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Animum Rege -超越せよ無限連鎖の因果調律-  作者: 白猫矜持
第一章・Cum tacent, clamant.
4/6

序幕


 そこは、凍てつく世界だった。


 住宅地である。立ち並ぶ建物や電柱、道路――それらの至るとことが青白く染まりあがっている。氷漬けになっているのだ。

 季節は夏で、さらに陽は高い。だというのに、寒々しい空気が地上に席巻して、あちこちで凍結が起きていた。

 あたりに人の気配はない。無人だ。

 この異様な光景に、みなが逃げ出したのか?

 それとも、そこらの物体と同じく氷像となってしまったのだろうか。


 ――否、である。

 町並みはまさに人の生活する空間であった。しかしながら、生活の空間が整っているだけで、そこに人々の姿があった形跡はない。まるで完璧な舞台は用意されているにもかかわらず、そこに存在すべき役者たちが舞台袖から出てきていないかのように。


 町並みを調べて回れば、その異様さはより目に付くことだろう。

 洗濯物が干してある。

 路肩に車が停まっている。

 縁側に広げられた新聞が置かれている。

 それらの多くが、氷に侵食されている。

 直前まで人が生活していたとしか思えない有様ながら、何かがおかしい。


 何かが欠けているのではなく――その逆、あまりに綺麗すぎるのだった。

 たとえば、少しでも走った車ならば、タイヤに泥だとか汚れがついていて然るべきである。ところが、前半分が凍り付いている点を除けば、まるで新車のように綺麗なのだ。

 家にしても、道路にしてもそうである。

 たったいま完成したとでもいうかのように、わずかの傷や汚れさえないのだった。

 真夏の氷点下という異常事態もあいまって、実に奇妙で、神秘的でさえある空間。

 生命の存在を拒むかのごとき冷厳な世界。


 では、人も動物も立ち入ることができないかといえば――これもまた、否であった。


 氷を踏み砕いて、いま、一頭の獣があらわれた。


 黒い体毛、隆々とした筋骨、しなる長い尾。

 二足歩行の人狼、とでも評するのが正しいか。

 しかし、狼男というには足りないものがあった。

 頭、である。

 首から上を持たない怪物であった。


 元は、恐ろしい頭を備えていたのだろう――輪切りにされたと思われる首筋から、怨念のごとくに黒いもやが吹き出ている。失われたその部位を求めて、氷結の街をさまよう幽鬼。

 まさしく、人智を超えた化け物であった。


 そして――

 もうひとつ、そこに影がある。


 絶対零度の世界は、一切の生を拒む停滞の地獄だ。首なしの獣しかり、尋常な生命がその場に立ち入ることなど許されない。

 にもかかわらず、氷膜の張ったアスファルトを踏みしめたのは、ひとりの人間だった。学生服姿の、年端も行かない少女だ。

 黒く長い髪、対極的に白い肌、桜色の唇――そのどれをとっても美しく、そして調和がとれていた。完成されたひとつの芸術品とでも評すべき、類まれなる美貌の少女であった。


 その手には薄刃の煌きがあった。つららを刀剣の形に研ぎ澄ましたかのような、透明の刀だ。一見するとそれはもろく、そして儚げでさえある。武器としてではなく、少女と同じようにひとつの美術品としてのみ価値をもつ――そう思わせる輝きだった。


 だが、その評価は決して正しくない。

 獣と相対した少女の瞳こそが、彼女の本質をあらわしているのだ。

 その双眸は――周囲に広がる氷よりもなお青く、そして冷厳であった。

 地獄に紛れ込んだ哀れなる少女か?

