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元野良猫、異世界転生して家猫になったので毎日フミフミゴロゴロして過ごします

作者: 金魚づくし
掲載日:2025/10/23

「おなかすいた」


骨が浮き出た背中。

汚れてぼさぼさになった毛並み。

目ヤニで瞼が貼り付き、片目は開かない。

垂れた鼻水が鼻先で固まり呼吸を阻害する。

胃は空っぽなのに吐き気でずっとえづいている。


「おなかがすいてないってどんなかんじなんだろう」


路地裏で足を引きずりなが歩く一匹の子猫は苦しさのあまりジっとしていることができず、どこへ行くともなく彷徨っていた。


さむい

いたい

かなしい

さみしい


だれにもとどかないことば。


子猫は力尽き、冷たい地面へ身を投げるように倒れた。

固いアスファルトに骨を打ちつけ激痛が襲う。

だが呻き声すらもう出せない。


こわい


様子を見ていた複数のカラスが静かに群がると、子猫の姿は見えなくなった。





草の香りとふかふかの土。

陽射しがまるでブランケットのように温かく体を包み込む。

広大でよく耕された畑の真ん中で、子猫…………

であった少女は気持ち良さそうに身体を丸めてすぅすぅと寝息をたてている。

「女の子が倒れているぞ」

畑の持ち主であろう農家の夫婦が驚いて声を上げる。

「ニャ?」と短く鳴いてむくり起き上がった少女は、大きな猫目をキョロキョロと動かしながら忙しなく周りを確認する。

首を左右に振るたび、髪の毛先が肩に当たりピョンピョンと踊るように跳ねた。


「あなた大丈夫?」

農家の婦人が少女に近づき心配そうに問いかける。

少女は勢いよく立ち上がると、膝上丈のシンプルな黒いワンピースをひらりと翻した。

濡れたような艶のある黒髪とエチゾチックな顔立ちに、農家の夫婦は一目で魅了されたが、次の瞬間……。


「シャーーー!!!」

少女は四つん這いで背中を丸め威嚇しだした。

あまりにも挙動のおかしい少女の様子に、言葉を失い固まる農婦。

(人間! 悪い! 敵!)

少女はそのまま全速力で畑を走り去った。





俺はここで何をしている?

