初恋の君をお大事に
初恋の君をお大事に
少し開いた談話室の扉の隙間から、アメリアは静かに室内を見つめていた。
談話室の中央では、留学から戻ってきたメリルを令息たちが囲んでいる。
栗色のふわふわの髪をした小柄なメリルの隣には、がっしりとした体格のカシアンが立っていた。
その後ろには、赤銅色の髪のローガンと、右目に銀縁の片眼鏡をつけたソーレンの姿がある。
「それにしても、あの足運びは傑作だったなぁ」
ローガンの声が、扉の外にいるアメリアの耳に届く。
「足を引き摺るようなあの動き。とても夜会で披露できるようなものじゃない」
その言葉に、ソーレンが、小さく肩を揺らして笑い声を漏らした。
「仕方がありませんよ。後遺症があるのですから」
「そうよね。アメリア様も、無理をして踊らなければよろしいのに」
メリルが同意するように頷きながら笑う。
アメリアは視線を落とした。
メリルが留学へと旅立った直後、カシアンはひどく落ち込んでいた。注意散漫になっていた彼が馬車に轢かれそうになった時、アメリアは彼を突き飛ばして助け、代わりに自分が怪我を負った。
カシアンはその責任を取る形でアメリアと婚約したが、彼女はその怪我が原因で、得意だったダンスが二度とまともに踊れなくなってしまっていた。
学園の授業で踊る事はあっても、夜会で披露出来る筈もない事はアメリアが一番よく分かっている。
室内では、まだ彼らの会話が続いていた。
「カシアンも大変だな。あんな不格好な姿を見せられては、同行する気も失せるだろう」
ローガンの問いかけに対し、アメリアの婚約者であるカシアンは何も答えなかった。
灰銀の頭を傾け、ただメリルたちを見守るように微笑みを浮かべているだけだった。
彼らの嘲笑を咎める言葉も、アメリアを庇う素振りも一切ない。
アメリアはそれ以上扉の奥を見ることはせず、静かに踵を返した。
自室に戻ったアメリアは、扉の向こうで見た光景を思い返しながら、一人静かに過去を辿っていた。
カシアンは、アメリアにとって昔からの憧れの人だった。物腰が柔らかく、穏やかで見目麗しい彼は、誰からも好かれる人気の高い令息である。
かつて教会の奉仕活動に熱心に取り組んでいたアメリアは、たまに教会を訪れるカシアンの姿を、ただ遠くから見つめているだけで満たされていた。
その同じ教会の奉仕活動に、メリルも参加していた。
だが、彼女はその頃からすでに、他の令嬢たちから遠巻きにされる存在だった。
理由は単純だ。
メリルは、他人の手柄を横取りするからである。
皆が床の掃除を終え、ようやく息をついた瞬間に箒を持って現れる。あるいは、救貧院の老人たちの清拭がすべて終わったところで、いかにも今から手伝うかのように真新しい手拭いを持って現れる。
事情を知らない外部の人間の目には、メリルが率先して献身的に働いているように映る。
しかし、教会の人間や、実際に汗を流して奉仕活動をしていた令嬢たちは皆、彼女のその振る舞いを知っていた。
カシアンとメリルは、まさにその教会で出会い、恋に落ちた。
彼もまた、メリルの見せかけの姿を信じた外部の人間の一人だったのだ。
アメリアは、カシアンの心にあるのが自分ではなくメリルなのだと、とうの昔に分かっている。
あの事故をきっかけにカシアンと婚約して、三年が経った。
その間、彼から熱の籠もった瞳で見つめられたことなど、ただの一度もない。
カシアンはアメリアに対して優しい。
だが、それはただ「優しいだけ」なのだ。
今でもメリルに何かあれば、彼はアメリアとの約束すら無視して、すぐさまメリルの元へと飛んでいく。
憧れの人と婚約できたはずの三年間は、穏やかに終わりへ向かっていた。
メリルの帰還によって、彼が誰を愛しているかをただ静かに突きつけられ続ける日々に塗りつぶされていく。
後日の昼下がり。
庭園に面した明るい談話室で、アメリアはローガンとメリルに呼び止められた。
「いい加減、カシアンを解放してやれよ」
ローカンが、右目の緑と左目の青の瞳を細め、笑いながらアメリアに向かって言った。
その言葉を聞いて、隣にいたメリルが慌てたように声を上げる。
「もう! やめて。幾らローガンでも言っていい事と悪いことがあるでしょう」
栗色の髪を揺らしながら、メリルはローガンをたしなめるように叱る。
しかしローガンは気にする素振りも見せず、あっけらかんと言葉を続けた。
「皆知ってるよ。カシアンが誰を好きなのかって。でもさ、もう十分恩は返しただろ?」
「それは、そうかもしれないけれど、でも……」
メリルは言いよどみ、気の毒そうな視線をアメリアへと向けた。
アメリアは表情を変えることなく、凪いだ瞳で真っ直ぐにローガンを見つめ返し、静かに口を開いた。
「そのお話は、カシアン様はご存知ですか?」
「あいつは優しいから言い出せないだけだよ」
ローガンは肩をすくめてみせる。
