85.応急処置
マリアルザのいる拠点から離れること三キロ弱。
追撃がないことを確認したマキナは、荒野に佇む巨大な岩壁を発見すると徐々に減速して立ち止まり、抱えていたヘーニオをゆっくりと地面に下ろした。
ヘーニオは重い息を吐きながら岩に背を預けるようにしてその場に座り込むと、手探りで自身のバックパックを漁り出した。
その間にも、彼の分厚い防具の隙間からは絶えず赤い血が流れ落ちており、それを見たマキナは酷く落ち着きのない様子で彼の周囲をウロウロと動いていた。
「ヘーニオさん、大丈夫ですか!?あぁもう、なんで、なんで私気付けなかったんだろう!!私がもっとちゃんと警戒してれば……!!」
傷つくのは自分一人でいいはずだった。
自分の肉体ならどれだけ貫かれてもすぐに塞がるのに、どうして他人にこの痛みを背負わせてしまったのか、と。
兜の奥から漏れる声には、張り裂けそうな後悔と自責の念が滲み出ていた。
そんなパニックに陥りかけるマキナの隣で、ヘーニオは痛みを押し殺しながら、冷静に自身の傷口への対処を始めていた。
血に濡れた装備をひとしきり外すと、バックパックから医療キットを取り出し、中身を開封して手際よく道具を次々と広げる。
まず最初に滅菌された当て布に消毒液を染み込ませ、貫通した腹部の傷口の周りを拭う。強い薬液が裂けた生肉を容赦なく灼いていく。
次に出血を抑えるため、強力な止血作用を持つ薬草の粉末が入った小さな筒を取り出し、傷口の奥へ直接振りかける。
血の勢いが弱まったのを見計らうと、彼は医療用の湾曲針と絹糸を取り出し、躊躇うことなく己の生肉にぐさりと針を通していく。
一針、また一針と前面の傷を強引に縫い合わせ、それを終えると、ヘーニオは分厚い滅菌パッドにありったけの止血粉末を振りかけた。
体をわずかに捻って手探りで背中の熱い裂け目を見つけ出し、粉末を乗せたパッドを傷口に強く押し当てる。
そのままパッドを押さえ、清潔な長い包帯を手に取ると、前面と背面のパッドの両方を固定するように胴体をきつく縛り上げ、圧迫による止血を試みる。
結び目を金具で固定し、一連の応急処置を終えると、ヘーニオはゆっくりと長く息を吐いた。
ふと視線を向けると、そこには痛々しい治療の光景に耐えきれないような、心配そうな様子でこちらを見つめるマキナの姿があった。
「心配ありませんよ、マキナ様。応急処置ではありますが、治療は済みました。安静にしていれば問題はありません」
ヘーニオの痛みを隠した優しく諭すような言葉に、マキナは心底からの安堵の息を吐き出し、彼の隣の地べたに崩れ落ちるように座り込んだ。
「良かった……本当に……良かった」
微かに震える声と共に、マキナの肩から張り詰めていた糸がふっつりと切れる。
ヘーニオが続けて声を掛けようとするよりも早く、彼女はぽつりと、だが確かな意志を持って話し始めた。
「ヘーニオさん……もし、また同じ状況になっても、絶対に私を庇う必要はありません」
「……何故ですか」
その言葉にヘーニオの声のトーンが不自然なほど一段下がっていたが、マキナはそれに気付かずに続ける。
「私の肉体は、ダメージを負っても直ぐに再生します。傷の度合いに応じて多少の時間は要しますが、それでも直ぐに治ります。私が盾になれば誰も傷つかない。ですから……」
「自分の目の前で、傷付いて血を流す貴方を見過ごせ、とでも言うのですか」
そこでマキナは、ヘーニオの静かな声の奥底に、抑えきれない怒気が混ざっていることにようやく気が付いた。兜越しに視線を真っ直ぐ向けると、彼の纏う空気だけでその怒りが伝わってくる。
「え……あの、ヘーニオさん?」
「貴方は……貴方は自分の命を軽く見過ぎです。誰かが傷付くくらいなら、自分が傷付けば良い。自分が一人で苦しめばそれで丸く収まる。そうお考えではありませんか?」
マキナは言い返せない。
ヘーニオが怒っている点が自分の自己犠牲にあるのだという事は分かった。だが、彼女の常識に照らし合わせればそれは極めて合理的であり、怒る理由が分からないからだ。
「……なら、私にもこの医療キットがあります。このキットがある限り、私も身体の治療を施せます。であれば、私が傷付いても問題ありませんね」