土煙がそこかしこに上がる荒野を、俺は剣を構え亡霊のように歩いている。

周りには焦げた死体が散乱しているのに。気にもとめずそれが日常の風景かのようにただ前へ前へ進む。


そうだった、ここは戦場だった。

俺は軍人として戦争に出征していた。


汗と血で重くなった軍服が肌に纏わりつく不快感。

転がる死体から漂う激臭で鼻がおかしくなる。

土煙を吸い上げるたびに口の中にジャリジャリと砂が入り込む。

叫び声や唸り声、銃声、砲撃の音、誰か大切であろう人の名を呼ぶ声。


「レオ! うしろっ!」

この声……俺の名前を呼ぶ聞き慣れなた声。

俺は振り向き様に剣を降ろして背後にいた敵兵を斬り倒す。

この世の哀しみと絶望を全て詰め込んだような悲鳴を上げ倒れる敵兵。身体から噴き出す鮮血が俺の顔に当たる。

その血から伝わる温もりが、今の今まで生きていた人間であったことを俺に焼き付ける。

この血を浴びる度に敵兵が自分と同じ人間だと嫌でも認識させられる。


そうだ、俺は戦場で人間を、たくさん……たくさん。


地鳴りが響き強烈な光が弾ける。

魔力を込めた砲弾が目の前で爆発した。

俺は咄嗟にガード魔法を自分と男を覆うように展開する。

辛うじて防ぎきれたが、俺の両腕は焼けただれ指一本も動かせなくなった。

「ぐ、うぅぅ」

「レオッ! 大丈夫か?」

呻く俺の元へ焦りながら駆け寄る男。

男の無事が確認でき、俺は激痛の中一先ず安堵した。

「あぁ。でも、さっきので魔力を使い果たしたみたいだ……援軍はまだ来ないのか?」

「俺達を見捨てて本土だけを守ろうとしてるんだろ」

俺の疑念に男が苦々しく答えた直後。

「レオ、危ないっ!」

男は叫びながら俺を体当たりで突き飛ばした。

腕の痛みで意識が朦朧としている俺は尻もちをついて見ていることしかできなかった。

砲弾が男に直撃する様を。

鼓膜が破れるような轟音とともに爆煙が辺りを包み込む。


やがて風が煙を打ち消すように吹いたあと、目の前には……。





「アアアアアアアアア!!!」

絶叫と共にベッドから飛び起きた青年、レオは汗を垂らしゼェゼェと肩を上下させ荒い息を吐く。

空のような髪色に海のような青い瞳、鼻筋の通った端正な彼本来の顔立ちが、今は型を崩し鬼のような形相でいびつに歪んでいる。


「クソッ。戦争から帰って来てから繰り返し同じ夢を見る」

伸ばした前髪を無造作に下ろしてはいるが、それでも隠しきれないほど彼の眼光は鋭利な刃ように尖っている。

「いや、俺はまだ帰って来れていないんだ。あの戦場から」

レオは胸元を握りしめ、声を落とした。

「ずっと心があそこに居る」


故郷に戻ったレオは立派に戦果を上げ、隣国の侵攻から祖国を守リ抜いた英雄と称えられた。

だが本人は腕の怪我が治ってからも立ち上がることさえ困難な状況が続いた。

帰還兵特有の『心に負った深い傷』が身体を蝕んでいたのだ。

まるで鉛のように身体が重く、自分の意志で動かすこともままならない日々。

ようやくベッドから起き出すことができたのはつい最近のことである。

そして、眠れなくても朝には必ずカーテンを開け陽射しを浴びる。

そうするとなんとか今日一日をやり過ごせる気がした。


灰のような顔色でベッドから起き出しカーテンを開けた瞬間、眩しさで閉じかけたレオの目がカッと目玉が飛び出さんばかりに開いた。

「ひぇっ!?」

起き抜けに見る異様な光景に思わず声が上擦る。

「なん、何で女の子が木の上にいるんだ?」


レオの住む屋敷の庭には大きな木が生えており、寝室がある二階まで伸びている。

窓の側まで蔓延った枝の上には――――黒いワンピースを着た見知らぬ少女が悠然と立っていた。


レオは慌てて着の身着のまま庭に出る。

同時に、鳥を取ろうと手を伸ばした少女が体勢を崩し木の上から滑り落ちてきた。

レオは咄嗟に少女を両腕で受け止める。

「ふぅ、危なかったぁ」

安堵の溜息をつくレオ。

少女はびっくりした様子で抱かれたまま固まっている。

「君、大丈夫? 怪我はない?」

少女はハッとして暴れるように両手足をバタつかせた。

「えぇぇっ!? ちょ、ちょっと待って今降ろすから」

