークな雰囲気が苦手な方も是非お読みいただければ幸いです。
「おはようございます、立花さん」
「あら、ようこそ、響也くん」
俺は図書館に入るとまず、受付をしていた図書館員の立花さんに挨拶をした。
立花さんは快く俺に挨拶を返してくれたあと、赤ぶち眼鏡の奥から少し不思議そうな視線を送ってくる。
「今日はまた一段と早いみたいね?」
現在の時刻は朝の9時31分。
俺の住む玄条市いちの大きさを誇る、ここ玄条市図書館の開館時間は9時30分なので、まだ開館してからようやく1分が経ったというところだった。
「もう夏休みに入ってるので」
「そっか。もう響也くん、高校生じゃないんだもんね」
「そうですよ。俺も今年から立派な大学生です」
俺の通っている公立の四年制大学は、昨日7月24日を持って夏期休暇に入った。
夏休み開始一日目にして早速この図書館に入り浸ろうとしている辺り、自分の本好きがいよいよ恐ろしく感じないこともない。
「それにしても……司書の私が言うのもなんだけど、響也くん、よくこの図書館飽きないね? もうここの本全部読んじゃったんじゃない?」
「まさか。流石に3億冊なんて読みきれるわけないですよ」
「あはは、それもそうね。中学の時から来てる響也くんが言うんだから、市一番の貯蔵量は伊達じゃないってことね」
「もしここの本を全て読んでいる人がいるとしたら……それは、図書館長くらいですよ」
「あの人はさすがにレベルが違いすぎるなー。多分別の世界から来た人だよ、館長は」
「はは、間違いないですね」
立花さんとそんな話をしていると、図書館に入ってからすでに5分くらいが経過していることに気付いた。
「あっと、ごめんね、引き止めちゃって」
「いえ。立花さんとお話するのは楽しいので、俺は全然構わないですよ」
「ありがとう。それじゃ私もそろそろ仕事に戻るから、ゆっくりしてってね」
「はい」
立花さんに別れを告げて、俺は目的のコーナーへと向かった。
今日読もうと思っていたのは、中世時代の生活を記した書物だ。
大学で出た課題として、中世の生活をレポートにして提出するというものが出た。
中世のことは以前にもこの図書館で軽く読んだことがあったが、今回レポートを制作するにあたって、どうせならとことん細かいところまで調べ尽くしてやろうと思ったのだ。
「……いい香りだ」
俺は中世の本が並べられている歴史のコーナーへと足を踏み入れた。
歴史のことを記している本はその特徴ゆえ総じて古いものが多い。俺はそんな本の匂いが好きだった。
あの独特のインクの匂い。ふっと心を落ち着かせてくれるようなそんな香りが俺は大好きだ。
すると、
「おや? 渋谷くんじゃないか」
「あ、館長」
本の匂いを楽しんでいた俺に苗字で呼びかけてきたのは、玄条市図書館の館長、月宮・ユーセリア・麗華だった。
薄紫のロングヘアーを靡かせながら、暗めの青いパンツスーツに、上は白いワイシャツで第三ボタンまで開いているという相当ラフな服装をしている。
フランスと日本のハーフで、こちらに来たのは二十年ほど前だと言っていた。
しかし外見からでは二十代半ばくらいにしか見えず、実際の年齢は見当つかない。
「こんなに朝早くから熱心なことだ。君は友達がいないのか?」
「……相変わらずですね。大学に行ってもちゃんといますよ」
とは言え人に自慢できるほどの人数と友人関係を結んでいるわけではない。
すると俺の答えに薄くため息を吐いた月宮館長は、手近にあった一冊の歴史の本を取り出してみせた。
「こんな従業員も少ない朝っぱらから図書館という閉鎖された空間に入り浸る人間が、ことさら何でもないように"友達はいる"というのが信じられると思うか? ましてや今は夏休み中だろう。こんな本なんて読まずに、友達と遊びに行けばいいじゃないか」
「図書館の館長とは思えない発言ですね。……今日は大学の課題を早めに終わらせようと思って来たんですよ」
月宮館長は普段図書館や本に対してこのようなそっけない態度を取るが、その実一番図書館や本と向き合っている人間でもある。
この図書館に貯蔵されたおおよそ3億冊の本を全て読み、その内容がほとんど頭の中に入っているというのだ。
覚えるだけでも気が遠くなりそうな数の本の内容までも覚えているということから、彼女の記憶力と理解力は人の域を超えていると思う。