「な、何を馬鹿なことを!! 率先して貴方が傷付く必要は無いはずです!! 誰かが……貴方が傷付く姿を見たくないから私はッ……!!」
「分かってるじゃありませんか」
ヘーニオが冷たく、しかしひどく切実に鋭く返すと、マキナはハッとしてピタリと反論を止めた。
自分の放った『貴方が傷付く姿を見たくない』という言葉がそのまま自分に跳ね返ってきたことに気づき、今の言葉を反芻させながら深く俯き始めた。
「マキナ様、貴方が仰ったことは確かに合理的で実用的かもしれません」
ヘーニオは荒げていた声を収め、優しく、しかし決して譲らない強い口調で「ですが……」と続けた。
「貴方が一人で傷付く姿に、心を痛める者もいるんです。私がその一人です。『スカラビア帝国』に来る前は、『エルゼルク王国』に居たことも聞いています。そこでも、貴方が血を流して傷付く姿を見て心を痛めた者がいるのではありませんか?」
ヘーニオの静かな問いかけに、マキナの脳裏を、グラップやガイル、シェリーの姿が鮮烈に過ぎる。
「マキナ様。貴方が他者の痛みを極端に恐れ、自分が盾になろうとするのは……貴方が誰よりも優しいからです。その自己犠牲に、これまでも幾人もの命が救われてきたのでしょう」
彼の言葉に、マキナはビクッと肩を揺らした。
「ですが、どうか知ってください。貴方のその優しさが貴方自身を傷つける刃となっていることに、心を切り裂かれる思いをしている人間がいることを……誰かを守るために傷だらけになる貴方を見て、守られた側にも己の無力さと悲しみを覚える人がいるんです」
ヘーニオの言葉には、ひどく切実な熱が籠もっていた。彼が今ぶつけた怒りと願いは、紛れもない真実だった。
その重みのある響きに、マキナの瞳が激しく揺れる。図星を突かれたように唇を震わせ、張り詰めていた心の奥底に、彼の言葉がじんわりと染み込んでいく。
間違っているのは自分の方なのかもしれないと、心は確かに大きく揺さぶられていた。
マキナは何かを口にしようと微かに唇を開き――しかし、結局は何の言葉も紡げぬまま、ぎゅっと自身の手を握りしめて深く俯いた。
彼女はどうしても、いまこの場で肯定の頷きを返すことができない。
長年一人で抱え込んできた自己犠牲の呪縛は、そう簡単に解けるものではないからだ。
しかし、重い沈黙の底で、言葉を返す代わりにマキナは微かに震える両手を上げ、自身の顔を覆っていた兜の留め具に手をかけた。
カチャリと冷たい金属音が鳴り、ゆっくりと、その重い兜を持ち上げる。
中から露わになったのは、汗に濡れて張り付いた茶色い髪と、涙を堪えて赤く腫らした瞳のただの一人の少女の素顔であった。
ヘーニオは、不意に現れたその痛々しくも可憐な素顔に一瞬だけ身体を固まらせるも、無言のまま示された彼女の覚悟を真っ直ぐに受け止め、直ぐに穏やかな雰囲気を取り戻してマキナの言葉を待った。
「私は……私はやっぱり、『英雄』である以上、自分を犠牲にしてでも戦うべきだと思います」
掠れた声で紡がれた言葉には、まだ長年の自己犠牲の呪縛が色濃く残っている。しかし、マキナはそこで一度深く息を吸い込み、潤んだ瞳でヘーニオを見つめて、「でも」と続けた。
「私のことを思い、私のために動いて下さる方がいることを、私はこの短期間で教えて貰いました。喪うのが、今はまだ怖くて……すぐに前を向けないけど……」
ポツリポツリと、心の奥から絞り出すように言葉を紡ぐ。
「でも、私がみんなを守りたいと想うように、みんなが私を想ってくれることを……その痛みを、ちゃんと受け止めてみようと思います」
兜を外したマキナの顔は、世界を背負う孤高の『英雄』などではなく、どこにでもいる年相応の少女の顔付きをしていた。
その不器用な決意に応えるように、ヘーニオは自身の血と泥で汚れた手を静かに伸ばし、マキナの震える小さな手を優しく、しかし確かな力強さで握りしめた。
分厚い手袋越しに伝わる温かな熱に、マキナの張り詰めていた肩の力がふっと抜けていく。
そしてヘーニオは、それまでの重く沈んだ空気を晴らすかのように、努めて明るい声で話題を変えた。
「さて、ではマリアルザ討伐のための作戦を考えましょうか!」
※本日の後書きはお休みさせていただきます
本日もお読みいただきありがとうございました。