思わず仰け反るレオの腕を振り解くと、少女は逃げるようにまた木の上に登る。

そして四つん這いの姿勢で「フーーー!」と威嚇する。


「君、どこから入ったの? とりあえず危ないから降りておいで」

「シャーーー! どっか行けぇ!」

「えぇぇ……どっかってここ俺の家の庭なんだけど……」

困惑し立ち尽くすレオを少女は親の仇のように睨みつける。

「人間、人間は悪いやつだ。私に痛いことする」





「あれ? ねこちゃんじゃない? ねこちゃーん、おいでー」

繁華街を歩くカップルが路地裏にあるゴミ箱の裏から小さな尻尾を見つけ立ち止まった。

女は甘い声を出す。

「ねこちゃーん、おいでおいでー」

ヨタヨタと歩いてゴミ箱の影から出てきたのは、乱れた毛が不潔に汚れ、鼻水を垂らし、目ヤニで片方の目が開かない一匹の子猫であった。


男は「うげっ」と顔を歪める。

「なにあれ猫? 思ってたのとちがーう。なんか気持ち悪いんだけど」

女も迷惑そうな顔で子猫に侮蔑の目を向ける。

「汚ねぇな! こっち来んな!」

男は子猫を空缶のように蹴飛ばすと、そのまま子猫は壁に叩きつけられた。

「カフッ ケホッ」

訳もわからず腹を蹴られた子猫は膵液を吐くばかり。

胃に何も入っていないのだ。


「靴、汚れるよぉ?」

女の問いに男は得意気に靴先を軽く降って見せる。

「靴裏で蹴ったから大丈夫、大丈夫」


女は子猫に興味を無くし上目遣いで男の腕に手を回す。

「あ、そう言えばぁ駅近のペットショップに可愛い猫ちゃん売ってたんだー。あれ使って私達で動画作ろうよぉ」

「おぅ良いじゃんそれ」

「色々仕掛けてさぁ、バズらせたら登録者なんてすぐ万いくよぉ」


カップルは倒れている子猫に一瞥もせず、何事も無かったように立ち去った。

子猫は何故蹴られたのか、なにも理解できないまま冷たい路上に横たえた。





「君どこから来たの? ご家族は?」

落ち着いた声で努めて優しく話しかけるレオであったが、少女は人間にされた行いを思い出し一生懸命に威嚇する。

「シャーーー!」

「とりあえず、屋敷に入りなよ。話を聞くよ、何か助けに……」

「フーーー!」


不意にぐぅ~と少女のお腹が鳴る。

「お腹空いてるの? ちょっと待ってて」

レオは屋敷に入るとサンドイッチやボトルの水が入った籠を持って出て来た。

「サンドイッチ持ってきたよ。降りてきてお食べ」

「シャーーー!」


(駄目だ、俺がここにいる間は降りて来ないぞこれ。何故か知らないけど、すっっごい警戒されていることだけは分かる……)

「ここに置いておくから、ね?」

レオは仕方なく籠を木の下に置いて心配そうに振り返りながらも屋敷に入っていく。

(俺がいない間に食べてくれたらいいけど)



ー 昼過ぎ ー

「あの子、大丈夫かな?」

レオは少女の様子をみるために庭に出たが、と呆然と佇むばかりであった。

(嘘だろ、まだ木の上にいるぞ)

籠の中を見ても全く手を付けていない。

「お腹空いてるんじゃないの?」

「シャーーー!!」

レオの呼び掛けに相変わらず少女は威嚇で返す。


(なんかシャーされるの慣れてきなぁ)

レオは一人頷き、一旦気持ちを整える。

(よし。ここからは根気が大事だぞ)

「毒とか入ってないから、ほら、ね?」

その場でサンドイッチの一つを取り食べて見せる。

「フーーー!」

「……だめか。置いておくから、せめて水だけでも飲むんだよ」

後ろ髪を引かれながらも、レオはそっと木から離れ屋敷へ戻った。



ー 夜 ー

辺りは暗くなり、冷たい風が足元を撫でる。

レオはまた庭に出て、木の上で丸まっている少女を心配そうに見つめる。

「ずっとあそこにいるけど大丈夫か?」

昼間に置いた籠の中を覗くとサンドイッチも水の入っていたボトルも空になっている。

(あ、食べてる。良かったぁ)

レオはふぅと安堵の溜息をつく。


「いつまでそこにいるの? 降りてきなよ。夜は冷えるよ、屋敷に空いてる部屋があるから朝までそこに泊まっていくといいよ」

少女はレオの声が届いていないかのように頑なに背を向け続ける。

(挙動がおかしいし、何か訳ありの子なのか? 無理やり降ろして家に帰した方がいいのかもしれない)


