第一話 「戦闘意識」(2)
教室が陰る。レギオンの巨体は、太陽の光をさえぎるに十分の大きさだった。太陽の相克、まさに影を生み出す巨星が堕ちてくるかのごとき有様である。
そして、接触――窓ガラスが重圧に砕け散り、壁面には幾筋ものひびが走ってゆく。解体用の重機さながらに、教室を破壊しながらレギオンはなおも迫り来る。
逃げなければ、即座に圧死するであろう。だけれど、ぼくはその場を動かなかった。恐怖に立ち竦んでいるわけでは、決してない。
「おおぉっ……!」
拳を握りしめて、左足を一歩前へ。右手を引き、アニマの力を強く意識する。
この空間では、思念、戦おうという意識そのものが力となる。ゆえに、その想いが強ければ強いほど、そして確固たるものであるほど、アニマの能力はより研ぎ澄まされてゆくのだ。
祈り願ったのは、勝利の力。
避けるでもなく、逃げるのでもない。真っ向から立ち向かい、押し返せ。弾き返せ。このぼくに牙を剥いたことを後悔させるために。
「づ、らァァ――ッ!」
銀の手甲に宿った力を解き放つ。
振り抜いた右の拳が、レギオンの肉体へと接触したその瞬間――
『おお、これは――!』
白銀の粒子が、拳から飛び散った。粒子のひとつひとつが神々しく、あたかも夜天に光る星々のような輝きを帯びている。まさに小宇宙がそこに顕現したのだ。
そして、その銀の粒子が、渦を描いて銀河と化す。
『ぬ、お、お、お――』
肉塊が、止まった。手甲から発せられた銀河が、それ以上の進撃を許さないのだ。だが、この力は防御のためだけにあるのではない。この銀河は強力な盾であり、無比の矛でもあるのだから。
渦の回転が早まると、銀河は次第に立体の姿をとってゆく。その中央から、レギオンのほうへと向けて突出してゆくのだ。
それは、螺旋である。
回転から螺旋へと変化を遂げた銀河が、さらにレギオンを押し返してゆく。
校舎を押し潰せるほどの巨体が、成すすべもなく退いてゆくのだ。
やがて、巨体に阻まれていた日光が、ふたたび教室に降り注いだ。
「どうだ――」
呼気を吐き出して、天を見上げる。
螺旋が消え、中空へと追いやられたレギオンはどのような反応を見せるかと思いきや、盛大に笑い声を上げた。もしこいつが人の形をとっていれば、腹を抱えていたことだろう。
『そうか、そうかきさまが“白銀河”か! 出会えたことを光栄に思うぞ!』
「しろ、ぎんが……? 何だよ、それ」
『きさまに与えられた称号だ。誉ある戦士にのみ贈られる、賛美の証と思え』
「ああ、そう……なんか、あんまり嬉しくないな」
どうやら、ぼくは彼らの間で有名人になりつつあるらしい。
彼ら、つまりレギオンとは何なのか。
その正体とはどういうものなのか。
こうして何度目になるのかわからない死闘を迎えていながらも、間抜けなことにさっぱり不明のままだった。
動物のような個体がいれば、植物のような群体とも戦ったことがある。生物であるとさえ言い切れないような、摩訶不思議なレギオンも存在した。自然界に存在する動物や植物といったカテゴリーと対比させるよりは、むしろ生物とレギオンという対立のほうが当を得ているような気がしてならない。
そもそも、こんな戦闘意識だけが存在できるような次元にいるものたちだ。人間の常識で推し量ろうという試みさえもが無駄なのかもしれない。
しかし、ただひとつ明らかなことがある。
レギオンには、文化がある。
すなわち、狩りだ。
貴族が鹿を射るように、レギオンは人間の意識を殺す。
この戦闘領域はまさに狩場で、ぼくはそこに招かれた哀れなる獲物というわけだった。
けれども、ぼくにはレギオンに対抗するための力がある。
この力で、宇宙生命体じみたやつらとの死闘を切り抜けるのだ。
アニマという超能力さえ、もしかしたらレギオンたちに与えられたものかもしれない。
すると、これは狩りではなくむしろコロシアムに近いものであるだろうか。
どちらにしろ――人間に与えられた道は、戦うより他にはない。
「そんなことより、さっさと来なよ。生憎と、ぼくは機嫌が悪くてね」
『そう急くな。焦らずとも、まだ、この程度ではないぞ』
レギオンの周囲に生えたいくつもの腕が、海草のようにゆらゆらとうねっている。攻撃の予備動作だろうか、と身構えていると、
『われがレギオンたる所以、披露しようではないか』
不吉なる言葉とともに、その体に異変が起きた。
臓物のツギハギだった肉体が、徐々に分裂していったのだ。小さなパーツが校庭へ次々と落下してゆくさまは、カマキリの孵化を連想させた。それはつまり、一体だった敵が複数に増えたことを意味している。
「うわっ、ちょっ、冗談じゃないって!」
地面へと落ちた臓物には、それぞれに人間の手だけが生えていた。それが、アリの行列さながらにこの教室へと向かってくるのだ。その腕は吸盤のように校舎の壁面に張り付いて、スパイダーマン顔負けの壁登りを見せている。下手なホラー映画よりも恐ろしい光景だった。
