第四十三話 散る花は、あなたを想う
コンコン、コンコン
「燈花様?起きておいでですか?」
部屋からの返事はない。朝から何度か部屋の戸を叩いていた六鯨は、物音ひとつ聞こえない事を不審に思い、声をかけながらゆっくりと戸を開けた。
「燈花様?」
部屋の中には誰もいない。朝の淡い陽ざしの中で寝台の上に置かれた黄色のイチョウの葉に目が留まった。六鯨はゆっくり部屋の中に足を踏み入れると、イチョウの葉を手に取った。
「燈花様が書かれたものだ。“お世話になりました。感謝しきれません、どうかいつまでもお元気で”…なんでこんな置手紙があるんだ⁈どこに行ってしまわれたのだ⁈ま、まさか…斑鳩に?」
六鯨は慌てて部屋から飛び出すと、大声で漢人の名を叫びながら東門に走った。六鯨の叫び声を聞いた漢人が東門のすぐ奥にある小屋からひょっこり顔を出した。
「あ、漢人!燈花様を見たか?」
漢人はきょとんとした様子で目を丸くしながら顔を横に振った。
「大変だ、燈花様が居ないのだ。部屋にこんなものがあってな…」
六鯨が文字の書かれたイチョウの葉を見せた。それを読んだ漢人がすかさず答えた。
「イチョウの葉…そう言えば、昨日の夕方、猪手様がいらしたのです。お二人が神妙な顔で話をされていました。もしかすると、もう朝廷の軍が出陣したのでしょうか?」
漢人が両手を口に当て声を震わせた。
「そうなんだ、燈花様は斑鳩に向かった気がするんだよ。覚えているか?以前、馬を借りに来た時も斑鳩に行くと言っていただろう?」
「な、なんと…わざわざ戦場に出向くなんて…自ら命を落としに行くようなものです…」
「コラ漢人!滅多な事を言うもんじゃない!」
六鯨が顔をしかめると漢人が口をへの字にしてうなだれた。
「きっと、我々には計り知れない深い事情があるんだよ。急いで猪手様に知らせるんだ!」
漢人は大きくうなずくと、馬屋に向かい走った。
漢人を乗せた馬が都中を駆け抜けている。嶋宮にも甘樫丘の屋敷にも、もちろん朝廷にも猪手の姿はなかった。
漢人ががっくりと肩を落としながら飛鳥川沿いにゆっくり馬を走らせていると、豊浦大臣の屋敷に向かう道の手前に猪手の馬がつながれているのが見えた。漢人は急いで馬をおりると、豊浦大臣の屋敷に走り庭門を叩いた。
「猪手様!猪手様!」
屋敷の中から猪手が顔を出した。
「猪手様大変です!大変なのです!」
飛び出してきた猪手に全ての事情を話していくうちに、彼の顔はみるみる青ざめていった。
「今、若様は大市宮で古人皇子様と一緒に居るのだ、なんてことなんだ!今すぐに若様のもとに向かうから、そなたは橘宮に戻れ、それと…」
猪手は頭をかきむしりながら一度屋敷の中に入ると、木箱を手に戻ってきた。
「これをしばらく預かってくれ」
「これは燈花様の木箱ですよね?」
見覚えのある木箱を前に漢人が目を丸くした。
「そなた知っているのか⁈」
猪手は安心したように胸をなでおろすと、早口で言った。
「そうなんだ、若様に渡すように頼まれたが昨晩、私は毛人様と一緒にいて渡せなかったのだ。しかも今、それどころではない。帰ってきたらすぐに取りにいくから橘宮で厳重に保管してくれ」
「はっ、承知いたしました」
漢人が木箱を受け取ると、猪手は青ざめたままさっと馬の背にまたがり手綱をひいた。彼のかけ声と共に馬は勢いよく駆け出した。
大市宮に着くと
「若様!若様!」
猪手は声を張り上げながら、宮の敷地内を駆け抜けた。古人皇子の部屋の近くまで来たところで、廊下の先から林臣が現れた。
「猪手、随分と早く来たではないか」
林臣が悠長に答えると、
「若様、大変な事が起りました!と、燈花様が、燈花様が…」
猪手のただならぬ様子に、すぐに林臣の顔から笑みが消えた。
「落ち着け猪手、燈花がどうしたのだ?」
猪手は一瞬ためらった後、力無く答えた。
「燈花様が斑鳩に向かわれました」
「こ、こんな時に斑鳩に⁈そんな馬鹿げた話は信じぬぞ。燈花は橘宮で厳重に守らせているではないか!」
一瞬ぽかんと呆気に取られていた林臣だが、すぐに真顔になり声を荒げた。
「明け方こっそり宮を抜け出されたようなんです…」
「そ、そんな馬鹿な…なんの為に斑鳩なんて…まさか山代王様のもとに?」
林臣が顔をしかめて猪手を見ると、
「理由はわかりませんが、全て誤解なのです。若様が勘違いされているだけなのです!