その時、レオの脳裏に返り血で黒光りする剣が過ぎった。


「……いや、やめておこう。詮索されたくないこともあるよな」

レオはそう思い直し、屋敷からブランケットを数枚持って来て木の下に置いた。

「寒かったらこれ使って良いからね」

「……」

返事はないがブランケットが気になるようで少女はチラりと見る。

雲のようにふわふわして柔らかそうで、冷たく固い路上で寝ていた少女はそのブランケットに釘付けになった。

だが、レオの前では絶対に木から降りないという強い意志が少女の背中からひしひしと伝わる。


「うーん、やっぱり俺が居ると降りて来ないか……」

少女が降りたくても自分が側にいると木の上に留まるだろうと、レオは速やかにその場を去った。


レオが屋敷へ入っていくのを確認してからも、少女は暫くの間周りを警戒していたが、その内そろそろと木から降りた。

そして幸せそうな顔で両手を伸ばすとブランケットをフミフミしだした。

自分でも何故かは分からないが、こうすると気持ちが落ち着く。

なんだかとてもとても小さな頃に、よくこうやって温かく柔らかいものを押していた気がする。

それは少女の記憶の中では最も幸せな時間であった。

ひとしきりフミフミし終え満足すると、毛布に包まり横になる。

夢と現実の狭間。微睡みの中で少女は一人呟く。

「あったかい」



ー 翌日 ー

曇り空の下、レオは毛布にくるまっている少女を驚かさないよう穏やかに話し掛ける。

「おはよう、昨日は眠れた? 寒くなかったかい?」

「シャーーー!」

甲斐なく、びっくりして飛び上がった少女は素早く木の上へ逃げる。

そして「フーーー!」とお決まりの威嚇をする。


「今日は雨が降るよ、何もしないから降りておいで」

「嘘つけぇ! お前ら人間はいつも私を虐めるだろ!」

「えぇぇ……別に虐めないよぉ」

困惑しながら少女を見上げるレオの目に水彩画のように青みがかった灰色の雲が映る。

そのとき、ポツンとレオの頭に水滴が落ちた。


「降ってきたか」

雨が勢いよく地面の色を変えていくと、庭の彩度が一段と深くなった。

「ねぇ! 僕は君に危害を加えない。約束する。雨で木が滑りやすくなるから、また落ちるかもしれない。危ないから降りておいで」

レオは大声で少女を説得するが

「嫌だ!」

と、一蹴される。


「そっか。分かった」

レオは平然と言い切ると、当たり前のように木の下に座り込んだ。

雨はザーザーと勢いを増すばかり。

「人間、お前は自分の家があるんだろ? 帰れよ、濡れるぞ」

「こんな雨の中、君一人で置いて行けないよ」

「変なやつ」

ポツリと吐かれた少女の言葉にレオは耳を疑う。

「えぇっ!? 君がそれ言うの!?」



雨音が心地良く一定のリズムを刻む。

濡れた草花や土からからは雨の日特有の青々とした香りが湧き立つ。

レオは木に背中を預け景色を見ていたが、やがてウトウトして来るとそのまま目を瞑る。

(本格的に降ってきたな)

最後に残った耳の感覚が地面を激しく叩く雨粒の音をとらえ、意識が途絶えた。





ーードンッ! ドンッ!

銃声や砲弾の音が絶え間なく続く荒野。

辺りには敵や味方の死体が転がり、中には腐敗の激しいものもある。


レオは両足のない男を引きずりながらなんとか物陰へ引っ張っていく。

男は痛みで意識が混沌としており抑揚のない声でブツブツと独り言のように話す。

「本土に見捨てられたんだよ俺達は。人間として扱われてねぇんだ」


レオは必死に男を引きずりながら頭の中で湧き上がる言葉を飲み込んだ。

(俺はもぅ自分が人間とは思えないよ。だって、人間は人間を殺さないんだから。俺の殺した敵兵だって家族のいる……人間なんだ)


(だから俺はもぅ人間じゃない)


男は黙っていると意識が痛みに向かうためか、口を絶えず動かしている。

「あぁ、家に帰りてぇよレオ。帰って飯食ってベッドで寝てさ、つまんねぇ一日だったなぁって愚痴ってさ。こんなとこ、ほんと来るんじゃなかったな。帰りてぇ。レオ、俺帰りてぇよ。帰りてぇよもぅ」

「大丈夫、帰れるさ。一緒に帰ろうって約束しただろ? 俺は絶対にお前を見捨てない。だから」

レオは涙を堪えて必死に叫ぶ。


「絶対に一緒に帰るぞ!!!」





雨が止み雲の隙間から出た陽射しが線のように降り注ぐと、庭の芝生を点々と照らす。

草露が反射して真珠がばら撒かれたようにあちらこちらで緑を艷やかに輝かせる。


レオは目覚めてからゆっくりと薄目を開けると、頬に何か温かいものが触れているのを感じた。


少女がペロッペロッとレオの頬を舐めているのだ。

「ヘァフッ!!!」

レオは思わず喉から変な声が出た。

「大丈夫か? 苦しそうだったぞ?」

少女は心配そうにレオを見つめている。

「えっ? 顔、俺の、舐め、ええぇっ!? どゆこと!?」

慌てふためくレオは目を丸くして座ったまま、ずりずりと後退りする。


「人間、そんなに私と一緒に帰りたいのか?」

「え?」

「一緒に帰るぞって、ずっと言ってただろ?」

(俺、寝言言ってたのか)

