旅立ちの時間
彩花は、白いプレートに載った赤い薔薇の花弁をナイフで2つに切りながら、ゆっくりとフォークで口に運んでいた。プレートには全部で18枚の薔薇の花弁が載っていたが、既に残りは4枚程になっていた。晩餐ではない。歴史ある森羅家に伝わる転生終焉の儀式の途中で、彩花の最後の瞬間が近くなっていた。
「もう少しで、そちらの世界に向かうからね。お母さん、待っていてください。貴方のもとへ行きます......」
花弁1枚を口に含むたびに、彩花のこれまで18年間の記憶が蘇り消えた。口に含んだ花弁の枚数分の記憶がフラッシュバックする。最後から4枚目を口に含むと15歳の時の記憶が蘇り、彩花の座るテーブルの上を青白い蝶が舞った。この部屋の窓とカーテンは閉められているが、開いている夕暮れのドーマーから光が差し込んでいる。夕暮れ5時に始まったこの儀式の時間では、赤い陽射しが差し込んでいた。今の時間になると陽は沈み、室内は月の光で青白く変わっている。ドーマーからは彩花の手元まで、冷たく気持ちの良い空気が流れ落ちてきた。
「もう少しで、アポトーシスを迎え転生します。宇宙にある全ての物に感謝し今ここから生まれ変わります。私に、新たなる未来をください……」
彩花は、転生終焉の儀式の言葉を述べながら、手を合せ心の中では新たに生まれ変わる世界での幸せを願った。
彩花の父 碧生が、扉を開け屋敷の中央にある森羅家のセンターリビングに入ってきた。彩花のテーブルの前に立ち、彩花を見つめると話し始める。
「彩花の18の誕生日が来てしまったね。これからが、美しく楽しい時期なのに済まない。一番下の子が、転生の儀式を迎える約束なんだけど、彩花しか子が居ないから……。これから『森羅家』の物語と『彩花の母』についての真実を伝えたい。彩花の母は、幼い頃に病気で亡くなったと伝えたよね……」
「お父様から、私が18の誕生日には18枚の赤い薔薇の花弁を食し転生するのだと聞いていました……。この儀式で、私はこれからどうなるの? どこに生まれ変わるの……」
「それは分からない。これは、私達の代々に伝わる森羅家の儀式なんだよ。今日、彩花は別な世界に生まれ変わる。ただ今回、歴代の儀式と一つだけ違う事は、彩花の母がここに居ないという事。本来は、最後の18枚目の花弁は、母と分け合い食するのだが、ここに母は居ない……」
「お父様、それでは彩花はどうすれば良いの?」
「儀式を続けよう。私達には、これから進むべき道と世界があるから」
彩花は、薔薇の花を食しながら、いよいよ18枚目の薔薇の花弁を二つに切り分ける。
その半分を彩花が口に運んだ。碧生は、その後の行動を遮るように彩花に告げた。
「私が愛した彩花の母は、そこに舞う碧色の蝶だったんだ。一つだけ青白い蝶の中に碧色の蝶が舞っているのが分かるかい? それが彩花のお母さんだよ。信じられないだろうが……」
彩花の周りを舞っている蝶を探し見つけると、そこには碧色に光る羽の蝶が舞っていた。他に舞う蝶達の羽は、月の光で深い青に輝き舞っていて微妙に色が違う。碧色の蝶は、ゆっくりと彩花が口に運んだ残り半分の花弁に留まり、口吻で突き刺し薔薇の花弁の液を吸った。他の蝶達は、彩花の周囲を祝うように上空を舞っている。
父 碧生が母のことを語り始めた。
「私は、大学の研究で北アルプスの山間部に入り、毎年1ヶ月程の泊まり込みで色々な蝶の採集をしている。ある日、他とは色が違う美しい蝶が飛んでいるのを見付けたんだ。採取後に私の研究室に持ち帰り飼育することにした。毎夜、その蝶を見つめる度に羽の色は、暗闇でも美しく-碧-青-紫-に変化した。その蝶の不思議な魅力と美しさに取り憑かれた私は、その蝶を愛してしまった。『君を愛しているよ……』と囁きながら、毎夜のようにオンザロックを飲む習慣が続いた。その蝶を失いたくないという思いから、生命の延長効果をもたらす研究中の新薬を投与する事にした。それからは、研究室内でその蝶を離し舞わせて楽しむようになった」