さぁすぐに燈花様を連れ戻しに行きましょう、徒歩で向かっているはずなのでまだ追いつくはずです!」
猪手の必死の訴えに応える事なく、林臣は眉間にシワを寄せたまま黙っている。
「若様!燈花様を信じられぬのですか?燈花様がどうなっても良いのですか?」
猪手がすがるように林臣の袖をつかんで泣き崩れた。
「馬鹿を言うな、燈花は私の生きる全てだ…なのに、なぜ山代王を…」
林臣が拳を固く結び石のように固まった。
「若様、そんなに燈花様を愛されてるのに、なぜ疑うのですか!!」
猪手の悲痛な訴えにも、林臣はまだ押し黙ったまま背を向け動かない。
「…若様が助けにいかぬのであれば、私が代わりに行って参ります」
猪手は唇を嚙みしめ立ち上がると、馬の手綱をとり飛び乗った。彼の掛け声と共に馬は勢いよく走り出した。
土埃の舞う中、林臣はその場に立ち尽くしていた。
どの辺まで来ただろうか。厚い雲で覆われた空は今にも雨が降り出しそうだ。遠くに小さな笹薮が見えさらに奥に林が広がっている。前回、馬を走らせてここを通り過ぎた時は、明るい日差しの中でさほど気にならなかったが、今日は暗い雲の下で林が鬱蒼として見えた。
笹薮に入った瞬間、突然風が強くなり、笹の葉がザワザワと音をたてた。林から飛んでくる黄色い葉がはらはらと空を舞い、地面の落ち葉と交じり合った。ドォォと風が林の中を抜けると、みるみるうちに辺りは暗くなり雨がポツリポツリと降り出した。
遠くから、勇ましい男の声が聞こえ足を止めた。暗く周りが見えにくい状況は返って好都合かもしれない。私は体をかがませながら道の端を再び歩き始めた。声がはっきりと聞こえてくる。道を左に大きく曲がった先で朝廷の兵らの後ろ姿が見えた。私は彼らに見つからないようにこっそり木の陰に身を潜めた。
彼らに見つからずに山代王様の陣営までたどり着く事が出来るだろうか?無謀すぎる事は十分わかっている…けど、もうこうするしか他に方法がない…
私は空を見上げると、広がる黒雲と雨風が上手く私を隠してくれる事を祈った。
道の先がふたまたに分かれている。しばらくすると軍勢は二手に分かれて進み始めた。本陣らしき先頭に林臣の配下である巨勢徳多が軍を率いているのが見えた。
彼らが何かを捕らえるかのようにゆっくりと前へ進んでいく。林を抜けた先の右方に枯草の丘が見え、その斜面を何人もの兵が弓を引きしぼりながら進んで行くのが見えた。私は身をかがめ木の影に隠れながら慎重に近づいた。
突然、枯草の丘の向こう側から荒々しい声が聞こえてきた。
「そこに居るのはわかっている!出てこい!」
徳多はゆっくり立ち上がると、敵陣に見えるように丘の上まで歩き、背後にいた弓兵に合図を送り彼らを先頭に並ばせた。弓兵が矢をおろすと大声で叫んだ。
「帝から命を受けて来ている。もう一度話がしたい!山代王はいずれにおいでだ!」
「馬鹿を言うな、そんな要求には答えられぬ!」
山代王側の兵が即答した。
私は丘の外側の人気がない方に回り込むと、刈り取られた藁の束の後ろに隠れた。緊張で鼓動は速くなり喉はカラカラだ。私は大きく深呼吸したあと、藁の山のはしから前を覗き込むようにゆっくりと顔を出した。
遠くに相手陣営が見える。やはり山代王様が率いる軍勢だ。互いに睨み合いが続く中、中央に冬韻らしき姿が見え、その少し後ろに山代王の姿が見えた。二人とも甲冑に身を包み弓矢を持ち腰には剣をたずさえている。何人もの弓兵が彼らの前で弓を構えていた。私はすぐに顔を引っ込めた。
あぁ、どうしよう、もう間に合わない…でも、さっきから互いに見合っているだけで戦が始まる気配がない…まだ山代王様と話せるかも…
こんな場面、何度生まれ変わっても、そうそう遭遇することはない。二度と御免だ。でも、きっとやれる。私は自分を奮い立たせると顔を上げ、前を見据えた。