「……人間の家に、入っても、良いぞ」

「ん?」

「人間、私と一緒に帰りたいんだろ?」

少女はレオの横にしゃがみ込み、目を合わせると真意を促すように問う。


「ん? あぁ、えっと……」

(寝言だったんだけど、勘違いされてる? いや、でもそれは言わない方が良いな。この機会を逃したらまた警戒されて木に登られるぞ)

「うん! そうだな、じゃあ一緒に帰ろう!」

レオは笑顔で立ち上がると座っている少女に手を差し出す。

少女は自分の鼻先にあるレオの手を一生懸命嗅ぎ出した。

「フンフンフンフンフンフン」

「……やたら嗅いでくるじゃん、俺の手……」

「フンフンフンフンフンフン」


少女は「クワッ」と一声鳴くと、口や目、鼻、眉毛、全ての顔のパーツを真ん中にギュッと寄せた。

それから目を剥いてポカンと口を半開きにする。

「アッハハハ! なにその表情!」

そのおかしな顔にレオは思わず笑ってしまう。



屋敷の広いリビングの中央には、年季の入った大きく立派なテーブルがどっしりと置かれている。

窓辺の下には緑色の品の良いソファがあり、繊細な柄のクッションが並ぶ。

一見して豪勢な邸内だが、よく見ると棚の上の花瓶に花は一本も生けられておらず、鏡も曇ったまま放置されており男一人で持て余している様子が伺える。


レオにエスコートされテーブルに着いた少女の目の前には、ハムやサラダ、黒パン、水、ブルーチーズなどがところ狭しと並んでいる。

「お腹空いてただろ? 簡単なものだけで悪いけど、好きなだけ召し上がれ」

「これ! これ! これ!」

少女はテーブルの上にあるハムを指差して目を輝かせる。

「これ? あぁ君、ハムが好きなの?」

「ハム! 人間、これハムって言うのか!?」

「そうだよ」





路地裏では痩せ細った子猫がゴミ箱を漁っている。

子猫は破れたビニール袋の中から小さなハ厶の欠片を見つけ出すと目ヤニで開かない目を精一杯広げる。

「おいちぃ! なにこれおいちぃ! おいちぃぃ!!」

空腹は全く満たされないが、わずかなハムの欠片を大事に味わうと、足を引きずりながらヨタヨタと路地裏の奥へ消えていった。





「ハム!」

少女は目をキラキラさせ、両手でハムを持つと勢いよくかぶりついた。

「ぅぅみゃうまうまうまうまうまう」

子猫の中にはご飯どきに興奮するあまり甲高い鳴き声を上げる猫もいる。

少女はさながら早食い競争のように無我夢中で鳴きながら食べ続ける。

「そんなに美味いか?」

レオが微笑みかけるが少女は気にもとめない。

「みゃうまうまうまうまうまうまうま」

「君、ハムが好きなの?」

「まうまうまうまうみゃう、ぅみまうまうまうまぅうまう」

「……そっか」

(もぅ話し掛けない方が良いな)

レオは寂しげに少女を見つめ、会話は諦めることにした。



ーーこの子が側にいると否が応でも意識がこの女の子に向かう。

予測できない動き。

斜め上をいく言葉。

必然的に俺の意識が今、ここに集中する。

ーーだから考えなくて済む。

ーー思い出さなくて済む。



少女は手に持っているハムを食べ終えると、ブルーチーズを嗅ぎだす。

「それはブルーチーズっていうんだよ。臭いはきついけど味は美味しいよ」

「フンフンフンフンフンフン」

(めっちゃ嗅ぐじゃん)