アメリアは、落ち着いた冷ややかな声で返した。
「だとしても。カシアン様にそう仰ってくださいませ。わたくしも、解消を受け入れる準備はございます」
アメリアの淡々とした口調の前に、ローガンはそれ以上言葉を返すことなく、メリルもまた押し黙ったまま彼女を見つめていた。
放課後の談話室で、ローガンが、へらりと笑いながら目の前に座るカシアンに向かって言った。
「いい加減お前もさ、婚約解消しろよ。メリルも帰って来たんだし」
その言葉を聞いて、隣にいたメリルが眉を下げてローガンを止める。
「もう、ローガンてば止めて。そういう事仰るの。アメリア様がかわいそうですわよ」
栗色の髪を後ろに払ったメリルを横目に、ローガンは片目を軽く細めてみせた。
「誰もあんな女と結婚したいだなんて思わないのは皆分かってるし、お前が責任感強いのも分かるけど、もう十分夢は見させてやっただろう? 高価な贈り物だってしてたんだし」
カシアンは、後ろに流した灰銀の髪を撫でつけ、穏やかな瞳でローガンを見返した。
不思議そうな顔でカシアンは目を瞬く。
「婚約の解消? そんな事はしない」
思いがけない返答に、ローガンは素っ頓狂な声を上げた。
メリルもカシアンの即答に意表を突かれた顔をする。
「はぁ? だってアメリア嬢だって、解消してもいいって言ってたよな?」
ローガンがメリルへ視線を向けると、彼女は淡い褐色の瞳を伏せ、少し言いよどみながら口を開いた。
「……それは、確かにそう、言っていましたけれど」
メリルの言葉を聞いても、カシアンの態度は変わらなかった。
彼はいつもの穏やかな表情を崩すことなく、ただ一言、淡々と返した。
「それは拗ねているだけだよ」
天井から吊るされた巨大な吊り下げ燭台が、白い大理石の床に眩い光を落としている。
弦楽の優雅な調べが響き渡る大広間には、色とりどりの豪奢な衣装や仕立ての良い夜会服を纏った貴族たちがひしめき合い、華やかな笑い声で溢れていた。
その喧騒から少し離れた壁際に、アメリアは一人、静かに立っている。
装飾の少なめの青い衣装は、長身で透き通るような白い肌を持つ彼女の冷ややかな美しさを引き立てていた。
濃紺の長い髪を後頭部できっちりと結い上げたアメリアの姿勢は、定規を当てたかのように真っ直ぐで、一片の乱れもない。
だが、その豪奢な靴の底で、彼女の足は微かに震え、鈍い痛みを訴え続けていた。
「すぐに座れる場所を確保して、飲み物を持ってくる。ここで待っていてくれ」
カシアンがそう言い残して人混みへと消えていく。
アメリアの足は、以前カシアンを庇って馬車に轢かれた際の後遺症で、長時間の立位に耐えられない。
壁に寄りかかることすら淑女の作法に反するとされるこの場で、彼女はただ瞳を伏せ、自らを彫像のように律して痛みを堪え続けている。
その時、広間の入り口付近が俄かにざわめいた。
人々の視線が引き寄せられた先には、ひとりの令嬢が立っていた。
光の加減で艶やかに輝く、明るい栗色の柔らかそうな髪。
それをふんわりと結い上げたメリルである。
長く上向きのまつ毛に、大きくて潤みのある榛色の瞳。
染み一つない透き通るような白い肌と、血色の良い桜色の唇。
小柄で華奢な彼女は、誰もが目を惹きつけられる可憐で華やかな美貌を放っており、周囲の貴族たちが思わず道を空けるほどだった。
メリルが会釈をしながら広間を進み始めた直後、彼女の近くを通りかかった給仕が、人混みに押されてわずかに均衡を崩した。
銀の盆に乗っていた酒杯が揺れ、メリルの衣装の裾にほんの数滴、琥珀色の酒が跳ねる。
「あっ……」
メリルが小さく肩をすくめたその瞬間、飲み物を手にしてアメリアの元へ戻る途中だったカシアンが素早く給仕の銀盆に飲み物を戻すと、群衆を掻き分けて駆け込んで行った。
肩幅が広くがっしりとした体格でメリルを周囲から庇うように立つと、琥珀色の瞳で彼女の衣装を心配そうに覗き込むのが遠目にも見える。
アメリアには向けられない瞳。
そしてカシアンは、痛みに耐えながら自分を待っているはずの婚約者の存在など完全に頭から抜け落ちたかのように、メリルの肩を抱き、別室の休憩室へと歩き去ってしまった。
取り残されたアメリアは、その背中を追いかけることも、声を上げることもなかった。
ただ、諦めた瞳で静かに事の顛末を見送ると、戻る筈もない男の帰りを壁際で待ち続ける。
楽しそうな騒めきも、人々の噂話もアメリアの耳には届かない。
いつだってそうだった。
彼が優先するべきは初恋のメリルなのだ。
少しずつ削られた心が、砕け散るのは早かった。
やがて、限界を迎えた足の痛みを堪え、広い王宮の廊下を歩き、アメリアは自力で休憩室へと辿り着く。
開かれた重い木製の扉から中を見ると、そこにはカシアンとメリル、そして二人の見知った友人たちの姿があった。
上質な天鵞絨の長椅子の中央にはメリルが座り、そのすぐ隣にカシアンが寄り添っている。