しばらく両者の押し問答が続き、少しの沈黙のあと徳多が口火を切った。
「話し合いが出来ぬのであれば致し方ないこと。この矢をお受けください!」
徳多が手を上げると、丘の斜面に隠れていた数名の弓兵が矢を弓につがえた。
「駄目よ!!」
私は大声を上げ両手を広げながら飛び出した。けれど既に射放なたれた矢は空高く飛び弧を描きながら山代王の陣営に向け落ちていった。
「山代王様!!」
ワァァァと雄たけびが上がり、すぐに山代王が率いる陣営からも数本の矢が射放たれた。私はなんとか徳多が私の姿を確認出来る距離までくると、両手を大きく広げ今すぐに止めるように訴えた。
両陣営の兵達がどよめく中、
「燈花!!」
山代王が叫び軍勢の先頭へと歩み出た。
その瞬間、
「や、山代王だぞ!撃て!」
徳多の合図で兵が一斉に矢を放ち、そのうちの一矢が彼に向け真っすぐに飛んで行った。冬韻が直前で山代王を守るようにに覆いかぶさると矢は冬韻の肩に命中した。
「冬韻!!」
山代王が叫んだ。
「なんだ、あの女!蘇我の女ではないか!」
うずくまる冬韻を支える山代王の横で、私を見た兵が弓を構え矢をつがえた。それに気が付いた山代王が叫ぶ、
「やめろ!撃つな!」
兵から放たれた一矢は、風を切って飛び私の胸にあたった。矢竹の半ばまで突き刺さり私はその場に倒れた。生温かい物が流れる。反射的に撫でてみると手のひらが真っ赤に染まっていた。
「と、燈花!燈花!」
山代王の叫び声が聞こえ、その後ろで側近の三輪が大声で号令を出した。
「退却!!ひとまず退却だ!!退けー退けー」
山代王側の軍勢はどよめきながら一歩一歩後退し、冬韻と山代王の二人を取り囲むように退却して行った。
相手の陣営を追おうと徳多が手を上げた所で猪手が間に飛び込んできた。
「やめろ!やめろ!やめんか!林臣様の命だぞ!!」
猪手の呼びかけを聞いた兵達がその場に立ち止まった。猪手は私のもとに一目散にかけてくると、私の体を抱き上げた。
「燈花様…なんてことに…」
「猪手…」
泣きそうな彼を見て言った。
「林臣様は手紙見たかしら…」
こんな状況下で馬鹿げた質問かもしれないが、思い浮かぶのは彼の事だけだった。
「じ、実はそれが、ま、まだ渡せていな…」
「…まだ…怒ってるのね…」
私は猪手の言葉を遮った。
「…許してはくれない…」
「違うのです!そうではないのです!すぐに若様は来られます!!もう少しの辛抱です!」
泣きじゃくる猪手が嘘をついている事は、その顔を見ればすぐに分かった。
「良かった…来させないで…絶対にダメよ…」
意識が遠のいていく。
「と、燈花様!しっかりしてください!誰か!医官はいるか!医官はいるか!」
目の前で猪手が悲鳴のような大声をあげている。私は、目を閉じ最後の力を振り絞った。
「これでいい…これでいいの…」
「と、燈花様!死んではなりません!!燈花様!」
ザザァ、ザザァ…雨は激しさを増し大きな音を耳元で立てた。
「林臣…波の音が聞こえるわね…」
私の声はだんだんと小さくなり、薄れゆく意識の中で夢を見ていた。
私は難波の海で浜辺に座り沈む夕日を見ている。オレンジ色にキラキラと光る水面に、白い帆を上げ岸に向かってくる一隻の船が見える。その手前の浜で林臣が待ち構えるように両腕を組み立っている。夕陽に照らされた美しい海を背景に、彼は振り返ると私を見て微笑んだ…
その瞬間、冷たくなった私の手が胸から滑り落ちた。
出会わなければ、恋に落ちることもなかった。
深く知らなければ、愛することもなかった…
「燈花様!!燈花様!!」
強風と激しい雨の中、猪手が泣き叫んでいる。
ザッザッザッ…ヒヒィ~ン!!