図書館自体に関しても、新しく入った図書館員の教育には自らが踊り出、毎月10日に選ばれるピックアップ本の選出も彼女が行っているという。
ちなみに当然といえば当然なのだが、そんな月宮館長にも図書館員時代があったそうだ。その時の話は未だ聞けていないが。
「そうか、課題か。なんとも面倒くさそうだ」
月宮館長は手に取った本を元の場所に仕舞うと、やれやれといった様子で両手を広げた。
「館長だって学生時代とかやっていたでしょう」
「やってはいたが、それももう遥か昔の話だ。正直どんな課題が出たなどは覚えていないが、課題という言葉の響きそのものが面倒臭さを持っている……実に嫌な言葉だ」
おおかた月宮館長の場合、今までの学生生活で出た課題など頭で考えるまでのものじゃなかったから覚えていないのだろう。
「学生時代も今と全く変わってなさそうですね」
「それは私自身も思っていることだ。学生の頃から何一つ変わっていないとな」
遠くを見るような目でそんな事を言う月宮館長。
……本当に、彼女は何歳なのだろうか。
「……それじゃあ俺、本探しに戻ります」
「ああ。頑張れよ」
言って、月宮館長が俺の横を通り過ぎる。
そして俺はコーナーの奥へと足を踏み出した……その時だった。
「うっ――!?」
ズシリと、上から押しつぶされるような重圧が俺の体を襲った。
何が起きたと考える間もなく、俺の体は床に叩きつけられる。
内蔵が浮かぶ感覚。言うならば、エレベーターで超高速で上に運ばれているようだ。
そして、
「な……!」
俺の頭上が陰った。辛うじて動いた目線だけを横にやると、俺の身長の倍はあるかという本棚が、俺の体目掛けて倒れてくるのが分かった。
しかし体は動かない。どんどん頭上の陰りは広がり、倒れ込む本棚が俺の体に迫る。
死ぬ――。
「……!!」
だが俺の体は、本棚に押しつぶされることはなかった。
本棚が途中で動きを止めたわけではない。何故なら俺の体がある場所以外は倒れた本棚と本が散乱しているからだ。
――では何故、俺は助かった?
その答えは、上から降ってきた言葉が持っていた。
「大……丈夫……か、渋谷くん……」
「か、館長……!?」
顔は未だ襲い来る重圧で動かせないが、声を聴いて分かる。そして何より、俺のことを苗字で呼ぶのは月宮館長しかいない。
「俺を庇って…………!?」
「心配……するな、これくらいじゃ……私は……どうもしない……!」
それから月宮館長は、正体不明の重圧が収まるまで俺を庇い続けてくれた。
「やっと、収まったか……」
謎の重圧は消え、体が自由を取り戻した。
月宮館長の顔を見ると、やはり先ほどの言葉は強がりだったのか、額に汗がにじんでいる。
「館長ー!! 月宮館長ーっ!!」
遠くから、立花さんの声が聞こえてきた。どうやら月宮館長を探しているようだ。
「立花さんっ!! ここです!! 歴史コーナーです!!!」
俺は辛そうな月宮館長に代わって声を張り上げた。
すると俺の声を聞きつけたのか、数人の足音がこちらにやってきた。
「響也くん!? この下に……!?」
「俺は無事です! でも館長が……!」
立花さんは俺の声音が緊迫していたのを感じ取ったのか、すぐさま近くにいるであろう他の図書館員と力を合わせて、月宮館長を押しつぶしていた本棚を排除した。
「館長!?」
本棚の排除と同時に床に倒れ込んだ月宮館長を見た立花さんは青い顔をした。
「有馬さん! 館長を今すぐ医務室に!!」
「は、はいっ!」
有馬と呼ばれた男性の図書館員は、去年入ったばかりの医学部卒の若い図書館員だ。
確か医学部時代の専攻は、骨学だったと聞いている。
「あの……」
俺は立花さんに話しかけた。
この図書館に異常なことが起こったのは目に見えて確かだ。
最初に立花さんが月宮館長を探していたところからすると、恐らく何か知っている可能性が高い。
「響也くん、怪我はなかった?」
「は、はい。月宮館長のおかげで、傷一つないです。……あの、何が起こったんですか?」
「……それは、外に出てみれば分かるわよ」
「…………?」
俺はその時、言葉の意味がよくわからなかった。
そもそもあの重圧もよく分からなかったが、それと外の状況がどう結びつくのかも想像できなかった。
――しかし、言われて外に出てみた俺は、その目を驚愕に見開くのだった。