向かい側には、ゆったりとした仕立ての服を着たローガン・アイアースが立ち、ゆるく波打つ赤銅色の髪を揺らしながら何事か楽しげに笑っていた。
彼の隣にはソーレン・カルディスがおり、相槌を打っては笑っている。
入室したアメリアの姿に最初に気づいたのはカシアンだった。
彼は琥珀色の瞳を向け、いつもの穏やかな、どこまでも悪気のない微笑みを浮かべて口を開く。
「アメリア、自力で休む場所を見つけられたんだね。よかった。メリルが衣装を汚されて怯えていたから、落ち着くまで傍にいてあげたんだ」
その言葉を聞いて、メリルが長椅子から立ち上がった。
上目遣いの大きな瞳でアメリアを見上げ、可憐な桜色の唇を震わせる。
「アメリア様、ごめんなさい……。わたくしのせいで、カシアン様を引き留めてしまって」
メリルの声は細く、儚げだった。
しかし、彼女の豪奢な衣装の裾には、注視しなければ分からない程度の小さな水滴の跡があるだけだ。
対してアメリアは、一時間もの間硬い靴で立ち尽くし、広大な王宮の廊下を自力で歩いてきたせいで、立っていることすら辛いほど足を引き摺っていた。
彼女の顔色は、元の透き通るような白さを超えて、血の気を失った蒼白に近い。
しかし、カシアンは婚約者の負傷した足元に視線を向けることはなかった。
彼はローガンや、ソーレンと視線を交わすと、再びアメリアに向き直って告げる。
「もう少しここで、メリルを休ませたいんだ。君は先に馬車で帰って休むといい」
そこには、婚約者を労わる言葉も、放置したことへの謝罪もない。
ただ「自分は傷ついた令嬢を守る立派な紳士である」という、無自覚な自己陶酔だけが満ちていた。
ここまで歩いてきたアメリアを言葉の上では労うが、休ませるという選択肢は無いらしい。
更に馬車まで同行無しで歩けという事だ。
「俺が同行してやろうか?」
傲慢な笑みを浮かべたローガンの誘いをアメリアは静かに断った。
「いいえ、結構でございます。失礼致します」
アメリアはぴくりとも表情を変えない。
声すらも乱すことなく、完璧な淑女の礼の角度で一礼だけして、静かにその場を後にした。
帰りの馬車の中、そしてダナリス伯爵邸の自室のデスクに向かった後も、アメリアの表情は凪いだ水面のように静まり返っていた。
漸く覚悟が決まったのだ。
ローガンが婚約を解消しろと唆した際、カシアンは明確に『そんな事はしない』と答えたらしい。
それはソーレンを通じて、ソーレンの婚約者のリネアから齎された情報だった。
彼は、自身の命の恩人であり、その後遺症に苦しむアメリアを捨てない、責任感のある優しい男という自身の体面に、彼自身が最も依存しているのだろう。
カシアンからの自発的な婚約解消がないと悟ったアメリアは、ただ受け身でいることをやめた。
(この三年間……わたくしに出来るだけの事はしたわ)
三年間。
カシアンを愛し、彼の為に学んできた。
公爵家で夫人から指導を受けていたのだ。
厳しくも優しい、温かい人。
第二の母とも呼べる公爵夫人との別れの方が今は悲しい。
それでも、もう無理だった。
自分を愛していないのは最初から分かっている婚約を、受けるべきではなかったと今更ながらに思う。
足の不自由になった令嬢の貰い手などないという理由もあり、公爵家の顔を立てる必要もあった。
そして何より、ずっと憧れていたカシアンの妻になれるかもしれないと夢を見た結果がこれだ。
妻になったところで、愛されないどころか最低限の礼儀すら尽くされず、嘲笑する者達と共に笑う人間を尊敬する事は出来ない。
これが一生続くのかと思うと、アメリアは耐えきれそうになかった。
好きな相手でなければ、ここまでの痛みはなかっただろう。
彼女は引き出しから最上級の羊皮紙を取り出し、インク壺に羽ペンを浸した。
これから書き上げるのは、裏切られた令嬢の悲恋の手紙などではない。
両家の当主、カシアンの父であるヴォードリア公爵と、父であり領地にいるダナリス伯爵の元へ提出するための、極めて事務的な報告書である。
貴族社会において、ただの痴話喧嘩や個人の感情のすれ違いは、公爵家と伯爵家の婚約を白紙に戻す理由にはならない。
婚約を解消するためには、公爵家側が「この婚約を続けることは我が家の不利益になる」と判断するだけの論理と事実が必要だった。
元々利もなければ、社交界での立場を優先する為の縁組である。
それを解消するには、大した労力はいらない。
不貞だと騒ぎ立てる必要すらないのだ。
アメリアの羽ペンが、淀みなく紙の上を滑っていく。
第一の要項は、自身の健康上の理由について。
『先年の事故による足の後遺症により、夜会での長時間の立位、および社交に必須である舞踏が事実上不可能でございます。将来、次期公爵夫人としての激務をこなすには、わたくしは心身ともに不適格であると判断いたしました』