まさに軍団、数の暴力とはこのことか。
早々と辿りついた臓器のひとつが、豚のような鳴き声を上げて飛びかかってきた。反射的に拳を叩き込み、アニマの力を解き放つ。螺旋の銀河が臓器を貫き、鮮血が咲き誇った。
しかし、たったひとつを潰したところで、相手にとっては小指の爪の甘皮を削り取られただけに等しいだろう。なにせ、這い上がってくる臓物の数は一〇や二〇ではない。桁が違う。心臓がゴム毬のように、腸が大蛇のように、大波となって押し寄せてくる。
物量に負けてはいられない、とばかりに、拳を叩きつけ、蹴りをお見舞いする。そのたびに敵は弾け飛び、赤い色が教室を染め上げてゆく。それでもなお、レギオンの勢いは衰えない。
いまや教室は、蠢く臓物に埋め尽くされようとしていた。
「く、そっ……! 多すぎるんだよ、このッ!」
顔めがけて跳躍した腎臓を握りつぶし、脚にしがみついた見たこともない肉塊を踏み潰した。だがそれも、レギオンにはわずかな痛痒にさえならないらしい。
『ふ、は、は、は、は! さあ、足掻け足掻け! もっとわれわれを楽しませてみせよ!』
どの個体が発したのかわからないが、癪に障る言葉だった。
レギオンにしてみれば、ぼくたちのような人間などまさに愛玩動物のようなものなのだろう。その構造は、ぼくらがペットを飼ったり、動物園で檻の中の生き物を眺めることとよく似ている。
つまるところ、絶対強者。
ヒエラルキーの頂点に立つものだった。
人間の立場からしてみれば憤懣やるかたない話であり、こうして命をもてあそぶような真似を許せるわけがない。けれどもそれは、ぼくらが飼いならしている動物たちにしてみても同じことなのかもしれなかった。
上に立つものに生殺与奪を握られている状態は、人間と動物との関係そのものではないのか。
レギオンの行いを理不尽だと怒る資格が、果たして人間にあるのかどうか――
などというのは、くだらない問いだった。
実際に、いま、この瞬間にも、ぼくは命を――正確には、この戦闘意識を絶たれるかもしれないのだ。するとどうなるのか、身に染みるほど理解していた。
これから戦ってください、負ければ死んでしまいます。そう言われて、じゃあ死んでもいいや、などと思うのは、人間である以前に生命として失格だ。死から逃げようとしないのは明らかな機能不全である。レギオンに負けると、待っているのは死に等しいものであって、決して逃げたり目を逸らしたり、あまつさえ諦めたりするようなことがあってはならない。あるべきではないのである。
ゆえに、このレギオンが滅ぶまで殴る腕を止めない。蹴りつける脚を止めない。
生存のための戦い。
それが、人間にとってのレギオンとの死闘なのだから。
「いい加減に、懲りろっての!」
そうして放った螺旋は、都合何発目になるのかわからない。少なくとも三〇匹以上は撃退したはずだった。にもかかわらず、臓器の数は減るどころかますます増殖しているような気がしてならないのは、いったいどういうわけか。
その答えは、臓物たちの行動にあった。
螺旋で穿たれて爆散した臓器は、そこら中に散らばっている。だが、その数があまりにも少ない。なぜかといえば、それを捕食するものがいたからだ。紛れもなく、他の臓器である。それぞれの体の一部がばっくりと裂けて、そこには鋭利な牙が覗いていた。そして散乱した破片を喰らうと、ぶくぶくと体が膨れ、そして、新たな個体が分裂する。
まさに永久回路。こちらの想像を二度も三度も超えてくる。
では、この半不死者どもとどう戦えばいいのか?
この空間において、ぼくの身体は物質ではない。戦闘意識で構成された、精神体のごときものだ。息切れや空腹にはならないとはいえ、精神的な疲労は蓄積してしまう。このまま戦闘が長引けば、間違いなくぼくの心が先に折れるだろう。
どうすればいい?
勝機を見出さなければならない。
でも、どうやって?
『まだだ、まだ終わるな。これほどの輝き、これほどのアニマ……なるほど、アンガージュマンが一目置くのもうなずける。素晴らしい資質だ』
「意味わからないことをひとりでペラペラと!」
同じ言葉を話してはいるが、その思考は宇宙の距離を隔てている。レギオンの口にする意味など考えるだけ無駄というものだ。
悪態をつくよりも、手足を動かせ。そして策だ。打開策を考えなければ。
『感じるぞ、まだ、何かがあるな。見せていないだろう、隠している力があるだろう。出し惜しみをするな、さもなくば待っているのは破滅のみだ』
レギオンの声は歓喜に震えていた。
そして、臓物たちの攻勢はより激しくなり。
「う、ぁっ――」
四肢にまとわりついた腕、腕、腕。心臓、肝臓、腎臓、肺。脳、脳、脳たちが、いっせいにその牙を剥いた。
あらわになった口の中は、一瞬、あっけにとられるほど綺麗な肉の色をしていた。
まず、首筋に熱が走った。
悲鳴を上げる前に、腕を、腹を、大腿を、次々と痛みが喰らいついてくる。
食われてゆく。