「その話が、どうしたの? 今の私にどんな関係が?」
「ある日、いつもの様に蝶を舞わせながら酒を味わっていると、疲れから酔いが回り朝まで寝てしまったんだ。明るくなると碧色の蝶は消えて、彩花のお母さん怜花が微笑んでいた。それからの彼女は、私の生活に寄り添ってくれてやがて妊娠した。それから彩花を育てながら1歳の誕生日を迎えた夜、怜花は碧色の蝶となって再び私の肩に止まった。それから、彼女は蝶として17年間ここで生きている」
「これが、お母様なの?」
驚いた様子でプレートの上に止まる碧色の蝶を見つめた。これで儀式の通り、17枚の薔薇の花弁を彩花が食し、最後の花弁は母子で食し無事終える事ができた。
「儀式が全て終わったね。彩花は、これからアポトーシスを迎え身体は消えて無くなるけど、バタフライ効果でどこか他の地域に幸せをもたらし転生すると思う。彩花、今まで楽しい時間をありがとう」
碧生から一筋の涙が零れ落ちた。
「私も、お父様とお母さまに見守られながら、楽しい時間を過ごせました。ありがとうございます……」
碧生と碧色の蝶になった母怜花に囁いた。蝶は羽ばたきながら上空を舞う。
センターリビングに架かる大きな時計の針が彩花の生まれた19時20分を指すと、身体の水分は揮発し全ての細胞が塵となり宙に飛散した。ドーマーからの風が吹き込むと、宙を舞う塵は吹き飛ばされ消えて無くなった。その瞬間、上空を羽ばたく碧色の蝶も動きを止めて白いプレートの上に落ちた。椅子にはセーラー服だけが残されセンターリビングの床に崩れ落ちた。
その小さな変化は、その瞬間にバタフライエフェクトとして、人口が減少している北アルプスの麓にある小さな村に届いていた。これまでに無い記録的な大出生に繋がり村は活気づいた。その村は、碧生が大学の研究で昆虫を採集しながら、毎年夏に民泊させてもらっている馴染のある村だ。その夏、碧生が村を訪れると何故か彩花が昇華転生した同日に、村内の家庭で計18人の子が産まれるという不思議な現象が起きていた事を聞いた。出生で届けられた名前には、何故かそれぞれ『彩』の一文字が全員に使われていたという。碧生が気になってその訳を聞いてみたが、お互いに話し合った事もなく分からないという。不思議な事象に、村の人々は『彩』の字を神社に奉納し感謝して祭ることにしたという。
碧生が泊めて貰っている家にも、その不思議な事象の中で生まれた女の子がいた。この数年間、村からの補助金など優遇措置と都会離れの流れもあり、急に『村で住みたい』『村に嫁ぎたい』などの若者が増えたのだという。そんな話を聞きながら、その家の若いお母さんが子供を連れて来た。碧生がその子を見つめていると微笑んで元気に手を差し出してくる。
「この子も『彩』の字が付いているんですよ。『彩花』と命名したんですが『さいか』と呼ばせます」
「お子さん、抱かせてもらっても良いですか?」
漢字も呼び方も同じだ。その子の身体を抱いて引き寄せると遠い懐かしい彩花の香りがした。その子の眼を見つめると、あの日に塵と消えた彩花と同じ碧色の眼をしていた。碧眼は日本人には珍しい。その時、碧生はこの子との出会いに感謝し、この子は彩花の生まれ変わりだと信じて疑わなかった。
「彩花ちゃん、こんな良いお家に生まれて来れて良かったね。お外の野山には綺麗なお花や蝶がいっぱいだよ。彩花ちゃんのママも居るのかな? おじちゃん、毎年ここに来るから一緒に遊ぼうね……」
1歳になったばかりで生まれ変わりの彩花は、碧生の頬に手を触れながら笑顔で嬉しそうに声を出した。碧生の目から頬に滲んだ涙が、その子の小さな指先を濡らした。