 否。

 断じて、否である。

 その真逆だ。


 少女こそが、この凍結の地獄を招いた張本人であった。


「――――」

 少女が小さく息を吐き出した。

 そして、剣を持ち上げる。

 正眼――獣の心の臓を狙う、一撃必殺の構えである。

 対する獣は、少女の存在に気づいているとも思えず、ただあてどなく歩を進めるのみだ。

 なにせ、獣には少女の姿を確かめる眼がない。

 少女の呼気を探るための耳がない。

 少女の甘い、しかしそこはかとなく哀しげな香りを嗅ぎ当てるための鼻さえない。

 頭のない獣は、手探りのままに歩き続けるだけだった。


 ゆえに――このまま進めば、少女の必殺の間合いに入ることは必定。

 細身とはいえ、揺らぎのない構えと視線は、熟達した剣士のものだ。その攻撃をかわす契機をもたぬ獣が、少女に対抗できる道理などありはしない。

 また、一歩。

 しかし、だとすれば少女こそ待ち構える必要はないのではないか。

 獣の背後に回りこみ、その無防備な巨躯に刃を突き通せば済む話である。

 なにゆえ、わざわざ敵手の動きに合わせなければならないのか。

 そう、少女の側から攻め込むと、何か不都合があるとでもいうかのように――


 そのときであった。

「――っ」

 少女の目の前で、獣が突如、腕を振り上げたのである。

 そのまま、熾烈な一撃を地面に叩き込んだ。

 轟音――まるで爆撃を受けたかのように、アスファルトが砕け散る。いくつもの破片が周囲に飛び散り、そして当然、少女にも襲い掛かった。

 猛然と唸る瓦礫を、しかし少女は避けようとしない。手にした氷の刃で弾くことさえせず、ただ構えを崩さないまま、破片をその身で受け止める。


 大きな断片が頭に痛打を加えた。

 腹部に食い込んだ。

 小さな欠片が右の太ももを裂いた。

 肩口に突き刺さった。

 無数の傷を負ってなお、少女は動かない。

 決死の覚悟で持ちこたえているのか?

 命に代えてでもこの獣をほふると、魂に誓いを立てているからこそ動かないのか。


 ――これもまた、否である。

 死ぬ覚悟など少女はもっていない。そもそも、この戦いの目的は獣を倒すことではない。


 生き延びることだった。

 辺り一帯を地獄に変えてでも、この獣の魔手を逃れること。

 それが、この少女の目的なのだ。


 ゆえに、必殺の手は最後の手段といえた。身を隠し、息を潜めていようとこの獣は少女の場所までやってくる。いったいどうやって探り当てているのかわからない。ただ闇雲に動き回っているとしか思えぬ。だというのに、獣は少女を決して見失わない。

 見つかるたびに、少女は己の力を駆使してどうにか逃げおおせていた。

 その際に用いた能力の余波が――この氷結地獄を招いたのである。


 だが、それもここまで。

 戦いが始まってから、長い時が流れた。一時間か、それとも半日か。一日経ってしまったということはないだろうが、それにしても長丁場だ。

 太陽は高い位置にある。

 ずっと長い間、その位置から動いていない。

 ここはそういう世界なのだ。


 世界の時が流れないからこそ、少女はどれほどの間、自分が戦い続けているのかわからない。そして、戦闘が長引けば長引くほど、少女の疲労は蓄積してゆき、やがて致命的な隙を見せてしまうだろう。

 肉体と、そしてそれ以上に精神の限界が訪れようとしていた。

 戦いが長引けば、確実に死ぬ。


 ゆえに、その前に決着をつけようというのであった。

 ともすれば膝から崩れ落ちてしまう少女を支えているのは、死への恐怖に他ならない。


「く、っ……!」

 悲鳴さえ押し殺して、獣の動きを注視する。

 地面を叩き砕いた獣は、その攻撃によって獲物に効果がなかったことを察したのだろうか、ふたたび少女のいる前に向かって歩みを進めた。

 一歩、また一歩。

 はやる心を抑えて、少女は待ち続け。

 そして、あと一歩で刃の届く距離にさしかかったとき。

 獣が、足を止める。


 少女の心に戦慄が走る――なぜ? 敵はこちらの位置がわかっているのか?

 獣はその場所に棒立ちになったまま、動こうとしない。その位置は偶然か、あるいは少女の存在が判明しているがゆえの必然か。

 少女が踏み出せば、獣の胸に切っ先は吸い込まれてゆくことだろう。それほど目と鼻の先に、獣はいるのだ。だが、まだだ。まだ必中の間合いではない。

 じれったい時間だけが過ぎてゆく。

 柄を握る少女の手が、かすかだが震え始めた。これまでに蓄積していた疲労が、まさに頂点に達しようとしていたのである。

 首なしの獣が前に進まずとも、あるいは方向を変えて――背後を顧みるようなことがあれば、即座に踏み込むつもりであった。しかし、そんな少女の算段もむなしく、獣は周囲と同じく氷像になってしまったかのようなまま、微動だにしない。