この一文は、家同士の強い結びつきを持たない公爵家にとって、アメリアという負債を切り捨てるための完璧な大義名分となる。
公爵家は、恩人に怪我を負わせて責任を取らなかったという汚名を被ることなく「本人の体調不良による辞退」という形で円満に婚約を終わらせ、カシアンにより身分の高い別の令嬢をあてがうことができる。
第二の要項は、カシアンの行動記録。
『王宮での夜会にて。カシアン様は負傷した足を抱える婚約者を一時間以上壁際に放置し、子爵令嬢メリル・タムジン嬢を伴って別室にて談笑しておられました』
さらに、過去の談話室での会話も事実のみを連ねる。
『ローガン・アイアース様、およびソーレン・カルディス様による、後遺症に対する公の場での嘲笑。ならびに、カシアン様がそれを黙認した事実をご報告いたします』
もしこの事実が社交界に広まれば『命の恩人である婚約者を冷遇し、友人たちと共に嘲笑した』として、ヴォードリア公爵家の義理と名誉は地に落ちる。
アメリアは、公爵家の名誉がこれ以上傷つく前に身を引きたい、という建前を装いながら、実際には公爵の喉元に刃を突きつけていた。
第三の要項は、不当な財の流出の記録。
アメリアは、婚約者である自分へ贈られた品々の目録と、カシアンがメリルへ贈った宝石や衣装の目録を比較し、金額的な偏りを商会の記録とともに淡々と書き記した。
婚約者として公爵家のカシアンの購入記録を調べるだけなのだから、証拠を集めるのは簡単である。
次期公爵が、なんの利もない他家の子爵令嬢へ無断で財産を流出させている事実は、公爵家当主にとって到底見過ごせるものではないだろう。
アメリアは冷ややかな瞳で、美しく書き上がった文面を見下ろした。
カシアン本人に抗議などしない。
彼が、自分は優しい完璧な男だという幻影に酔いしれている間に、外堀を理詰めと証拠で完全に塞ぎ、公爵家の側から婚約を白紙に戻すという決断を下させる。
いくらカシアンとはいえ、家長である公爵の判断は覆せない。
カシアンが何を守りたかったのか、アメリアにはどうでもよかった。
静まり返った部屋の中、報告書にダナリス伯爵家の封蝋を落とし、アメリアは一人、初めて薄く冷たい微笑を浮かべた。
アメリアが両家の当主へ宛てて、一切の感情を排した報告書を提出してから数日後。
水面下で公爵家と伯爵家の間に激震が走る中、社交界の令嬢たちもまた、それぞれが握っていた手綱を容赦なく引き絞り始めていた。
王都の一角にある豪奢な王都邸の談話室。
侯爵令嬢クレシダ・ロザリオは、向かいの席に座るアメリアに向けて、優雅な手つきで紅茶を勧めた。
腰まで届く艶やかな黒髪を揺らし、クレシダは細身の身体を長椅子の背もたれに預ける。
彼女の吊り気味の深紅の瞳には、冷ややかな怒りと諦念が入り交じっていた。
鮮やかな赤い口紅を引いた唇が、弧を描く。
「ごきげんよう、アメリア嬢。貴女がカシアン様との婚約を白紙に戻す手はずを整えたと伺って、わたくしも決心がつきましたたの」
クレシダは卓の上に、数枚の書簡と調査報告書を滑らせた。
濃紺の衣装に身を包み、同色の長い髪をきっちりと結い上げたアメリアは、瞳を伏せてその書類に視線を落とす。
そこには、あの夜会の裏で、クレシダの婚約者であるローガンが、メリルと露台で密会し、親しげに身を寄せ合って接吻まで交わしていた事実が詳細に記されていた。
「ローガンは、わたくしを熱烈に口説き落としておきながら、あの娘が留学から戻ってきた途端にこれですわよ。元々、カシアン様へのつまらない嫉妬心から貴女にも言い寄っていたと聞いておりますし、本当に救いようのない男ですこと」
クレシダはふんわりと冷笑を漏らした。
ローガンは、常に完璧な貴公子としてもてはやされるカシアンに強い劣等感を抱いていた。
だからこそ、カシアンの婚約者であるアメリアを口説き落とすことで己の優位性を示そうとしたが、アメリアは全く相手にしなかったのだ。
彼の優越感を彩る道具になどなる気は無かったし、不貞などする気も無かった。
だからこそ親切顔でカシアンに婚約解消を迫り、メリルの前でアメリアを嘲笑していたのだろう。
「わたくしは、貴女の婚約解消が正式に発表されるのと同日に、ローガンに婚約破棄を叩きつけるつもりでおりますの。あのような不誠実な男、侯爵家の入り婿にする価値はございませんわ」
「……賢明なご判断かと存じます、クレシダ様」
アメリアは静かに頷き、紅茶へ手を伸ばした。
感情の起伏を見せない彼女の横顔は、まるで美しい彫像のように静謐だった。
ローガンを切り捨てる算段を語った後、クレシダはふと真剣な色を深紅の瞳に浮かべ、居住まいを正す。
「……アメリア様。本日はもう一つ、貴女に直接お話しし、筋を通しておきたいことがあってお呼び致しましたの」
「わたくしに、筋を……?」
顔を上げたアメリアは、瞳を静かに瞬かせた。
クレシダは真っ直ぐにアメリアを見据え、隠し立てすることなく自分の計画を口にする。
