ベースをはじめてみた。
寝室。俺はベースを撫でている。
滑らかなボディ。前の所有者が残していったほんのりとした煙草の匂いが漂う。官能的なまでの曲線美を手のひらで感じながら所有欲を満たしていた。
最近ベースを始めた。別段大きい理由はない。俺は元々ピアノを数年間塾で習っていて、音楽についてはそこそこの自信があった。今回高校進学と同時に軽音楽部に入部することを決め、集まったやつらでバンドを結成した。
軽音楽部に入部したのは言うまでもない。俺はただ単に音楽が好きだからだ。なんなら吹奏楽部がいいじゃないかなんていう奴がいるかもしれない。
だがあいにく俺は多人数で生活することが嫌いである。だから本来は学校にも通いたくなかったが、いやそうではない、多人数は嫌いだが高校生活はしたかった。だから吹奏楽のように多人数でやるのは俺は少し気が引けてしまった。中学では帰宅部で塾はピアノのみをやっていた。
しかし音楽は好きだった。ついでに少人数でつるむのは好きだった。だから高校では軽音楽をやろうと決めていた。別段深い理由があるわけではない。
好きなバンドとか、この奏者を崇拝しているとか、そんなのはない。ピアノに関してもそうだ。俺が弾けていればいいくらいの気持ちだ。
さて、ギターをやっている奴が一人いたが、彼は狂信的なギター信奉者で他の楽器はやりたがらなかった。ピアノを弾けるのは俺ともう一人いて、もう一人の方が俺よりも年数をやっていてうまかったのでキーボードは彼に任せることにした。最終的に俺が残る形でベースを担当することになった。それだけの話だ。
まずギターが弾ける彼に連れられて楽器を購入しに行った。学校の近くにあるそこそこの大きさの個人経営の楽器屋で、生徒の御用達らしい。初老の夫婦と店員が三人、そしてバイトの高校生男女が出迎えた。
俺は手が小さい。身長もそれほど大きくない。だから大きなベースは保持が大変だし格好もつかないと思った。気さくに話しかけられそうな雰囲気の奴はこいつしかいなかったのでバイトの女子高生に訪ねると、少し緊張した様子で赤い細身のベースをすすめてきた。
なんと言うか俺は一目惚れした。女子高生ではない。確かにこの子はぱっちりした目と控えめの性格で俺の好みではあったかもしれないが、今回俺が恋したのはベースにだ。なにより曲線美が大変素晴らしかった。細いネックがまた掴みやすく、音もそこそこ良いようだ。
中古らしいが値段は少し張っていた。まあ楽器なんかこれくらいの値段なのかもしれないと思いつつ、軍資金とお年玉なんかも考慮し、結局俺はこのベースを購入した。ついでに自宅練習用のアンプとコスパのよいエフェクターも買っていった。
そして数日たった今日。俺は今ベースを撫でているところだった。練習が終わり自宅に持ち帰り、労いもかねてスキンシップをとっていた。俺は楽器と良くスキンシップをとる。子供の頃からぬいぐるみや物へのアミニズム的な考えが抜けきらず、良く話しかけたりしている。
そろそろ直さなければいけない気もしているが、今のところ暮らしていく上でそこまで弊害になることはなく、現在もそのままなあなあで高校生活を送っていた。
何かの漫画で楽器と添い寝する女の子がいたことを思い出した。俺は楽器に性的な魅力を見いだしているわけではないが、確かに彼女のように添い寝なんてしてみるのも良いかもしれない。仲が深まるような、そんな印象がある。
俺はベースを布団のなかに招き入れ電気を消した。そろそろ10時を回る。まだ寝るのは早いが少し休憩してもよい頃だろうと思った。それに布団に入っておけば早めに寝てしまっても問題ない。
滑らかな手触りを再度確認する。すべすべ、人肌のようでいて固くてしっかりしている。ひんやりと冷たくて気持ちがいい。あまりきつく抱き締めるとネックが曲がったりしてしまいそうだからしなかったが、俺はベースを撫でながら引き寄せた。
楽器にこれほどまで安心感があったのは不思議だった。普段では忌み嫌っている煙草くさい香りも今回ばかりは非常に安心させる要素があった。
大きなあくびをひとつ。まあ寝てしまっても問題ないと思っていたし。
俺はこのまま一眠りをすることにした。まぁそれが、なんというか俺の日常が終わりを迎えた瞬間だった。