「クワッ」

少女はまた顔の全パーツを真ん中に寄せ変顔をすると、目を見開き口をわずかにあけたまま固まる。

「アハハハッ! さっきもその表情してたよね? その顔、どういう感情なの?」

「くさい」

「……」

予想外の少女の一言に、レオは虚無の目で自身の手を見つめ続けた。



食べ物が綺麗に無くなったテーブルの前には満足気に舌なめずりをする少女が椅子に深く腰掛けている。

「お腹いっぱいってこんな感じなんだな、人間。なんだか心も体もホカホカするな」

「僕の名前は人間じゃなくて、レオ。この屋敷に1人で住んでるんだよ」

「へぇ」

「君はどこから来たの?」

「道端」

「え……」

地名ではない返答にレオは動揺するが、落ち着き払って質問を続ける。

「そ、そっか、道端かぁ、うん。えっと君名前は?」

「名前? ないよそんなの」

(名前がない? 記憶喪失か? ずっと様子が変だし)

レオは暫く考え込む。


「じゃあハムは? 何か呼び名がないと不便だし。君はハムが好きなんでしょ?」

とりあえず場を和ませるように笑顔で話すレオ。

「って言うのは冗談で……」

「それ! ハム! 私の名前?」

「え、いや、これはじょう……」

困惑するレオだが少女は目を輝かせる。

「ハム! 呼んで!」

少女ばずいっと近づくと期待を込めた目で見上げる。

「……ハ、ハム」

「ニャア!」

「えぇぇぇぇ」

「もっかい呼んで!」

「……ハム」

「ニャア!」

(マジで? ひえぇぇ、ちょっと、どうしよう。ハムなんて名前あんまりだよな。しかも女の子に。失礼過ぎない?)

レオは頭を抱え狼狽える。

そしてハムの顔が喜びで紅く高揚しているのを見て青冷めた。

(いやでも本人すっごい喜んじゃってるよ! あぁぁああ! ちょっと冗談で言っただけなのにぃ!)

ハムの輝く瞳を前に、もぅ撤回することは許されない。

(まぁ、気に入ってるんだったらいいか。うん。そのうち自分の名前を思い出すかもしれないし。とりあえず仮の名前ってことで。うん)