「貴女とカシアン様の婚約が白紙に戻った後……わたくしは、次期公爵であるカシアン様と我が侯爵家との、新たな婚約を公爵家に持ち掛けるつもりです」
それは、社交界の勢力図を塗り替えるほどの大胆な政略だった。
「侯爵家にとって、公爵家との結びつきは最大の利点。そして何より、カシアン様へのつまらない劣等感を抱えたまま伯爵家から放り出されるローガンにとって、わたくしがカシアン様の妻となることは、これ以上ない屈辱と絶望になるはずですわ。」
クレシダはそこで言葉を区切り、微かに眉を下げた。
「ですが、カシアン様は貴女が三年間、心から愛し支えてこられた方。その座にわたくしが収まることを、不快に思われるのでしたら……」
クレシダはアメリアの心情を慮り、もし彼女が拒むのならこの計画を再考する覚悟すら持っていた。
貴族としての計算高さを持ちながらも、同じように不誠実な男に振り回されたアメリアに対する、クレシダなりの最大限の敬意と筋通しだった。
しかし、アメリアの表情に揺らぎは一切なかった。
彼女の透き通るような白い肌に、ほんのわずかに朱が差し、晴れやかな微笑みが浮かぶ。
カシアンの前で見せていた完璧な淑女としての微笑みではなく、彼女自身の意思を持った清らかな笑みだ。
「良いお考えだと存じますわ、クレシダ様」
「……アメリア様」
アメリアの瞳には、カシアンへの未練など微塵も残っていない。
それをクレシダは少し驚いたように見つめる。
「わたくしの足では、次期公爵夫人としての激務は務まりません。ですが、聡明で決断力のある貴女ならば、公爵家を立派に支えていかれるでしょう。……それに、カシアン様には、貴女のように強く手綱を握ってくださる方が必要だと存じます」
好きだから言えなかった事、言わなかった事がカシアンを歪めてしまった。
アメリアの穏やかな言い分はすべて「嫉妬で拗ねている」と変換されて、何も通じなかったのだ。
だから、クレシダのように冷徹に現実を突きつけて徹底的に管理する妻が彼にはふさわしいのかもしれない。
アメリアのその言葉に込められた意味を正確に理解し、クレシダは瞳を細めて心底痛快そうに笑った。
「ふふっ……ええ、そうね。彼の甘ったれた性根は、わたくしが徹底的に叩き直して差し上げますわ」
「ええ。貴女の新たな門出が、素晴らしいものとなりますように」
茶器をそれぞれ祝杯のように持ち上げて、二人の令嬢は静かに微笑み合った。
男たちが己の体面や嫉妬、浅はかな欲望に溺れている間に、理性的で誇り高い二人の令嬢は、完璧に彼らの運命を決定づけたのだった。
同じ頃、子爵邸の温室では、別の冷ややかな通告が行われていた。
「わたくしは、貴方との婚約を解消するつもりはございません、ソーレン様」
亜麻色の髪を緩い三つ編みにして片側に寄せたリネア・ソルムは、ふっくらとした柔らかな両手を膝の上で重ね、水色の垂れ目で真っ直ぐに婚約者を見据えていた。
向かいに立つソーレン・カルディスは、銀縁の片眼鏡を指で軽く直す。
現実的で計算高い彼に対し、普段はぽわんとした癒やし系であるリネアの声は、普段と打って変わって氷のように冷たい。
「ですが、今後一切、メリル様に近づくこと、そして彼女を庇うような言動をとることは許しません。もし一度でも破ったなら、その時は容赦なく家同士の繋がりを断ち切ります。……お分かりでございますね?」
ソーレンは暗紫色の瞳を微かに細め、瞬時に状況を天秤にかける。
感情豊かで愛嬌のあるメリルと過ごす時間は、確かに彼にとって娯楽の一つだった。
しかし、自身の出世と子爵家同士の強固な基盤を捨ててまで守るべき価値が、あの小動物のような令嬢にあるのか。
答えは明白だった。
メリルの奔放な振る舞いで、伯爵家の令嬢という肩書は既に地に落ちているのだ。
公爵家から近づく事を許されない令嬢、婚約者でもない男と密会する未婚の娘など何の価値もない。
「……承知いたしました、リネア。貴女の不安を煽るような真似は、二度といたしません」
ソーレンは恭しく一礼し、あっさりとメリルとの絶縁を誓約した。
ヴォードリア公爵家の重厚な執務室。
巨大な桃花心木の机には、厳しい顔つきの公爵だけでなく、目元を赤く腫らした公爵夫人も同席していた。
「……以上が、ダナリス伯爵家からの申し出だ。当家としてもこれを重く受け止め、アメリア嬢との婚約を正式に白紙に戻すことと決定した」
公爵の低く厳格な声が響いた。
呼び出されたカシアンは、身体を硬直させ、琥珀色の瞳を極限まで見開いていた。
「な……お待ちください、父上! 母上! 婚約解消など、絶対に認められません!」
「認められないだと? 彼女は夜会での長時間の立位に耐えられず、次期公爵夫人としての責務を果たせないと自ら身を引くと言っている。これ以上、我が家が恩人を縛り付けることは公爵家の名誉に関わる」