激しい馬のひずめの音と共に林臣が現れ馬から飛び降りた。ぬかるみに足を取られ泥まみれになりながら、林臣が走ってきた。
「と、燈花…燈花…」
林臣が猪手の腕から私の体を抱き上げた。
「やめてくれ!!頼む!私を残して逝かないでくれ!」
林臣の悲痛な叫び声は強風に吹き消され、激しい雨粒の音だけが彼の心に共鳴するように響いた。
辺りが暗くなるにつれ雨脚が弱まり、長らく沈黙していた林臣が口を開いた。
「猪手、燈花を私の屋敷に連れて帰ってくれ。優しく丁寧にな…」
「…はっ、はい…」
猪手が泣きながら頷くと、
「燈花、先に屋敷に帰っていて…」
林臣は私の頬を優しく撫で、胸に刺さった矢を手前で折ると草むらの泥水の中に投げ捨てた。山代王の軍勢はとっくに退却し、雨が止んだ静寂の中、折れた矢が何本か草の上に落ちているだけだった。
「徳多、弓と矢をかせ…」
「えっ⁈」
猪手が目を見開いた。
「若様なりません、燈花様はこの戦を望んでおられません!行ってはいけないと最後まで訴えておいででした!」
林臣の目は暗闇の中で冷たく光り、無言のまま徳多を睨んだ。
「徳多、聞えぬのか!弓矢を渡せ!」
「はっ!!」
林臣は弓矢を受け取ると馬に飛び乗り大声で叫んだ。
「皆の者、ついて参れ!!」
林臣の掛け声に軍勢が続き、漆黒の闇の中に消えて行った。
晴れているのに凍えるような寒さだ。林臣が屋敷の縁側の柱にもたれて座っている。食事もとらず着換えもせず、あの日から彼の時間は止まったままだ。数日間、林臣が正気を取り戻すまで見守っていた猪手だったが、日に日に衰弱していく林臣の姿に限界を感じそっと隣に座った。
「若様、これ燈花様から渡して欲しいと預かっていたものです」
猪手が木箱を林臣に差し出した。林臣は虚ろな目でその木箱を受け取り、ゆっくりと開いた。中には瑪瑙の髪飾りとイチョウの葉で綴られた手紙がある。林臣は震える手でそれらを取り出すとイチョウの葉に書かれた文字に目を通した。
「なんで、こうなったのだ…燈花、燈花、私が全て悪かった…許してくれ…」
もうこれ以上痛むことがないと思っていた胸に、突き刺すような痛みが走る。心を失ったこの胸の穴がふさがることはないだろう。林臣は瑪瑙の石を握ったまま再び嗚咽を上げ泣き崩れた。
ピピッ、ピピッ、ピピッ…
あぁ、眩しい…なぜこんなに眩しいんだろう…
「燈花ちゃん?燈花ちゃん?ママ!ママ!燈花ちゃんが…」
パタパタと耳もとで誰かが駆け抜ける音が聞こえ私は再び重い瞼を閉じた。




