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ガムは人に噛まれて幸せか?

作者: 櫛田かおる
掲載日:2026/01/19


 最初に意識が芽生えた瞬間、わたしはすでに甘かった。


 ミントと果実のあいだの、名前を与えられない曖昧な香り。


 舌に触れた瞬間に世界を支配し、数分後には忘れ去られるために調合された存在。


 それが、わたし――ひと粒のガムだった。


 光が差し込む。袋が破られる音。人間の指が伸びてきて、ためらいもなく、わたしを掴み取った。


 口腔という名の洞窟に放り込まれた瞬間、圧倒的な湿度と温度に包まれる。歯が迫り、舌がわたしの輪郭を確かめるように転がした。


 噛まれる。


 最初の衝撃は、痛みに近い歓喜だった。

 わたしの中に閉じ込められていた香りと甘味が、一斉に解き放たれる。人間の唾液と混ざり合い、口内に広がっていく。わたしは自分が「役目」を果たしているのだと、はっきり理解した。



 ――これが、幸せなのだろうか。



 わたしは考える。噛まれながら、引き伸ばされながら。


 人間は歩きながら噛んでいた。

 駅へ向かう朝の道、

 イヤホンから微かに漏れる音楽、

 端末をいじって俯く背広に猫背、

 信号待ちで空を見上げる仕草。

 その生活の断片に、わたしは組み込まれている。だが、彼はわたしを見ていない。存在を意識すらしていない。ただの「口寂しさの埋め合わせ」、あるいは「眠気覚まし」だ。



 それでも、噛まれるたびにわたしは応える。

 まだ甘い。まだ香る。まだ役に立てる。まだ。



 時間が経つにつれ、わたしは変質していく。最初の鮮烈な甘味は薄れ、弾力だけが残る。パキパキと外側が噛み砕かれ柔らかい食感が残る。歯は機械的に動き、舌の関心は別の思考へと移っている。


 人間の頭の中には、わたしの知らない重さがあるようだった。



 仕事の締切。誰かの言葉。昨夜の後悔。未来への不安。



 それらを噛み砕く代わりに、彼はわたしを噛む。


 ――わたしは、代用品なのだろうか。


 だが、代わりであることは無意味なのか。

 噛まれることで、彼の顎の緊張がわずかに緩む。呼吸が整う。ほんの一瞬、思考が空白になる。その空白をつくるために、わたしはここにいる。


 わたしは自分の存在が、消耗品であることを知っている。

 永遠には続かない。


 味が尽き、噛み応えに飽きられた瞬間、わたしは紙に包まれ、捨てられる。味のしなくなったガムとして、捨てられる。


 彼のために、どんなに身を砕こうと、消耗品の域をでないことをよく分かっている。


 それでも。


 わたしは今、彼の一部だ。

 顎の動きと同期し、呼吸のリズムに揺られ、思考の裏側で静かに存在している。


 子どもの頃、わたしの仲間は風船になり、膨らみ、破裂することを夢見ていた。派手な終わり方。注目される消滅。だが、彼はもうそんなことはしない年齢らしい。わたしはただ、静かに噛まれ続ける。



 味の記憶が完全に消えた頃、人間はふと、わたしの存在を思い出す。


 舌で確かめる。

 もう、甘くない。


 その判断は、冷静で、正しい。

 彼はゴミ箱を探し、紙を取り出す。

 包まれる瞬間、わたしは急に軽くなる。歯も舌も、もう触れない。人間の体温から切り離され、外気に晒される。


 これで終わりか。


 ゴミ箱の中には、他のガムもいた。

 誰かに噛まれ、役目を終えた者たち。彼らは皆、静かだった。嘆きも、怒りもない。ただ、使われたという事実だけが、そこにある。



 わたしは最後に考える。



 ――幸せとは、残ることだろうか。

 ――記憶されることだろうか。

 ――それとも、必要とされた瞬間があったこと、その一点で十分なのだろうか。



 人間はすでに歩き出している。

 新しいガムを口に入れるかもしれないし、もう噛まないかもしれない。


 だが、あの数十分間。

 彼の生活の隙間で、確かにわたしは役に立った。


 噛まれ、伸ばされ、味を失い、捨てられる。

 その一連の流れこそが、わたしの全てだ。


 もし、噛まれずに溶けもせず、ただ棚に並び続けるだけの人生があったとしたら。

 それと比べて、今のわたしはどうだろう。



 わたしは、人に噛まれた。

 一瞬でも、誰かの時間を軽くした。


 それを幸せと呼ばずして、何を幸せと呼ぶのだろう。


 ゴミ箱の蓋が閉まり、世界が暗くなる。

 だが、わたしの中には、最後まで甘さの記憶が残っていた。


 それで、十分だと思った。

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