「違います! アメリアはただ拗ねているだけです! 私は、彼女を愛しているのです!」
カシアンの悲痛な叫びに、公爵夫人が立ち上がり、震える声でカシアンを糾弾した。
「貴方がアメリアを愛しているですって……? どの口がそんな言葉を吐くの!」
公爵夫人の目からは、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「アメリアはね、この三年間、貴方を心から愛してくれていたのよ! 事故の後遺症で辛い時でも決して微笑みを絶やさず、真面目で優しく、わたくしは彼女を本当の娘のように愛していたわ。貴方たち二人が少しずつ本物の夫婦になっていくのだと、そう思っていたのに……!」
カシアンは息を呑んだ。
公爵夫人の言う通りだった。
婚約してからの三年間、カシアンの好きな相手がメリルだと分かっていても、アメリアは決して腐ることなく、カシアンに向かって常に温かく優しい微笑みを向けてくれていた。
彼の言葉に耳を傾け、公爵家のために献身的に尽くしてくれていたのだ。
「……メリルとは、過去に恋人だった頃、『何があっても彼女を一番に甘やかす』と約束を交わしたのです」
カシアンは眉を顰め、縋るように弁明した。
「私には、一度交わした約束を無下にするなどできません。だからメリルが留学から帰ってきて泣いている時は傍にいて、求めてくる贈り物を与える事も拒まなかった。ですが、それはただの過去の義務です! 私の心は、ずっとアメリアにあったのです!」
ダンッ、と公爵が机を強く叩いた。
「愛する婚約者を夜会で怪我の痛みと共に放置し、過去の女に公爵家の金で貢ぐ行為の、一体どこが愛だ!」
雷鳴のような一喝に、カシアンは肩を跳ねさせた。
「お前はただ、過去の約束も守り抜く義理堅い男であるという己の薄っぺらい自己陶酔のために、この三年間、お前を心から愛してくれていたアメリア嬢の真心を、土足で踏みにじったのだ!」
公爵は冷ややかな声で、最後通牒を突きつける。
「すでにメリル嬢の元へは、これまで無断で贈った品々と金銭の『即時返還要求』と『接近禁止令』を送らせた。お前は当面の間、自室での謹慎を命ずる」
カシアンの顔から一気に血の気が引いた。
思い返せば、あの夜会の日のアメリアの瞳からは、三年間向けられ続けていたはずの温かな愛情と微笑みが完全に消え失せていた。
メリルが帰ってきてからの自分の行動が、彼女の愛情を根絶やしにし、その心を完全に殺してしまったのだと、カシアンはここで初めて理解したのである。
自分が愛していた女性が、かつて自分に向けてくれていた愛情は、もう二度と戻らない。
遅すぎる絶望に、カシアンはその場に崩れ落ち、頭を抱えて呻き声を上げるしかなかった。
すべてが崩壊し始めた後、ローガンとメリルの末路は惨憺たるものだった。
「メリル! 俺はお前を愛している! どうか俺と結婚してくれ!」
婚約が無くなったローガンはなりふり構わずメリルに求婚した。
しかし、メリルは縋るローガンを汚いものでも見るかのように冷酷に見下す。
「冗談じゃないわ。伯爵の次男坊風情じゃないの。継ぐ家も無いくせにわたくしに気安く触れないで。わたくしはカシアン様と結婚して、公爵夫人になるのよ!」
メリルからすれば、婿入り予定の侯爵家から放り出されたローガンなど、道端の石ころ程度の価値もない。
ローガンはここで初めて、自分がクレシダという完璧な婚約者を失い、アメリアには見向きもされず、遊び相手だと思っていたメリルにすら見下される、何の価値もない男に成り下がったことを悟った。
彼は血の気を失った顔で実家であるアイアース伯爵邸へと逃げ帰ったが、彼を待っていたのは、実の父親である伯爵からの激しい怒号だった。
伯爵邸の執務室で、嫡男と共に伯爵は怒り心頭で立っている。
「この、大馬鹿者が!!」
父親の怒鳴り声と共に、分厚い書類の束がローガンの顔面に叩きつけられた。
「侯爵家への入り婿という、我が家にとってこれ以上ない好機を……お前自身の浅ましい浮気でフイにするとは! しかも相手は、公爵家から制裁を受けたタムジン家の娘だと!? 我が家をこれ以上ない笑い者にしおって!」
波打つ赤銅色の髪を乱し、床に這いつくばったローガンは、目を見開いて必死に弁解した。
「ち、父上! お待ちください、俺は悪くない! カシアンへの牽制のつもりで……それに、俺は見た目もいいし顔も広いです! すぐに別の高位の令嬢を…」
「黙れ! お前の顔の広さなど、公爵令息のカシアン殿の隣にいたからこそ、侯爵家へ婿入りするからこその『虎の威』に過ぎん! それに、お前が別の令嬢を口説くことなどもう二度とない!」
父親は冷酷に見下ろし、社交界を駆け巡ったばかりの真実を息子に突きつけた。
「ロザリオ侯爵家のクレシダ嬢は、当家との婚約を破棄した直後、次期公爵であるカシアン様と新たな婚約を結ばれた! しかも、自身が公爵家に嫁ぐために、侯爵家の継承権を優秀な妹君にあっさりと譲り渡してな!」