レオは自身の失言の業を背負う覚悟を決めた。


「ハム! 名前! 私の名前!」

ハムは生まれて初めて自分が世界に存在していると感じた。

名前があること、それは誰かから呼んで貰えること。

そして、それは自分はここにいると知ってもらえること。





ハムは子猫のときに見た光景を思い出していた。

暗く冷たい風が吹いていたある夜。

ハムが通り掛かった家の中から、女の子の声が聞こえた。

窓越しにそっと中の様子を伺うハムの目には明るく暖かそうな室内が映る。

「チビちゃ〜ん」

女の子の呼びかけに、フサフサの長毛を持つデップリとした猫が、その見た目に反して甘く可愛らしい声で「ニャア〜ン」と返事する。


「チビちゃん、よしよししてあげるね」

女の子は飼い猫の顎の下を撫でてあげる。

「ニャア〜ン」

鳴きながら猫は顎を上げてうっとりと目を瞑り、ゴロゴロと喉を鳴らす。

「大きなチビちゃん」

「ニャア〜ン」

女の子の母親が台所から出てきてケタケタと笑う。

「大きなチビちゃんってアハハ! 名前付けたときは片手に乗るくらい小さくかったのに、いつの間にこんな大きくなったのかしらね」

「大きくなっても可愛いよねぇ。ね? チビちゃん」

「ニャア〜ン」


その様子をジっと見つめながらハムは自分がひとりぼっちの理由を考えた。

「私は名前がないから誰にも呼んで貰えないのかなぁ?」

名前があれば自分もあの暖かい空間に入ることができるはず。

ハムはしばしその家族を一心に見つめ続けた。





レオは気を取り直し、引き続きハ厶との対話を試みる。

「……えっと、とりあえず俺はこの屋敷にずっといるからハムも記憶が戻るまで好きなだけうちにいたら良いよ。どのみち俺は屋敷の外には出れないし」

「外に出れないって、閉じ込められてるのか?」

ハムは顔を曇らせる。

「うぅん、なんていうか俺は戦争帰りで……」

言いかけて思い直す。

「……うん、そうだな。閉じ込められてるようなもんだな」


過去に、戦場に。俺はずっと閉じ込められているんだ


「なら、私が一緒にいてやるぞ!」

ハムはドンっと自分の胸を叩き、あっけらかんと言い放つ。

「え? う、うん……有り難う」

「そしたらレオも寂しくないだろ? 二人一緒だ!」

「そう……だね。うん、ハムが一緒に居てくれたら寂しくないな」

レオはぎこちなくゆっくり頷くと、ハムも満面の笑みを浮かべ力強く頷いた。


そのとき、レオははっきりと兆しが見えた。

ハムと暮らしたら絶対に毎日が楽しくなるだろう、と。

むしろ一緒に住むのがごく自然であるかのような、そんな不思議な感覚すらある。


何故だろう、つい昨日会ったばかりなのに。

この子と一緒にいるだけで俺の周りの空気がふわりと明るくなる。

暗く湿った部屋に太陽がさし込んだような。

自分を変えてくれる、救ってくれる存在。


〈〈ラッキーを引き当てた〉〉


浮足たつ気持ちを抑えるように、レオは空になったお皿を引こうと立ち上がる。

「そうだレオ! アレをやってもいいぞ!」

ハムも意気揚々と素早く立ち上がる。

「アレ……てなに?」

「ほら、家の中でやるやつだ!」

ハムは自信満々で困惑しているレオの前に立つと、クイっと自身の顎を上げ目を瞑る。

レオは急に目の前に迫ってきたハムの唇を見て赤面し狼狽える。

(ぇええっ! せ、積極的過ぎない!? そういやさっきもおお俺の頬を舐めてきたよな!? そういうスキンシップの習慣がある土地から来た子なのか?)

動揺しながら必死に頭を動かすレオ。

喉元を撫でられたくて、つま先立ちで限界まで背伸びをしているハム。

(っていうことはここここれはこの子なりの挨拶ってこと? だったら受け入れないと失礼になる……のか?)

ハムは微動だにしないレオに苛立ち一喝する。

「早くしろ!」

「は、はぃっ」

レオはぐっと拳に力を入れるとハムに顔を近づけ、そのまま目をギュっと瞑り軽いキスをする。


「何してくれとんのじゃ! われぇ!」

ハムは目にも留まらぬ速さでレオの顔を引っ掻く。

「なんでぇっ!?」

情けない声を出すレオをよそにハムはソファに飛び乗ると、勢い良く爪をバリバリバリバリバリバリ!!と研いだ。

「あぁぁぁっ! ソファがっ!」

「シャーーー!!」

四足でやんのかステップをふみながらぴょんぴょんと部屋の隅に移り、レオを睨みつけ再び威嚇する。

「わぁっ! なにその動き!? なんかごめんよぉ!」


レオは疲れた様子で「ハァ」ため息をつきソファにどかりと座る。

「どうすれば良かったのか正解が分からない……」

部屋の隅からレオの様子をじぃっと伺っているハム。

少し後、警戒しながらも、そろりそろりとレオの隣に静かに座る。

そして素知らぬ顔で、レオがソファに置いている手に自分の小指をそおっと触れさせた。


「ンナアアアアアアアアアアア!!!」

レオは堪えきれず奇声を上げる。

自分の小指に触れるハムの小指が、華奢でたまらなく愛らしい。

妙な気恥ずかしさに、レオは顔を真っ赤にして悶絶する。


その日、家猫になったハムは明るい室内でゴロゴロと喉を鳴らし続けた。

レオは長く留まっていた戦場からようやく帰路に着くことができた。


二人にはこれから穏やかな日常が待っている。





ーーーガッシャーン! バリバリバリバリバリバリ!


「ハムー! カーテンに登っちゃ駄目って言っただろぉ」

「レオー! 降りれなーい!」


……ん? あ、あれ? 


「待ってハム! 飛び降りないで!」

「にゃー!!」

「うわぁあああっ!!」

    

……いや、ドタバタで大変な日常が待っているのでした。


       ー完ー 



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