 そして、ついに耐えかねた少女が、先手を打った。


 地を滑るような歩法のもとに、一刀を繰り出す。

 瞬間――獣の体に、おそるべき変化が起きる。

 全身のいたるところに、目、鼻、口があらわれたのだ! 悪夢のごとくに浮き出たそれらは、動物のものであり、人間のものでもあった。

 いまや、獣に死角などない。薄青いきらめきがその胸に突き刺さる前に、屈強な日本の腕が刃を捕らえていたのである。見事な白刃取り。真冬の湖面を打ったかのような澄み切った音が鳴り響き、刃は体躯に触れる寸前で止められていた。


「く、っ――!」

 少女の美しい顔が驚愕の相に歪んだ。

 獣が狙っていたのは、まさにこの瞬間だった。

 どうやらこの醜怪きわまりない生き物は、自らに対して害意をもった存在が、周囲で動いているときに限定して顔を浮かび上がらせるらしい。

 その誘いに、少女はまんまと嵌ってしまっていたというわけだ。

『ア、ア、ア、ア、ア、ア、ア、ア、ア!』

 獣に浮かび上がったいくつもの口が、揃って不気味な笑い声を上げた。鳥獣のものであり、人間のものでもあるその笑声は、聞くものの心を戦慄させる。

 少女の瞳に、恐惶の色がはしり――同時に、もうひとつの光が灯った。


 熟達した動きを見せる彼女が、何の考えもなしにこのような愚考に及ぶはずがない。

 無論、少女にも策がある。

 まさにいま、その秘めたる力が顕現する瞬間であった。

「目障り、なのよッ……!」

 強い思念が、少女の総身から吹き上がる。

 目に見えない力が刃を伝わり、獣へと襲い掛かった。

『ア、ガ、ガ、ア?』

 もし獣に頭があれば、何が起きているのかと首をかしげていただろう。

 氷の刃をつかむ手が動かない。腕が動かない。肩が、胴が、脚が、まったく動かなくなってゆく。

 己がグロテスクな氷のアートへと変貌していった事実さえ、わからなかったのではあるまいか。


 ついに一切が停滞してしまった獣の前で、少女は剣の柄から手を離し、その場に崩れ落ちた。まさに紙一重の攻防であった。少女の思念が獣にたどり着くのがほんのわずかでも遅ければ、獣の屈強な腕が少女の体をいともたやすく貫いていたはずだ。

 終始、張り詰めさせていた精神がゆるんでしまい、体に力が入らない。


 そして――それは、戦い慣れていた少女に訪れた、最大の隙であった。


『オ、オ、オ、オ、オ!』

 突如、けたたましい怒号が獣からほとばしる。

 少女が目を剥き、見上げたときにはもう手遅れだ。

 獣の首から吹き出ていた黒い靄が、幾数匹もの蛇となって少女の痩躯を絡めとっていた。やすやすと宙に持ち上げられ、さらに得物を手放してしまった少女には対抗する術がない。四肢を方々に引かれ、まさに磔の体にされてしまう。

「く、ぅっ……!」

 歯を食いしばり、苦悶の表情を浮かべることしか少女にはできなかった。


 そのとき、蛇の一匹があごを大きく開くや、少女の右腕を丸呑みにした。細くしなやかな指先から肩口までを、すっぽりの呑み込んでしまったのだ。

「う、あ――」

 自分の身に何が起きようとしているのかわからないうちに、さらに左腕、そして右脚、左脚もまた蛇の餌食となる。

 次に生じたのは、鮮烈な痛みだ。さながら、指の一本一本を鉛筆削りにかけられているかのように、想像を絶した痛みと、そして熱さが少女に襲いかかっていた。


 手足の先から、消化されている!

 のどからほとばしるがままに悲鳴をあげ、どうにか蛇の磔地獄から逃れようと四肢を暴れさせるが、それこそ霞をつかむかのように手ごたえがない。

 自らの体が、削られ、溶かされ、消えてゆく!

 その痛みと恐怖たるや、少女の理性を打ち砕くには十分すぎた。

 待ち構えている最悪の結末を避けるように、あらんかぎりの絶叫をほとばしらせる。それだけしか、いまの少女には成しえなかった。


 指の感覚がなくなった。手首、それから足首を動かすことさえできなくなった。

 死ぬ。

 死ぬ。

 このままでは、死んでしまう。


 視界は涙で歪み、耳には自身の悲鳴と、さらには骨肉がそがれてゆく生々しい音だけが響き渡っている。

 もはや少女の精神と肉体は、ここで潰えようとしていた。

 絶望が、まさに臨界点へと達しようとした、その刹那に。

 遠くに、聞こえる、鐘の音が、――



 そして。



 ――いま、少女は悪夢から引き上げられた。

 



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