「……なっ!?」
その事実を知った瞬間、ローガンの心臓が凍りついた。
クレシダはいつから、ローガンという男に、侯爵家を継がせる価値など微塵もないと見切っていたのか。
それはメリルに傾倒し始めてからかもしれない。
だからこそ未練もなく継承権を妹に投げ渡し、邪魔なローガンを切り捨てるついでに、彼が最も嫉妬していた男であるカシアンの妻という高い座へと上り詰めたのだ。
「クレシダ嬢は我が家に対し『伯爵家の次男が自身の身の程を弁えず、子爵令嬢と密会を重ねたことが原因である』と完璧な証拠を突きつけてきた。もはや言い逃れもできん。当家は慰謝料の支払いにより、多大な損害を被ることになる」
父親は、絶望で言葉を失った息子へ、無慈悲な最後通牒を言い渡した。
「ローガン。お前を本日付で我が伯爵家から勘当し、家系図からも抹消する。着の身着のままで今すぐこの家から出て行け。二度とアイアースの名を騙ることは許さん」
「か、勘当……っ!? 父上、どうかそれだけは! 俺には何の資格も、生きていく金も…っ」
「連れ出せ!!」
父親の冷酷な合図により、待機していた屈強な騎士たちがローガンの両腕を掴み、強制的に引きずり起こした。
完璧なカシアンから、美しい婚約者を奪って優越感に浸りたかった。
初恋の相手である令嬢を弄びたかった。
入り婿という約束された未来に胡坐をかき、高みの見物をしているつもりだった。
だが現実は、アメリアと親しくなる事すら出来ず、メリルに蔑まれて罵倒され、クレシダには切り捨てられ、ついには家族から不要な存在として街角へ放り出されたのだ。
「いやだ、離せ! クレシダ! カシアン……っ!!」
伯爵邸の裏口から冷たい石畳の路地裏へと投げ出されたローガンは、誰にも届かない悲鳴を上げ、己の愚かさが招いた取り返しのつかない絶望の中で、ただ泥に塗れて泣き叫ぶしかなかった。
子爵邸にあるメリルの自室。
豪奢な天蓋の寝台の傍らに座り込んでいたメリルは、公爵家の紋章が入った重々しい書状を握りしめたまま、ガタガタと震えていた。
輝く明るい栗色の髪は乱れ、透き通るような白い肌は血の気を失っている。
大きな瞳は、書状に記された莫大な金品の『即時返還要求』と『接近禁止令』の文字を何度もなぞっていたが、何度見返しても現実は変わらない。
その時、自室の扉が乱暴に開け放たれた。
「メリル!! お前という奴は、一体何という真似をしてくれたんだ!!」
怒号と共に踏み込んできたのは、メリルの父親である子爵と、跡取りである兄だった。
二人の顔は怒りと焦燥でどす黒く染まり、手にはメリル宛てに届いた公爵家からの書状の写しが握られていた。
「お、お父様……お兄様……! お待ちください、誤解です! カシアン様はわたくしを愛していらっしゃるの! わたくしを公爵夫人として迎えに来てくださるはず……」
「現実を見ろ、この愚か者が!!」
すがりつこうとしたメリルを、兄が冷酷な声で怒鳴りつけ、莫大な額が記された請求書の束をメリルの足元に叩きつけた。
「ヴォードリア公爵家が『今後一切近づくな』と接近禁止令を出しているのだぞ! お前はただ、あの方の甘さにつけ込んで甘い汁を吸っていただけの、浅ましい女だ! お前のせいで、我が子爵家は公爵家という最大の権力を完全に敵に回してしまったんだ!」
「う、嘘……」
「他家からの支援も完全に絶たれ、手紙すら突き返されてくる。もはや、お前を庇う者などこの社交界のどこにもいない!」
兄は氷のように冷たい目で見下ろしながら、子爵家の決定を無慈悲に宣告した。
「メリル。お前を本日付で我が子爵家から『除籍』する。公爵家への返済は、お前が持っているドレスや宝石をすべて売り払って充てるが、到底足りん。だから、残りの借金はお前自身の身体で払ってもらう」
「え……?」
「国境沿いの最も規律の厳しい修道院に入り、一生過酷な労働と祈りを捧げて過ごすか。それとも、王都の裏路地で娼婦として身を売り、死ぬまで這いつくばって日銭を稼ぐか。……二つに一つだ、選べ」
「し、修道院か……娼婦……!?」
メリルの可憐な顔が、恐怖で醜く歪んだ。
華やかなドレスを着て、男たちから甘やかされ、ちやほやされるのが彼女の人生のすべてだった。
他人の手柄を横取りし続け、ついには公爵夫人という最高の座を手に入れられると思い上がっていたのだ。
「いや……いやよ! 毎日粗末な服を着て、泥まみれで畑を耕すなんて、わたくしには絶対に無理だわ!」
「ならば、裏街で娼婦として身を売るか? お前のその顔と体なら、多少の借金の足しにはなるだろう」
兄の冷酷な言葉に、メリルは大きく潤んだ榛色の瞳を揺らした。
彼女の頭の中に、浅はかな計算がよぎる。修道院に行けば、一生世間から隔離され、自慢の美貌も若さも無駄になる。
だが、夜の街に出ればどうだ?
これまでカシアンやローガンを魅了してきた自分の美しさがあれば、すぐに金持ちの後ろ盾を捕まえて、また贅沢な暮らしに戻れるのではないか?
「わたくし……娼婦になるわ」
メリルは震える桜色の唇を噛み締め、そう答えた。
「わたくしの美しさがあれば、高級な館で、またすぐに良い思いができるはずよ……。こんな家、こちらから願い下げだわ!」
最後まで自分の美貌と価値を過信し、見栄を張る妹を、兄は氷のように冷たい、憐れむような目で見下ろした。
「……高級な館、だと? 本気で言っているのか」
「え……?」
「お前は公爵家から『接近禁止令』を出され、貴族社会から完全に追放された女だ。そんな疫病神を、貴族や豪商が通うような高級娼館が雇うはずがないだろう。……おい、こいつを連れて行け。裏街の掃き溜めにでも売り飛ばしてこい」
「な……!?」
兄の合図と共に、待機していた従僕達が踏み込み、メリルの細い腕を容赦なく掴んた。
「お前の行き先は、日雇いの労働者や平民が数枚の銅貨で通う、最下層の娼館だ。そこでせいぜい、お前のその自慢の美貌が擦り切れるまで、泥水啜って借金を返し続けるんだな」
「嘘……嘘よ! 離して! わたくしはカシアン様に愛された、公爵夫人に……!」
「連れて行け!!」
「いや! 嫌ああっ!! 誰か、助けて!! カシアン様!!」
美しい栗色の髪を振り乱して泣き叫ぶメリルは、無残にも屋敷の裏口へと引きずられていく。
彼女の浅はかな目論見は、完全に打ち砕かれた。
後ろ盾を見つけるどころか、連れて行かれたのは悪臭漂う薄暗い売春宿。
そこで彼女を待っていたのは、彼女を可憐な令嬢として甘やかしてくれるカシアンのような男たちではなく、暴力を振るい、獣のように彼女の身体を蹂躙する薄汚れた下層の男たちだ。
己の若さと美貌だけを武器に他人のものを奪い続けた身の程知らずな令嬢は、自ら選んだ娼婦という地獄の底で、かつて夢見た公爵夫人という幻影にしがみつきながら、心も体もボロボロに朽ち果てていくのだった。
公爵邸の談話室。
分厚い婚姻の契約書にサインを終えたクレシダは、深紅の瞳で目の前に座る男を見据えた。
鮮やかな赤い口紅を引いた唇が、優雅で冷酷な弧を描く。
「よろしくお願いいたしますわね、カシアン様。これからは互いの家のため、良き共同経営者として公爵家を盛り立てていきましょう」
カシアンは血の気のない顔で、琥珀色の瞳を伏せたまま「……あぁ」とだけ微かに返した。
その瞳には、かつての誰もが振り返るような輝きはない。
クレシダにとって、この婚約は最高の利益と嫌がらせだった。
つまらない嫉妬心で自分を裏切った元婚約者ローガンへの、これ以上ない当てつけ。
ローガンが最も劣等感を抱いていた男の妻となり、将来の公爵夫人という最高の権力を手に入れる。
彼女にとってこれほど痛快な復讐はない。
一方で、カシアンにとってこの結婚は、終わりのない制裁の始まりだった。
真面目で、常に温かな微笑みで自分を包み込んでくれていたアメリア。
彼女の愛情を自分の手で壊し、永遠に失ってしまったカシアンの心は、すでに空洞だった。
彼にあてがわれた新たな妻は、決して彼に甘い言葉などかけない。
互いの利益のためだけに結びついたクレシダは、気の強さと有能さでカシアンを完全に管理し、義務としての夫婦関係だけを冷たく要求する。
「夜会の同行、忘れないでくださいませ。わたくしは前任者のように、壁際で大人しく待っているような殊勝な性格ではありませんから」
クレシダの容赦のない言葉に、カシアンの精悍な美貌が苦痛に歪む。
彼が守りたかった優しい男としての体面は完全に剥がれ落ちた。
愛する人を失い、愛のない冷徹な妻に縛られ、一生公爵家のための義務だけを果たす歯車として生きていく。
それが、アメリアの心を殺した男に与えられた罰だった。
一方、すべてを終わらせ、静かに公爵家を去ったアメリアは、伯爵領の領主館で、装飾も少なく締め付けも無い日常服を身に纏い、穏やかな日差しの中で本を読んでいた。
濃紺の髪は緩く背に流し、優しい瞳は落ち着いた光を帯びている。
足の痛みも、無理をして夜会に出る必要がなくなったことで、ずいぶんと和らいでいた。
淑女としての微笑みを作る必要も、婚約者の無関心に胸を痛める日々もない。
ただ静寂と、彼女本来の知性だけが満ちる穏やかな時間は、かつて彼女が流した見えない涙への、何よりの報酬だった。
相変わらず華流ドラマにはまっておりますが、やっぱりショートドラマよりもネトフリとかのきちんとした物は映像も綺麗だし、話もとても面白いですね。唐宮奇案は、自己犠牲な内容も多くて「これ本当に中国??」と2号も言い出したほど、日本人の感性で見ても面白いです。おすすめ。桜あんのトースト美味しいです。うまうま。




